62 / 76
第4章 『水とともに生きる:後編』
第1話 昔日の想い
しおりを挟む
拙い日本語とイタリア語とで頑張ってくれたジブリールさんの話を要約すると、こうだ。
自宅から、ある一つの絵が見つかった。地図のような絵だという。
それは、まだうんと幼い頃に仲良くなった、日本から観光に来ていた年上の男の子と一緒に描いたものだった。
美しいヴェネツィアの街はこんな風になっているんだよ、といった具合にジブリールさんが案内がてらに描きつつ、そこに男の子も好きな絵を描いていったものだと。
書き連ねられたそれらが何かと尋ねると、その男の子は『ピクトグラムって言ってね。元々ある絵なんかをとても簡単にしたものさ。これは、僕の国にある色んなもの。地元の看板を任されることもあるんだ』といったような内容のことを話していたと言う。
その子とはとても親しくなったけれど、彼女がふざけて『けっこんしようね』と言った時には、とても難しい顔をして何も答えてはくれなかったと言う。
その子がどこまでの思いを持っていたのかは分からないけれど、ジブリールさんは当時、親切で楽しかったその子に、幼心にも本当の『恋』をしてしまったらしい。
再会を強く望むジブリールさんは、将来どこに行けば会えるのかと尋ねたところ、『近江八幡。日本のヴェネツィア』とだけ返答をもらった。
その子が日本に帰る頃にはすっかり片思いをしていたジブリールさんは、いつか絶対にそこへ行こうと誓った。が、程なく学業などで忙しくなると、思いはやがて、記憶の中で思い出になってしまった。
それがたまたま、母の仕事の関係で日本へ、それも滋賀県の近江八幡市へとやって来た後、家の整理をしていたところ出て来たようで、絵を見た瞬間に様々な感情に襲われたのだそうだ。
絶対に、と思っていたことを忘れてしまっていたこと。
転勤先が『おうみはちまん』という場所だと分かっても、思い出せなかったこと。
幼心にも好きになった相手のことを忘れてしまっていたこと。
色んなことを一気に思い出して、混乱して、ふらふらと出て来た先が、あのお堀にかかった橋だった。
そこにいると、不思議とヴェネツィアにある『溜め息橋』を思い出して落ち着いたことから、母親が仕事でいない時に訪れるようになった。
ジブリールさんのお母さんは介護職員で、早番に遅番、夜勤と、一定でない勤務の為、ジブリールさんが現れる時間帯もバラバラだったというわけだ。
「……何だか素敵だけど、ちょっと寂しい思い出だね」
ジブリールさんは、言いようのない複雑な表情で笑った。
「ただのかみきれだけど、わたしはそれ、マコトのいるところかと思う。いみのしらないピクトグラムばかりだったから、いみがあると思う」
マコト、というのが、その子の名前なのだろう。
「マコト、またあおう言ってた。だから、このピットゥーラは、マコトにあえるところ、おもう。わたし、マコトにあいたい。でも、このピットゥーラはヴェネツィアのマッパ……だから、おかしい」
ピットゥーラは、ジェスチャーからこの絵のことを言っているのかな?
マッパ……?
「地図のことですね」
と、隣からクリスさん。
相変わらず、こちらの意を汲み取るのが早い。
「なるほど、そのような事情が。意味が分からないからこそ意味があるかもしれない絵。気になりますね」
クリスさんは真剣な眼差しで言う。
「うん……でも、ガッティーノのことで、クリスはめいわくかかってる。だから、わたし、自分でさがす。これは、おしえて言うクリスに話しただけ」
迷惑、という言葉を使っているなら、ガッティーノは子猫のことだろうか。
クリスさんに対し子猫のことで既に迷惑をかけているから、自分で探す。これは、クリスさんが『本当の理由を教えてくれたら』と言ったから、子猫の為に話しただけ、と。
そこまでの事情を話されて、この人がそのまま黙ってるわけ――
「ジブリールさん。その絵を見せて頂くことは出来ますか?」
ないよね。
ジブリールさんは面食らったように口を開けたて固まってしまった。
「クリス…! だめ、それは。めいわく、ふえるよ」
「構いません。知りたがったのは他でもない私ですし。それに――」
クリスさんは、口元に手を添えて、
「その男の子の話も気になりますし……」
難しい顔で言った。
以前、善利さんの写真の謎を考えていた時にも、同じ仕草をしていた。
頭の中でぐるぐると思考が巡っている時に、無意識にやってしまう癖なのだろう。
「……ホントに、いいの?」
駄目だ、という姿勢だったジブリールさんがそう尋ねたことで、クリスさんはいつもの柔らかな笑みで頷いた。
「勿論です。先ほども言いましたよね。教えて欲しいのは、力になりたいからだ、と」
「い、いった……」
「そういうことです。あなたはしっかりと話してくれました。なら、私は自分で口にした通り、それに協力いたします」
「クリス……」
ジブリールさんは、悩ましそうに笑いながらも、小さく頷いた。
「私が言うことじゃないけど、ドーンと甘えちゃっていいと思うよ。クリスさん、ほんと頼りになるから。勿論、私も協力する」
「おねえさん……ありがと、ございます。あっ、ピットゥーラ、いえにあります……」
「それは一旦、後から考えましょう。まずは、早いところこの子のことを。知り合いに電話しますから、抱いててもらってもよろしいですか?」
「あっ、はい…!」
クリスさんから子猫を預かると、ジブリールさんは安心したように微笑みながら、子猫の頬や顎を撫で始めた。
よかった。たすかる。元気なる。と、幸せそうに語り掛けている。
程なくクリスさんの電話も終わったようで――これからすぐに診てもらえる話がついたとのことだった。
自宅から、ある一つの絵が見つかった。地図のような絵だという。
それは、まだうんと幼い頃に仲良くなった、日本から観光に来ていた年上の男の子と一緒に描いたものだった。
美しいヴェネツィアの街はこんな風になっているんだよ、といった具合にジブリールさんが案内がてらに描きつつ、そこに男の子も好きな絵を描いていったものだと。
書き連ねられたそれらが何かと尋ねると、その男の子は『ピクトグラムって言ってね。元々ある絵なんかをとても簡単にしたものさ。これは、僕の国にある色んなもの。地元の看板を任されることもあるんだ』といったような内容のことを話していたと言う。
その子とはとても親しくなったけれど、彼女がふざけて『けっこんしようね』と言った時には、とても難しい顔をして何も答えてはくれなかったと言う。
その子がどこまでの思いを持っていたのかは分からないけれど、ジブリールさんは当時、親切で楽しかったその子に、幼心にも本当の『恋』をしてしまったらしい。
再会を強く望むジブリールさんは、将来どこに行けば会えるのかと尋ねたところ、『近江八幡。日本のヴェネツィア』とだけ返答をもらった。
その子が日本に帰る頃にはすっかり片思いをしていたジブリールさんは、いつか絶対にそこへ行こうと誓った。が、程なく学業などで忙しくなると、思いはやがて、記憶の中で思い出になってしまった。
それがたまたま、母の仕事の関係で日本へ、それも滋賀県の近江八幡市へとやって来た後、家の整理をしていたところ出て来たようで、絵を見た瞬間に様々な感情に襲われたのだそうだ。
絶対に、と思っていたことを忘れてしまっていたこと。
転勤先が『おうみはちまん』という場所だと分かっても、思い出せなかったこと。
幼心にも好きになった相手のことを忘れてしまっていたこと。
色んなことを一気に思い出して、混乱して、ふらふらと出て来た先が、あのお堀にかかった橋だった。
そこにいると、不思議とヴェネツィアにある『溜め息橋』を思い出して落ち着いたことから、母親が仕事でいない時に訪れるようになった。
ジブリールさんのお母さんは介護職員で、早番に遅番、夜勤と、一定でない勤務の為、ジブリールさんが現れる時間帯もバラバラだったというわけだ。
「……何だか素敵だけど、ちょっと寂しい思い出だね」
ジブリールさんは、言いようのない複雑な表情で笑った。
「ただのかみきれだけど、わたしはそれ、マコトのいるところかと思う。いみのしらないピクトグラムばかりだったから、いみがあると思う」
マコト、というのが、その子の名前なのだろう。
「マコト、またあおう言ってた。だから、このピットゥーラは、マコトにあえるところ、おもう。わたし、マコトにあいたい。でも、このピットゥーラはヴェネツィアのマッパ……だから、おかしい」
ピットゥーラは、ジェスチャーからこの絵のことを言っているのかな?
マッパ……?
「地図のことですね」
と、隣からクリスさん。
相変わらず、こちらの意を汲み取るのが早い。
「なるほど、そのような事情が。意味が分からないからこそ意味があるかもしれない絵。気になりますね」
クリスさんは真剣な眼差しで言う。
「うん……でも、ガッティーノのことで、クリスはめいわくかかってる。だから、わたし、自分でさがす。これは、おしえて言うクリスに話しただけ」
迷惑、という言葉を使っているなら、ガッティーノは子猫のことだろうか。
クリスさんに対し子猫のことで既に迷惑をかけているから、自分で探す。これは、クリスさんが『本当の理由を教えてくれたら』と言ったから、子猫の為に話しただけ、と。
そこまでの事情を話されて、この人がそのまま黙ってるわけ――
「ジブリールさん。その絵を見せて頂くことは出来ますか?」
ないよね。
ジブリールさんは面食らったように口を開けたて固まってしまった。
「クリス…! だめ、それは。めいわく、ふえるよ」
「構いません。知りたがったのは他でもない私ですし。それに――」
クリスさんは、口元に手を添えて、
「その男の子の話も気になりますし……」
難しい顔で言った。
以前、善利さんの写真の謎を考えていた時にも、同じ仕草をしていた。
頭の中でぐるぐると思考が巡っている時に、無意識にやってしまう癖なのだろう。
「……ホントに、いいの?」
駄目だ、という姿勢だったジブリールさんがそう尋ねたことで、クリスさんはいつもの柔らかな笑みで頷いた。
「勿論です。先ほども言いましたよね。教えて欲しいのは、力になりたいからだ、と」
「い、いった……」
「そういうことです。あなたはしっかりと話してくれました。なら、私は自分で口にした通り、それに協力いたします」
「クリス……」
ジブリールさんは、悩ましそうに笑いながらも、小さく頷いた。
「私が言うことじゃないけど、ドーンと甘えちゃっていいと思うよ。クリスさん、ほんと頼りになるから。勿論、私も協力する」
「おねえさん……ありがと、ございます。あっ、ピットゥーラ、いえにあります……」
「それは一旦、後から考えましょう。まずは、早いところこの子のことを。知り合いに電話しますから、抱いててもらってもよろしいですか?」
「あっ、はい…!」
クリスさんから子猫を預かると、ジブリールさんは安心したように微笑みながら、子猫の頬や顎を撫で始めた。
よかった。たすかる。元気なる。と、幸せそうに語り掛けている。
程なくクリスさんの電話も終わったようで――これからすぐに診てもらえる話がついたとのことだった。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
ARIA(アリア)
残念パパいのっち
ミステリー
山内亮(やまうちとおる)は内見に出かけたアパートでAR越しに不思議な少女、西園寺雫(さいおんじしずく)と出会う。彼女は自分がAIでこのアパートに閉じ込められていると言うが……
よんよんまる
如月芳美
キャラ文芸
東のプリンス・大路詩音。西のウルフ・大神響。
音楽界に燦然と輝く若きピアニストと作曲家。
見た目爽やか王子様(実は負けず嫌い)と、
クールなヴィジュアルの一匹狼(実は超弱気)、
イメージ正反対(中身も正反対)の二人で構成するユニット『よんよんまる』。
だが、これからという時に、二人の前にある男が現われる。
お互いやっと見つけた『欠けたピース』を手放さなければならないのか。
※作中に登場する団体、ホール、店、コンペなどは、全て架空のものです。
※音楽モノではありますが、音楽はただのスパイスでしかないので音楽知らない人でも大丈夫です!
(医者でもないのに医療モノのドラマを見て理解するのと同じ感覚です)
リモート刑事 笹本翔
雨垂 一滴
ミステリー
『リモート刑事 笹本翔』は、過去のトラウマと戦う一人の刑事が、リモート捜査で事件を解決していく、刑事ドラマです。
主人公の笹本翔は、かつて警察組織の中でトップクラスの捜査官でしたが、ある事件で仲間を失い、自身も重傷を負ったことで、外出恐怖症(アゴラフォビア)に陥り、現場に出ることができなくなってしまいます。
それでも、彼の卓越した分析力と冷静な判断力は衰えず、リモートで捜査指示を出しながら、次々と難事件を解決していきます。
物語の鍵を握るのは、翔の若き相棒・竹内優斗。熱血漢で行動力に満ちた優斗と、過去の傷を抱えながらも冷静に捜査を指揮する翔。二人の対照的なキャラクターが織りなすバディストーリーです。
翔は果たして過去のトラウマを克服し、再び現場に立つことができるのか?
翔と優斗が数々の難事件に挑戦します!
伏線回収の夏
影山姫子
ミステリー
ある年の夏。俺は15年ぶりにT県N市にある古い屋敷を訪れた。某大学の芸術学部でクラスメイトだった岡滝利奈の招きだった。かつての同級生の不審死。消えた犯人。屋敷のアトリエにナイフで刻まれた無数のXの傷。利奈はそのなぞを、ミステリー作家であるこの俺に推理してほしいというのだ。俺、利奈、桐山優也、十文字省吾、新山亜沙美、須藤真利亜の六人は、大学時代にこの屋敷で共に芸術の創作に打ち込んだ仲間だった。グループの中に犯人はいるのか? 脳裏によみがえる青春時代の熱気、裏切り、そして別れ。懐かしくも苦い思い出をたどりながら事件の真相に近づく俺に、衝撃のラストが待ち受けていた。
《あなたはすべての伏線を回収することができますか?》
猫の罪深い料理店~迷子さんの拠り所~
碧野葉菜
キャラ文芸
アラサー真っ只中の隅田川千鶴は仕事に生きるキャリアウーマン。課長に昇進しできない男たちを顎で使う日々を送っていた。そんなある日、仕事帰りに奇妙な光に気づいた千鶴は誘われるように料理店に入る。
しかしそこは、普通の店ではなかった――。
麗しの店主、はぐれものの猫宮と、それを取り囲む十二支たち。
彼らを通して触れる、人と人の繋がり。
母親との確執を経て、千鶴が選ぶ道は――。

カフェ・シュガーパインの事件簿
山いい奈
ミステリー
大阪長居の住宅街に佇むカフェ・シュガーパイン。
個性豊かな兄姉弟が営むこのカフェには穏やかな時間が流れる。
だが兄姉弟それぞれの持ち前の好奇心やちょっとした特殊能力が、巻き込まれる事件を解決に導くのだった。
消された過去と消えた宝石
志波 連
ミステリー
大富豪斎藤雅也のコレクション、ピンクダイヤモンドのペンダント『女神の涙』が消えた。
刑事伊藤大吉と藤田建造は、現場検証を行うが手掛かりは出てこなかった。
後妻の小夜子は、心臓病により車椅子生活となった当主をよく支え、二人の仲は良い。
宝石コレクションの隠し場所は使用人たちも知らず、知っているのは当主と妻の小夜子だけ。
しかし夫の体を慮った妻は、この一年一度も外出をしていない事は確認できている。
しかも事件当日の朝、日課だったコレクションの確認を行った雅也によって、宝石はあったと証言されている。
最後の確認から盗難までの間に人の出入りは無く、使用人たちも徹底的に調べられたが何も出てこない。
消えた宝石はどこに?
手掛かりを掴めないまま街を彷徨っていた伊藤刑事は、偶然立ち寄った画廊で衝撃的な事実を発見し、斬新な仮説を立てる。
他サイトにも掲載しています。
R15は保険です。
表紙は写真ACの作品を使用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる