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第4章 『水とともに生きる:後編』
第12話 アナグラム
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三人の視線が集中する。
「そ、それだけって……クリスさん?」
押し黙るマコトさんに代わって、私が踏み込む。
するとクリスさんは、机上に置かれた例の絵を、正しくはその一部分を指さした。
「差し出がましいこととは存じますが――これは、貴方の心の叫びだったのではありませんか?」
クリスさんの指さすそれは、絵の上部に書かれた『M note』の文字列。
それはジブリールさんが、二人のイニシャルから取った、二人だけのノートだからとマコトさんが名付けた、と言っていたものだ。
心の叫び、と確かに口にしたけれど、一体……。
しかし、クリスさんの指摘には何も返さないマコトさん。
黙っているということは、それが正解であれ不正解であれ、思うところはあるという何よりの証拠。その閉ざされた口に代わって、クリスさんはバッグからメモ帳とペンを取り出した。
そうしてサラリとペンを滑らせながら、声だけで続ける。
「ジブリールさんは知らないことかと存じますが、雫さんは『江州弁』というものをご存知でしょうか?」
「ごうしゅう……いえ。どこの方言ですか?」
「滋賀県です。有名なものですと『どんつき』や『ようけ』、『よばれる』といった言葉もそれに該当します」
「えっ、それってただの関西弁ではなかったんですか?」
「一説には、ですが。それぞれ『突き当り』『たくさん』『食べる』を意味する江州弁、あるいは近江弁や滋賀弁と称されることもあります。が、重要なのはそこではありません。ここ沖島では江州弁を、それも滋賀県民でさえ今ではあまり使わない言葉を使用していることでも有名なんですよ」
どういうことですか、と聞くと、答える代わりにメモ用紙を持ち上げて見せて来た。
そこには、達筆な字で『もんて……戻って来る』と書かれていた。
「もんて、という言葉があるんですか?」
「ええ。戻って来る、という意味の江州弁です。が、雫さん、これを見て何か気が付きませんか?」
「何か……?」
私は目を凝らし、それを注意深く観察した。が、そこにはただ『もんて』と書かれているだけで、それ以外の意味を見出すことは出来ない。
音を上げかけたその時、クリスさんはその文字の下に小さく、わざとらしく間隔を空けて『m o n t e』と書き足した。
「もん、て……違う、エム・ノートだ!」
クリスさんが、大きく頷いた。
「そう。もんて、という言葉をローマ字に起こし、それを入れ替えたアナグラム――二人の名前が丁度エムから始まる、などというのは後付け、いえ、こじつけだった。そもそもマルベローニは苗字、マコトは名前ですから、どうして苗字同士、名前同士で取らなかったのかと、注意深く考えればおかしいことは瞭然です」
クリスさんはそこで、優しい声音に変わった。
「口ではそう言いながらも、ジブリールさんがもし難しい謎を解けないのであれば、いずれ僕の方からヴェネツィアに戻る――必ず戻って来る。胸の内に秘めたぐちゃぐちゃしたものがスッキリした、その後にでも。そういうつもりで『もんて』と書いたのではありませんか?」
いかがでしょう。そう付け加えるクリスさんに、マコトさんは観念したように深い息を吐いた。
「さすがは近江のクリスティ、といったところでしょうか。まさか、その謎かけまで解かれてしまうとは、恐れ入りました」
困ったように笑いながら、マコトさんは頭を搔いた。
「でも、どうして分かったのです? 苗字と名前という齟齬の点から不振に思っても、『もんて』と『M note』がアナグラムになっているなどとは、普通は想像もつきませんよね?」
「あら、その理由については、貴方の方が聞かれたくないと思っているものかと想像していたのですが」
「僕の方から? 何を――」
「だって、アナグラムだってすぐに気付ける謎も、貴方はちゃんとご自分で残しているではありませんか。そうでしょう、『外江こまき』さん?」
「そ、それだけって……クリスさん?」
押し黙るマコトさんに代わって、私が踏み込む。
するとクリスさんは、机上に置かれた例の絵を、正しくはその一部分を指さした。
「差し出がましいこととは存じますが――これは、貴方の心の叫びだったのではありませんか?」
クリスさんの指さすそれは、絵の上部に書かれた『M note』の文字列。
それはジブリールさんが、二人のイニシャルから取った、二人だけのノートだからとマコトさんが名付けた、と言っていたものだ。
心の叫び、と確かに口にしたけれど、一体……。
しかし、クリスさんの指摘には何も返さないマコトさん。
黙っているということは、それが正解であれ不正解であれ、思うところはあるという何よりの証拠。その閉ざされた口に代わって、クリスさんはバッグからメモ帳とペンを取り出した。
そうしてサラリとペンを滑らせながら、声だけで続ける。
「ジブリールさんは知らないことかと存じますが、雫さんは『江州弁』というものをご存知でしょうか?」
「ごうしゅう……いえ。どこの方言ですか?」
「滋賀県です。有名なものですと『どんつき』や『ようけ』、『よばれる』といった言葉もそれに該当します」
「えっ、それってただの関西弁ではなかったんですか?」
「一説には、ですが。それぞれ『突き当り』『たくさん』『食べる』を意味する江州弁、あるいは近江弁や滋賀弁と称されることもあります。が、重要なのはそこではありません。ここ沖島では江州弁を、それも滋賀県民でさえ今ではあまり使わない言葉を使用していることでも有名なんですよ」
どういうことですか、と聞くと、答える代わりにメモ用紙を持ち上げて見せて来た。
そこには、達筆な字で『もんて……戻って来る』と書かれていた。
「もんて、という言葉があるんですか?」
「ええ。戻って来る、という意味の江州弁です。が、雫さん、これを見て何か気が付きませんか?」
「何か……?」
私は目を凝らし、それを注意深く観察した。が、そこにはただ『もんて』と書かれているだけで、それ以外の意味を見出すことは出来ない。
音を上げかけたその時、クリスさんはその文字の下に小さく、わざとらしく間隔を空けて『m o n t e』と書き足した。
「もん、て……違う、エム・ノートだ!」
クリスさんが、大きく頷いた。
「そう。もんて、という言葉をローマ字に起こし、それを入れ替えたアナグラム――二人の名前が丁度エムから始まる、などというのは後付け、いえ、こじつけだった。そもそもマルベローニは苗字、マコトは名前ですから、どうして苗字同士、名前同士で取らなかったのかと、注意深く考えればおかしいことは瞭然です」
クリスさんはそこで、優しい声音に変わった。
「口ではそう言いながらも、ジブリールさんがもし難しい謎を解けないのであれば、いずれ僕の方からヴェネツィアに戻る――必ず戻って来る。胸の内に秘めたぐちゃぐちゃしたものがスッキリした、その後にでも。そういうつもりで『もんて』と書いたのではありませんか?」
いかがでしょう。そう付け加えるクリスさんに、マコトさんは観念したように深い息を吐いた。
「さすがは近江のクリスティ、といったところでしょうか。まさか、その謎かけまで解かれてしまうとは、恐れ入りました」
困ったように笑いながら、マコトさんは頭を搔いた。
「でも、どうして分かったのです? 苗字と名前という齟齬の点から不振に思っても、『もんて』と『M note』がアナグラムになっているなどとは、普通は想像もつきませんよね?」
「あら、その理由については、貴方の方が聞かれたくないと思っているものかと想像していたのですが」
「僕の方から? 何を――」
「だって、アナグラムだってすぐに気付ける謎も、貴方はちゃんとご自分で残しているではありませんか。そうでしょう、『外江こまき』さん?」
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