琵琶のほとりのクリスティ

石田ノドカ

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第4章 『水とともに生きる:後編』

第6話 絵と文字の謎

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 水郷めぐりの間、ジブリールさんはずっと浮かない顔をしていた。
 遠い異国の地に思いを馳せているのか、あるいは彼方に待つ人を思っているのか。
 船頭さんの説明には頷くことも、またそちらに視線を向けることもあまりなかった。
 ジブリールさんの様子を、始めは気に掛けていた様子の先導さんだったけれど、その容姿や雰囲気から日本語があまり堪能ではないのだろうと思ったのか、やがて視線の大半は私たちに向かうこととなった。

 水郷めぐりを終え、淡海へと戻る際に立ち寄った件の橋で、ジブリールさんはまた足を止めて溜息を吐いた。例の男の子のことを考えていたのだろう。
 きっと、頭の中であのメモのことを思い浮かべ、考え、しかし答えに辿り着けなくて気分が下がってしまっている。

 そんな彼女の様子を、私とクリスさんは、何を言うでもなくただ見つめていた。
 下手に言葉を掛けるのは何か違う。そんなことを、クリスさんも思っていたのかも知れない。
 ただ、たまに何かを思いだしそうな、懐かしむような表情が浮かんでいたことに関しては、収穫もあったと言って良いだろうと思う。

 淡海に戻ると、珠子さんがジェラートと共に出迎えてくれた。
 淡海にないそのメニューは、珠子さんの気遣いだった。
 ヴェネツィアのジェラートは有名だ。さほど詳しくない私でも知っている。
 隣のカップにはカフェ・ラテ。これも、ヴェネツィア由来のものだ。
 カフェ・ラテは、ヴェネツィアと言えばな観光スポット、サン・マルコ広場にある、創業から約百五十年を迎える老舗『カフェ・フローリアン』が開発したものだ。
 お客を楽しませる為にはただブラックの珈琲を提供するだけではつまらない、といった理由から、新しいドリンクの開発中に、牛乳で割ったカフェ・ラテが誕生したとされている。

 カフェ・ラテとは、エスプレッソに牛乳を合わせたもの。ドリップ珈琲に牛乳を加えた『カフェオレ』とは似て非なるものなのだ。
 ちなみに、エスプレッソは専用の機械で圧を加えながら短時間で仕上げる珈琲、ドリップはフィルターを使いお湯を少しずつ注いでじっくりと時間をかけて作る珈琲だ。
 珈琲と湯の割合も、前者は約一対二、後者は約一対十五になる。
 マスターがその手で豆を挽き、湯を注ぐことで提供される『淡海』のブレンドは、ドリップ珈琲の部類に入る。
 けれども今回は、クリスさんではなく、珠子さんの製作。それも、エスプレッソ。
 カウンターにエスプレッソマシンが置いてあるところは見た事がない。
 倉庫から取り出したか、或いは新たに買い足したか――何れにしても、その気遣いが随所に見て取れる。流石は珠子さんだ。

「おいしい……これ、ヴェネツィアのジェラートと、同じあじですね」

「それは良かった。見よう見まねやったけど、どうやら成功やったみたいやな。過去の味覚辿るんには難儀したわ」

 珠子さんはおどけて言うけれど、それを思いだし、剰え再現しようとするなんて、常人の成せる業ではない。

「あんた、ヴェネツィアの出身なんやんな?」

 カウンターに腰掛け、カフェ・ラテを啜るジブリールさんに声を掛けたのは、その珠子さんだった。
 珍しく厨房から出てきている。

「はい、そうです」

「へぇ、珍しいもんやな。日本人の方が、向こうに観光行く方が普通やと思っとったけど」

「あ、ちがうです、マドレのしごとですね」

「まどれ……あぁなるほど、母親の転勤か。それはまた大変やな」

 苦笑いしつつそう言いながら、

「ヴェネツィアか……えらい懐かしいなぁ」

 ふと呟くように言った。
 懐かしい、と確かに言った。

「おばあちゃん、懐かしいって?」

 尋ねたのはクリスさんだった。
 クリスさんも、珠子さんの発言に心当たりはなかったらしい。

「おじいさんとの新婚旅行や。まだお腹に美代子もおらん時分やったし、汐里が知らんのも当然や」

 美代子、という名前に疑問符を浮かべていると、傍らにいたクリスさんから「母です」と簡単な紹介が入った。
 そう言えば、まだお会いしたことがない。

「イタリア諸国を回るツアー旅行に参加したんや。その中でヴェネツィアにもちょっとだけ寄ってん。その時に食べたジェラートがえらい美味しかったんを覚えとったんや」

「そうだったんですか。あ、なら、おばあちゃんにはこの絵の意味が分かったりします?」

 クリスさんは例の絵を見せた。
 珠子さんは、しばらくそれを注意深く見た後で、

「打ってある文字は日本語やし当然読めはするけど、どういうことか、まではさっぱりやな。汐里も難航しとるほどやし、この老体にはそう易々と浮かばんよ」

 と、匙を投げてしまう。
 現地に行ったことのある珠子さんでも分からないとなると、いよいよ難しい謎だ。

「これ、誰が書いたんや?」

「マコト、です。むかし、ヴェネツィアにあそび来てたおとこの子ですね。ニホンの子です」

「日本人が書いた日本語の怪文……なら、ひょっとしたらこの絵、めっちゃ悪戯な謎かもしれへんな」

 珠子さんは呆れたように言って笑った。

「どういうことです?」

「この前ちらっと聞こえたんやけど、その子が言っとったやろ、『ここは日本のヴェネツィア』やって。ここ、つまり近江八幡市に住んどるその子は、少なからずこことヴェネツィアとを重ねてしまう意識はある筈や。コミュニケーションが取れとったってことは、その子は日本語と、イタリア語もある程度は話せたってことやろ。なら、これもその両方の性質を持った悪戯な文章である可能性も考えらるんとちゃう?」

「両方の性質、ですか……」

「それに、この文字の書き方も気になるわ。桜、聖職者、漁師はまだ分かる。けど、墓場ってどういうことや? 絵は墓石一個だけやのに。普通は『墓石』か『お墓』って書くもんちゃうか?」

「墓石じゃなくて墓場……あっ。なるほど、そういうことでしたか」

 クリスさんは何か閃いた様子で声を上げると、珠子さんに深々と頭を下げた。

「おおきに、おばあちゃん。私もまだまだ、おばあちゃんには敵わへんみたいやわ」

「何言ってんのや『クリスティ』。ええから、分かったんやったらさっさと答え合わせしてき」

「はいはい。もう、おばあちゃんってば」

 善利さんの謎も、おばあちゃんが解けたんじゃないですか。そう言いながら、クリスさんは呆れたように肩を落とした。
 珠子さんは含みありげにニヤリと笑うと、それからは何も言わず、厨房の方へ姿を消してしまった。

「えっと、クリスさん。それで?」

「ええ。ずっと引っかかっていたんです。ジブリールさんの言葉には渋い顔をしていたマコト少年が、なぜわざわざ暗号のようなものを残したのか。もう嫌だ、未来でまで会いたくない、というのであれば、別に何も書く必要はなかった――言い換えるなら、書いたからには、それだけの理由があったというわけです」

「理由……」

「ええ。ですが、今はそれは置いておきましょう。本人に聞けば分かることですから。ではなぜ、そのような心境でありながら、それを絵と日本語で書いたのか――理由は簡単です。イタリア語、つまりジブリールさんの母国語で書くと、簡単になってしまうからです」

 クリスさんは、机上に例の絵を置いた。

「ジブリールさん。私が今から話す考察は、貴女にとって多少なりとも嫌な方向に働く可能性があります。それでもよろしいですか?」

「クリス……? マコトのメッセージ、わるいことですか?」

「あくまで可能性です。マコト少年の真意までは分かりかねます」

「うぅ……なら、聞きたいです。わたしは、マコトの思い、知りたい」

「――分かりました」

 頷くと、クリスさんは地図上のある一点を指さし、続ける。

「母国語よりは難しく。けれども解ける程度の難易度で――先ほど、ここへ戻って来る際に寄った八幡宮に答えはありました」

「八幡宮……? でも、これはヴェネツィアの地図で――」

「雫さん。マコト少年は日本人です。それに、近江八幡市に住んでいると自分でも明言しています。つまりこれは、ヴェネツィアの地図上に書かれた彼の本当の居場所なのですよ」

「……どういうことですか?」

「言い方を変えましょう。この文字は、いえ、マコト少年は、この地図そのものを、近江八幡市と重ね合わせたんです」

 クリスさんは、指をさしている場所について、私に尋ねた。
 ここには何があるか、と。

「サン・マルコ広場……それと、大鐘楼でしょうか。たしか、カフェ・フローリアンもここにありますよね」

「よくご存知で。では、近江八幡市に於けるそれは?」

「ですから、それが分かれば苦労は――」

 しない――口元まで出かかった言葉は、そのまま喉の奥の方へと引っ込んだ。
 大鐘楼。自分で、今口にしたではないか。

「楼……近江八幡市にも――そういうことですか……?」

 恐る恐る尋ねる私に、クリスさんは頷き、微笑んだ。

「ロウ……? おふたり、何をはなしてますか?」

 我慢ならずようやく入ってきたジブリールさん。
 彼女にも分かるよう、頭の中で順序立てる。

「えっと……まず、ここには日牟禮八幡宮っていう大きな神社があるんだけどね。その正面入り口に『楼門』って呼ばれる、大きな門があるんだけど、それが日本語では――っと、こう書くんだけどね。ヴェネツィアにあるカンパニーレ、日本語では『大鐘楼』って言って、こう書くんだよ」

 私は、手近に見つけたメモ用紙に、ペンでさらりと書き記した。
 それを見ても、ジブリールさんは未だピント来ていない様子。それはそうだ。
 日本語もままならない彼女が知っているのは、口による言葉の響きと、その意味合いだけ。
 しかし、隣に文字を並べるとなると、

「さっき言ってたよね。マコトさんが『桜』の文字と何かが似てるって言ってたって。それってきっと、楼門の『楼』の字のことじゃないかな。ヴェネツィアにあってこっちにもあって、そして二人ともが向こうで桜の木を見たことがある。偶然には思えない」

「『さくら』と『ろう』が同じは分かりました。でも、それがどういうことですか?」

 ジブリールさんの言葉に、私はすぐには答えられなかった。
 答えを持ち合わせていなかった、というのが正直なところだけれど、答えに辿り着けそうな読み解きとは言え断片的過ぎて、あまりに小さすぎて、それを見つけて大きくはしゃいでいた自分が、今になって恥ずかしくなってしまったからだ。
 すると、押し黙る私の隣で、クリスさんは小さく吹き出した。
 慌てて視線を向けると、ごめんなさい、と一言短く謝った後で、

「いい線はいっています。が、ここからは閃きとは違う、知識の問題になって来ますから、無理もないことでしょう」

 クリスさんは、改めてヴェネツィアの地図を指さした。

「ジブリールさん。ここには何がありますか?」

「えと、ヴァジリカ・ディ・サン・マルコですね」

 またしても疑問符を浮かべることしか出来ない私に、クリスさんが「サン・マルコ寺院です」と助け船を渡した。
 サン・マルコ寺院。
 サン・マルコ広場に面し、また総督の館であるドゥカーレ宮殿に隣接して建っている。
 中は黄金色に輝く壁や天井、装飾の数々、祭壇には何千個にものぼる程の眩い宝石の数々が埋め込まれた黄金の衝立がある等、一度見れば忘れない程に煌びやかな寺院だ。

「サン・マルコ寺院――その名前にもある『サン』とは、日本語で『聖職者』といった意味合いがあります」

「聖職者……」

 聖職者――マコトさんの怪文にもあった。
 『桜を見ている聖職者』だ。

「他にも『信心深い』『聖なる』といった意味合いもありますが、何れも似たようなものです。特にサン・マルコ寺院におきましては、福音記者マルコに捧げられた大聖堂ですから」

「福音記者……?」

「キリスト教『新約聖書』に於ける、四つの聖典とされる『福音書』を記した者たちのことです。マルコ、マタイ、ルカ、そして有名なヨハネ。聖人、聖職者といって差し付けないような方のことですね」

「そっか、それで聖職者――あっ、じゃあ『桜を見ている聖職者』っていうのは……」

「ええ。桜と間違えやすい『楼』を前にして構える、それぞれ『日牟禮八幡宮』と『サン・マルコ寺院』という訳です。神社も、神聖な場所ではありますからね」

 二つを照らし合わせて見直すと、それは確かに同じような様相を呈していた。
 日牟禮八幡宮、サン・マルコ寺院はそれぞれ、その正面には楼門、そして鐘楼が構えている。
 まるで、それを眺めているかのように。
 正に、『桜を見ている聖職者』というわけだ。

「なら、次に考えるのは……」

「『墓場』、それから『漁師』ですが、これも検討はついています」

「えっ、本当ですか?」

「ええ。解説致します。まずはこの絵の構図。ただ四つ並んでいるようにも思えますが、見方によっては『聖職者の背後』にあるようにも見えませんか?」

「見えなくもない……けど、それだとどうなるんですか?」

「背後、つまりは正面とは反対側を指している、と考えると、『聖職者』を意味していた八幡宮と寺院の背後、とも読み取れます。それぞれ正面入り口がその『楼』のある方に向けて開いていることから、背というのは必然的にこちら側であると考えられます。加えて、おばあちゃんが先程言っていた『墓石』ではなく『墓場』である理由――ジブリールさん、あとは説明せずとも分かりますね」

 落ち着いた声音でそう問われたジブリールさんは、少しの間を置いてから、少しずつ、けれども確実に鮮明に思い出しているように、表情が変わっていった。
 サンマルコ寺院と鐘楼、それらを直線で結んだ先にあるもの。

「サン・ミケーレ……おはかの島、あります。ぼせき、じゃなくて、はかば、ですね」

 ジブリールさんが言った。
 サン・ミケーレ島。墓地の島、と呼ばれる島だ。

「思いだしました……わたし、マコトとここに行った……いえ、ぜんぶ、ぜんぶ……カンパニーレも、ヴィジリカ・ディ・サン・マルコも、サン・ミケーレも……ぜんぶ、わたしたちが行ったところですね」

 はっとした様子でジブリールさんが言った。
 忘れていたこと――記憶の奥底に眠っていたことを思いだして、一気に流れ込んできて、心が驚いてしまっているのだろう。
 目を見開いたまま、固まってしまっている。

「サン・ミケーレ島……確か、教会と、それ以外はお墓ばかりの島、ですよね」

「ええ。今では、ヴェネツィアという街の中で、唯一お墓のある島ですから、仮に書かれている文字が『墓石』だったとしても、想像出来るのはそこだけですね。言葉の意味さえ分かれば辿り着けるよう、言ってみれば分かり易い言葉に敢えてしていたようですね」

 私とクリスさんの会話を、ジブリールさんは黙って聞いていた。
 少し俯き、難しい表情で。

「ヴェネツィアのサン・ミケーレ、おうみはちまんなら、どこになりますか?」

 ジブリールさんは、いつの間にか腹が決まったように真剣な表情でクリスさんに尋ねた。
 クリスさんにもそれは分かったようで、一拍置いた後で、

「求めた答えは得られないかも分かりません。それでも、よろしいのですか?」

「はい!」

 ジブリールさんの目は真剣そのもの。
 間髪入れない返答に、クリスさんも心を決めたようだった。
 それを、ここ近江八幡市の地図上でも同じ風に考えたならば。

「沖島……漁師の島がありますね」

 呟くように言う私に、クリスさんはゆっくりと頷いた。
 沖島。近江八幡市から琵琶湖の沖合約一キロと五百メートル程に浮かぶ島で、琵琶湖にある島の中で最大であるだけでなく、日本で唯一人の住んでいる湖沼としても知られている。
 海なし県の離島、と呼ばれることもしばしば。
 歴史は古く、万葉集にもこの沖島を呼んだ詩が遺されているという話だ。
 人が住むようになったのは、平安末期だとされ、平家に敗れた源氏の落ち武者が住み着いたことが始まりと言われている。
 これは余談だけれど、猫が多く生息していることでも有名だ。
 漁師の島、と私が称したのは、そこで住む人の暮らしの大半が、漁で賄われていることから来ている。
 島民約三百人の内、凡そ七割程が漁に従事しているという話だ。

「サン・ミケーレ島と沖島とを重ねて、『漁師』と『墓場』の絵という訳です」

 そこ、とはつまり、沖島のことだ。
 ジブリールさんの思い人、マコトさんは、沖島で暮らす島民。

「おきしま……」

 ジブリールさんが呟く。
 今すぐにでも飛び出していきたい。そんな衝動を、必死で抑えているようだった。

「おきしま、というところにマコトがいるなら……わたし、マコトに言いました。サン・ミケーレはわたしのゆめ、と」

「夢……?」

「はい。年をとったあとで、さみしい所でうめられるのはいや。サン・ミケーレにうめられたい、そんな話をしました」

「夢、か。だから、マコトさんはこんなに分かりにくい暗号に思いを籠めたのかな。会いたいけど、マコトさんじゃなくてジブリールさんが会いに行こうとすると、地域は分かってもその細かな場所までは分からなくて、自ずとこの地図に頼るしかなくなる。だから」

「でも、べつにずっとこっちにいるわけではないです。いつか、ヴェネツィアにかえって――」

 続けかけた言葉を、ジブリールさんは飲み込んだ。
 その理由は、ジブリールさんが話している間に、私にも分かっていた。
 ジブリールさん本人が、その答えははっきりと口にしていたから。

「けっこんしよ、わたしが言ったから……」

 そう。
 おふざけでも何でも、そんな会話の中から、そんな相手から会いたいと言われた当時のマコトさんは、それが遠い未来で再会した時、現実のことになるかも分からない。そうとでも思ったのかもしれない。
 二人の間で『再会』という言葉は、『添い遂げる』という意味合いも孕んでいた。少なからず持ってしまった。
 だから、マコトさんは彼女の言葉に、はっきりとは頷けなかったのだ。

「わたし……会いたいけど、会いたくないなってきました……こんなに早くこたえがみつかると思ってなかったです……心のせいり、できない……どんな顔で会えば、マコトと話せるですか……」

 絵を見つけ、男の子のことを思いだしてからというもの、いくら頭を捻っても分からなかった問題。四月頃から彼女の姿が見られ始めたということは、早ふた月程の時間を一人で考え、答えが導き出せなかったということになる。
 ジブリールさんは、この絵を私たちに見せてくれた時、読めないとは言わなかった。それはつまり、何らかの理由があって読めてはいたということ。
 母親か、あるいはこっちで出来た友人か。
 いずれにしても、読めはして、且つその言葉ごとの意味は分かっていたことだろうけれど、それでも答えには辿り着けなかった難問。
 その答えが急に示されたことで、頭が追い付いていないのだろう。

「マコト、会いたい……でも、会うのこわいです……マコト、わたしのこと覚えないかもしれない」

 思い人であるマコトさんが、自分のことをすっかり忘れてしまっているかも知れないことを危惧するジブリールさん。
 しかしそれは杞憂というもので、

「大丈夫だよジブリールさん。ちゃんと――」

 言いかけたところで、お店の扉が開かれた。

「いらっしゃいませ」

 クリスさんが、いつものように応対する。

「えっと――あっ、いた、リル。昼過ぎには帰るって言ってたでしょ。電話にも出ないから、夕方の習い事、今日は適当な理由をつけてお休みにしてもらったわよ」

 ジブリールさんのお母さん、らしい人の言葉で仰いだ時計の針は、五時半頃を指していた。

「マドレ……わっ、もうこんなじかんです! すみませんクリス、シズク、わたし帰るですね!」

「ええ、分かりました。お母様、ジブリールさんを所用でお連れし、知らなかったとは言えこのような時間まで外出させてしまったのはこの私です。申し訳ございません」

「所用? 何の用が?」

「はい。ある絵の謎について、娘様から依頼を請けておりましたので、その為に」

「依頼……? え、ここ、喫茶店よね?」

「はい。ですので、正式な仕事ではなく。それ故に、今回の責任は私にございます」

 そう言って、クリスさんは深々と頭を下げた。

「や、やめてよ、悪いのはちゃんと予定を言わなかったこの子なんだから。それに、あの絵のことで協力してもらってたのなら、よかったわ」

 お母様は、自分のことのように喜びつつそう言った。

「あの絵はこの子にとって、言ってみれば悲願のようなものだったから――ってこら、リル、しれっと勝手に帰らない! お風呂掃除と洗濯物、やっておきなさいよ!」

 お母様の脇を通り抜け、忍びのように駆けて行くジブリールさんの背中に、お母様が怒声を浴びせる。
 一瞬間縮こまったように見せたその身体は、しかし止まることなく八幡堀を走り去って行ってしまった。

「もう、まったく……ごめんなさいね、マスターさん」

「いいえ。こちらこそ、重ねてお詫びを」

「いいのよ。ほんと、あの子がちゃんと必要な情報を言わないのが悪いんだし」

 お母様は呆れたように肩を竦めると、スマホを確認し、椅子に置きかけていた荷物を持ち直すと、ジブリールさんが飛び出して行った扉の方へと歩いて行った。

「長居するのも悪いから、もう行くわね。ありがとう、マスターさん」

「少し暗くもなって来ましたから、どうかお気を付けて。ジブリールさんにもよろしくお伝えください」

「ええ。それじゃあ」

 小さく会釈をすると、お母様は扉を開けてお堀の畔へと出た。
 すると、扉が閉められ、少し経ったところで、机上にハンカチを見つけたクリスさんがその背を追ってお店を出ていってしまった。
 チラリと見えた柄は、ジブリールさんの着ていた服の一部にあった刺繍――ヴェネツィアのシルクの刺繍と似ていた。クリスさんはその持ち主が誰であるか、すぐに気が付いたことだろう。
 私は、一瞬の内に三人が出ていった古い木の扉に目をやった。
 そして、

「…………あれ?」

 一つ、今のやり取りの中で違和感を覚えた。
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