73 / 76
第4章 『水とともに生きる:後編』
第12話 アナグラム
しおりを挟む
三人の視線が集中する。
「そ、それだけって……クリスさん?」
押し黙るマコトさんに代わって、私が踏み込む。
するとクリスさんは、机上に置かれた例の絵を、正しくはその一部分を指さした。
「差し出がましいこととは存じますが――これは、貴方の心の叫びだったのではありませんか?」
クリスさんの指さすそれは、絵の上部に書かれた『M note』の文字列。
それはジブリールさんが、二人のイニシャルから取った、二人だけのノートだからとマコトさんが名付けた、と言っていたものだ。
心の叫び、と確かに口にしたけれど、一体……。
しかし、クリスさんの指摘には何も返さないマコトさん。
黙っているということは、それが正解であれ不正解であれ、思うところはあるという何よりの証拠。その閉ざされた口に代わって、クリスさんはバッグからメモ帳とペンを取り出した。
そうしてサラリとペンを滑らせながら、声だけで続ける。
「ジブリールさんは知らないことかと存じますが、雫さんは『江州弁』というものをご存知でしょうか?」
「ごうしゅう……いえ。どこの方言ですか?」
「滋賀県です。有名なものですと『どんつき』や『ようけ』、『よばれる』といった言葉もそれに該当します」
「えっ、それってただの関西弁ではなかったんですか?」
「一説には、ですが。それぞれ『突き当り』『たくさん』『食べる』を意味する江州弁、あるいは近江弁や滋賀弁と称されることもあります。が、重要なのはそこではありません。ここ沖島では江州弁を、それも滋賀県民でさえ今ではあまり使わない言葉を使用していることでも有名なんですよ」
どういうことですか、と聞くと、答える代わりにメモ用紙を持ち上げて見せて来た。
そこには、達筆な字で『もんて……戻って来る』と書かれていた。
「もんて、という言葉があるんですか?」
「ええ。戻って来る、という意味の江州弁です。が、雫さん、これを見て何か気が付きませんか?」
「何か……?」
私は目を凝らし、それを注意深く観察した。が、そこにはただ『もんて』と書かれているだけで、それ以外の意味を見出すことは出来ない。
音を上げかけたその時、クリスさんはその文字の下に小さく、わざとらしく間隔を空けて『m o n t e』と書き足した。
「もん、て……違う、エム・ノートだ!」
クリスさんが、大きく頷いた。
「そう。もんて、という言葉をローマ字に起こし、それを入れ替えたアナグラム――二人の名前が丁度エムから始まる、などというのは後付け、いえ、こじつけだった。そもそもマルベローニは苗字、マコトは名前ですから、どうして苗字同士、名前同士で取らなかったのかと、注意深く考えればおかしいことは瞭然です」
クリスさんはそこで、優しい声音に変わった。
「口ではそう言いながらも、ジブリールさんがもし難しい謎を解けないのであれば、いずれ僕の方からヴェネツィアに戻る――必ず戻って来る。胸の内に秘めたぐちゃぐちゃしたものがスッキリした、その後にでも。そういうつもりで『もんて』と書いたのではありませんか?」
いかがでしょう。そう付け加えるクリスさんに、マコトさんは観念したように深い息を吐いた。
「さすがは近江のクリスティ、といったところでしょうか。まさか、その謎かけまで解かれてしまうとは、恐れ入りました」
困ったように笑いながら、マコトさんは頭を搔いた。
「でも、どうして分かったのです? 苗字と名前という齟齬の点から不振に思っても、『もんて』と『M note』がアナグラムになっているなどとは、普通は想像もつきませんよね?」
「あら、その理由については、貴方の方が聞かれたくないと思っているものかと想像していたのですが」
「僕の方から? 何を――」
「だって、アナグラムだってすぐに気付ける謎も、貴方はちゃんとご自分で残しているではありませんか。そうでしょう、『外江こまき』さん?」
「そ、それだけって……クリスさん?」
押し黙るマコトさんに代わって、私が踏み込む。
するとクリスさんは、机上に置かれた例の絵を、正しくはその一部分を指さした。
「差し出がましいこととは存じますが――これは、貴方の心の叫びだったのではありませんか?」
クリスさんの指さすそれは、絵の上部に書かれた『M note』の文字列。
それはジブリールさんが、二人のイニシャルから取った、二人だけのノートだからとマコトさんが名付けた、と言っていたものだ。
心の叫び、と確かに口にしたけれど、一体……。
しかし、クリスさんの指摘には何も返さないマコトさん。
黙っているということは、それが正解であれ不正解であれ、思うところはあるという何よりの証拠。その閉ざされた口に代わって、クリスさんはバッグからメモ帳とペンを取り出した。
そうしてサラリとペンを滑らせながら、声だけで続ける。
「ジブリールさんは知らないことかと存じますが、雫さんは『江州弁』というものをご存知でしょうか?」
「ごうしゅう……いえ。どこの方言ですか?」
「滋賀県です。有名なものですと『どんつき』や『ようけ』、『よばれる』といった言葉もそれに該当します」
「えっ、それってただの関西弁ではなかったんですか?」
「一説には、ですが。それぞれ『突き当り』『たくさん』『食べる』を意味する江州弁、あるいは近江弁や滋賀弁と称されることもあります。が、重要なのはそこではありません。ここ沖島では江州弁を、それも滋賀県民でさえ今ではあまり使わない言葉を使用していることでも有名なんですよ」
どういうことですか、と聞くと、答える代わりにメモ用紙を持ち上げて見せて来た。
そこには、達筆な字で『もんて……戻って来る』と書かれていた。
「もんて、という言葉があるんですか?」
「ええ。戻って来る、という意味の江州弁です。が、雫さん、これを見て何か気が付きませんか?」
「何か……?」
私は目を凝らし、それを注意深く観察した。が、そこにはただ『もんて』と書かれているだけで、それ以外の意味を見出すことは出来ない。
音を上げかけたその時、クリスさんはその文字の下に小さく、わざとらしく間隔を空けて『m o n t e』と書き足した。
「もん、て……違う、エム・ノートだ!」
クリスさんが、大きく頷いた。
「そう。もんて、という言葉をローマ字に起こし、それを入れ替えたアナグラム――二人の名前が丁度エムから始まる、などというのは後付け、いえ、こじつけだった。そもそもマルベローニは苗字、マコトは名前ですから、どうして苗字同士、名前同士で取らなかったのかと、注意深く考えればおかしいことは瞭然です」
クリスさんはそこで、優しい声音に変わった。
「口ではそう言いながらも、ジブリールさんがもし難しい謎を解けないのであれば、いずれ僕の方からヴェネツィアに戻る――必ず戻って来る。胸の内に秘めたぐちゃぐちゃしたものがスッキリした、その後にでも。そういうつもりで『もんて』と書いたのではありませんか?」
いかがでしょう。そう付け加えるクリスさんに、マコトさんは観念したように深い息を吐いた。
「さすがは近江のクリスティ、といったところでしょうか。まさか、その謎かけまで解かれてしまうとは、恐れ入りました」
困ったように笑いながら、マコトさんは頭を搔いた。
「でも、どうして分かったのです? 苗字と名前という齟齬の点から不振に思っても、『もんて』と『M note』がアナグラムになっているなどとは、普通は想像もつきませんよね?」
「あら、その理由については、貴方の方が聞かれたくないと思っているものかと想像していたのですが」
「僕の方から? 何を――」
「だって、アナグラムだってすぐに気付ける謎も、貴方はちゃんとご自分で残しているではありませんか。そうでしょう、『外江こまき』さん?」
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
リモート刑事 笹本翔
雨垂 一滴
ミステリー
『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。
主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。
それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。
物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。
翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?
翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!
よんよんまる
如月芳美
キャラ文芸
東のプリンス・大路詩音。西のウルフ・大神響。
音楽界に燦然と輝く若きピアニストと作曲家。
見た目爽やか王子様(実は負けず嫌い)と、
クールなヴィジュアルの一匹狼(実は超弱気)、
イメージ正反対(中身も正反対)の二人で構成するユニット『よんよんまる』。
だが、これからという時に、二人の前にある男が現われる。
お互いやっと見つけた『欠けたピース』を手放さなければならないのか。
※作中に登場する団体、ホール、店、コンペなどは、全て架空のものです。
※音楽モノではありますが、音楽はただのスパイスでしかないので音楽知らない人でも大丈夫です!
(医者でもないのに医療モノのドラマを見て理解するのと同じ感覚です)
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
薬師シェンリュと見習い少女メイリンの後宮事件簿
安珠あんこ
キャラ文芸
大国ルーの後宮の中にある診療所を営む宦官の薬師シェンリュと、見習い少女のメイリンは、後宮の内外で起こる様々な事件を、薬師の知識を使って解決していきます。
しかし、シェンリュには裏の顔があって──。
彼が極秘に進めている計画とは?
伏線回収の夏
影山姫子
ミステリー
ある年の夏。俺は15年ぶりにT県N市にある古い屋敷を訪れた。某大学の芸術学部でクラスメイトだった岡滝利奈の招きだった。かつての同級生の不審死。消えた犯人。屋敷のアトリエにナイフで刻まれた無数のXの傷。利奈はそのなぞを、ミステリー作家であるこの俺に推理してほしいというのだ。俺、利奈、桐山優也、十文字省吾、新山亜沙美、須藤真利亜の六人は、大学時代にこの屋敷で共に芸術の創作に打ち込んだ仲間だった。グループの中に犯人はいるのか? 脳裏によみがえる青春時代の熱気、裏切り、そして別れ。懐かしくも苦い思い出をたどりながら事件の真相に近づく俺に、衝撃のラストが待ち受けていた。
《あなたはすべての伏線を回収することができますか?》
猫の罪深い料理店~迷子さんの拠り所~
碧野葉菜
キャラ文芸
アラサー真っ只中の隅田川千鶴は仕事に生きるキャリアウーマン。課長に昇進しできない男たちを顎で使う日々を送っていた。そんなある日、仕事帰りに奇妙な光に気づいた千鶴は誘われるように料理店に入る。
しかしそこは、普通の店ではなかった――。
麗しの店主、はぐれものの猫宮と、それを取り囲む十二支たち。
彼らを通して触れる、人と人の繋がり。
母親との確執を経て、千鶴が選ぶ道は――。
みちのく銀山温泉
沖田弥子
キャラ文芸
高校生の花野優香は山形の銀山温泉へやってきた。親戚の営む温泉宿「花湯屋」でお手伝いをしながら地元の高校へ通うため。ところが駅に現れた圭史郎に花湯屋へ連れて行ってもらうと、子鬼たちを発見。花野家当主の直系である優香は、あやかし使いの末裔であると聞かされる。さらに若女将を任されて、神使の圭史郎と共に花湯屋であやかしのお客様を迎えることになった。高校生若女将があやかしたちと出会い、成長する物語。◆後半に優香が前の彼氏について語るエピソードがありますが、私の実体験を交えています。◆第2回キャラ文芸大賞にて、大賞を受賞いたしました。応援ありがとうございました!
2019年7月11日、書籍化されました。

煌めく世界へ、かける虹
麻生 創太
キャラ文芸
ごく普通の高校生・中野 文哉。幼い頃から絵を描くことが大好きな彼は放課後、親友の渡橋 明慶と一緒に街の風景を描く為に散歩へ出かける。その先で青い宝石のついた指輪を見つけた文哉。すると、いきなり正体不明の怪物が出現した。何が起きたのかも分からず絶体絶命となったそのとき、文哉が持っていた指輪が光りだして──。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる