55 / 76
第3章 『水とともに生きる:前編』
第12話 腕だけは
しおりを挟む
数日続いた雨も上がり、運よく今日は晴れ。
クリスさんと二人、淡海で使用する珈琲豆の調達に出かけている。
なんでも、淡海で仕入れている豆は特別製なのだとか。
珠子さんがお店を継いでしばらく後、クリスさんが手伝いを始めた頃、今の淡海が出せる最高のブレンドを作ろうという話が持ち上がったらしい。
それまで使っていた豆も美味しいには美味しかったらしいのだけれど、正直言ってどこでも飲めるタイプの味だったようで。元は珈琲を楽しみつつも『食事やスイーツ』に力を入れていたお店だったらしく、珈琲自体にはそこまで拘りを持っていなかったという話だ。
そこで、せっかくだからと考え始めた二人だったけれど、それが随分と難航したらしい。あれでもこれでもないと、配合を変えては飲み、変えては飲み、と繰り返し、実に二年半の歳月をかけて出来上がったのが、今の味なんだそうだ。
配合が決まってからは、専門の業者に依頼し、特注しているとのこと。
「へぇ……以前、お二人で考えられた、という話は聞きましたけど、そんなに途方もない時間がかかっていたんですね」
「ええ、そういうことになります。同時に、それを寸分の狂いなく準備してくださる業者様の方にも感謝ですね」
クリスさんは温かく笑って言った。
「さて――見えてまいりましたね。あそこが、うちで使っている珈琲豆を拵えてくださっているお店『豆の木』さんです」
それはお店、というより、工場のような店構え。随分と年季の入った建物だ。
「お久しぶりです、信楽さん」
クリスさんが声を掛けたのは、店先にいた優しそうなお兄さん。
年齢も、クリスさんとそう離れていないように見える。
それに気が付いた男性も、クリスさんに笑顔で手を振って応える。
「おークリス、久しぶりやな。どないしたんや?」
「先日、お父様の方にご連絡致しました、うちの豆を頂きにまいりました。ご用意は出来ておりますか?」
「あー、それなら出来とるけど、何やつまらんなぁ。間に一日晴れ間はあった言うてもあんだけ続いた連日の大雨、それからやっと解放されたっちゅう記念にデートの誘いにでも来たんか思たわ」
「えっ!?」
男性の言葉に、つい私が反応してしまった。
二人の視線がぎょっと集まる。
「あんた――クリスの子か?」
「バイトの子やわ! 妹尾雫さん! 前に話したやろ、その子やその子! 冗談は軽い態度だけにしいや!」
男性の軽口に、クリスさんは頬を膨らませて怒る。
「あっはっは! 冗談や冗談、前に言っとった子やろ、分かっとる分かっとる」
「ほんまええ加減にせんと、そろそろ工房さんとの縁も切るで」
「悪い悪い、謝るさかい贔屓にしたってや」
慌てる様子もなく、男性は軽い調子で謝った。
この人の態度と同じように、クリスさんの言葉もまた、冗談のようなものなのだろう。
……じゃれ合い?
「あー笑った笑った。堪忍な、嬢ちゃん。クリスとは中高同じやったんや。で今や互いに店継ぐような立場や言うんやから、不思議な縁やと思わへん?」
「えっ? え、はい、そうですね……クリスさんがこれだけ砕けた話し方するのも、私初めて見ましたもん」
「せやろ? そろそろ結婚でも考えてくれたらええんやけど――」
「雫さん、お父様の方へ伺いましょう。この方はハズレです。大ハズレです。さっさと看板を下ろして欲しいものですね」
と、クリスさんは私の手を引き工房の中へと入ろうとする。
「ほう、それでええのか? ほなこの豆はどないしよかな――」
ニヤニヤと楽し気に笑いながら、わざとらしく掲げるそれには、黒いマジックで『淡海』と手書きされている。
特注、と話があったように、他には売りに出されていない証拠だ。
ふと、クリスさんの足が止まった。
「最初から出して頂けません? 面倒なんですよ、この時間。勿体ないったらありません」
「幼馴染のじゃれ合いやんかこんなん。たまにしか会わんのやしこれぐらい付き合ってや」
「面倒なじゃれ合いでなければ良いんですよ、もう。今日はバイトの子もいるんですから、あまり私のイメージダウンに繋がるような態度を取らせないでください」
「あはは、悪い悪い――っと、ほい、この袋に入っとるもん全部な。代金はもう珠子さんから貰っとるさかい」
「はいはい。ありがとうございます」
「おっ、何や素直に感謝されたわ」
「お仕事のことだけです。人間性はさておいて腕だけは、腕だけは、本当に腕だけは信用しているんですから」
「棘あるなぁ……嬢ちゃん苦労するやろ、クリスんとこで働くんは」
「い、いえ、そんな…! 凄く優しいし、まかないも美味しいですし……私には勿体ないぐらい良い環境です」
「はっはっは! そりゃ何よりやな! 頑張りや」
「は、はいっ!」
お礼を言いつつ頭を下げると、隣ではクリスさんが呆れたように苦笑いしながら息を吐いていた。
何だかんだと言いつつも、意外に良い相性だったりするんじゃないのかな。
「あ、そうやクリス」
歩き始めていた足を、男性の声が引き止めた。
何か、と二人して振り返る。
「最近、八幡堀の方で、何や女の幽霊の目撃情報があるらしいわ」
「幽霊、ですか? どのような?」
「さぁ、俺もよぉ分からんけど、常連のおっちゃんや姉ちゃんらが噂しとるんや。手だか頬だかに切り傷つけた、女の霊が出るんやーって。ふらふらとお堀の周りうろついとって、気が付いたら消えとるらしい。ここ数日やったかな、新しい話やわ」
「おっちゃんに姉ちゃん……性別年齢はバラバラ。出どころ不明の噂という訳ですか。分かりました、ありがとうございます。特別用心することはないと思いますが、気を付けますね」
「おーう、ほなまたなー」
大きく手を振って私たちを見送る男性。
私たちは、それに小さく頭を下げながら、工房を後にした。
クリスさんと二人、淡海で使用する珈琲豆の調達に出かけている。
なんでも、淡海で仕入れている豆は特別製なのだとか。
珠子さんがお店を継いでしばらく後、クリスさんが手伝いを始めた頃、今の淡海が出せる最高のブレンドを作ろうという話が持ち上がったらしい。
それまで使っていた豆も美味しいには美味しかったらしいのだけれど、正直言ってどこでも飲めるタイプの味だったようで。元は珈琲を楽しみつつも『食事やスイーツ』に力を入れていたお店だったらしく、珈琲自体にはそこまで拘りを持っていなかったという話だ。
そこで、せっかくだからと考え始めた二人だったけれど、それが随分と難航したらしい。あれでもこれでもないと、配合を変えては飲み、変えては飲み、と繰り返し、実に二年半の歳月をかけて出来上がったのが、今の味なんだそうだ。
配合が決まってからは、専門の業者に依頼し、特注しているとのこと。
「へぇ……以前、お二人で考えられた、という話は聞きましたけど、そんなに途方もない時間がかかっていたんですね」
「ええ、そういうことになります。同時に、それを寸分の狂いなく準備してくださる業者様の方にも感謝ですね」
クリスさんは温かく笑って言った。
「さて――見えてまいりましたね。あそこが、うちで使っている珈琲豆を拵えてくださっているお店『豆の木』さんです」
それはお店、というより、工場のような店構え。随分と年季の入った建物だ。
「お久しぶりです、信楽さん」
クリスさんが声を掛けたのは、店先にいた優しそうなお兄さん。
年齢も、クリスさんとそう離れていないように見える。
それに気が付いた男性も、クリスさんに笑顔で手を振って応える。
「おークリス、久しぶりやな。どないしたんや?」
「先日、お父様の方にご連絡致しました、うちの豆を頂きにまいりました。ご用意は出来ておりますか?」
「あー、それなら出来とるけど、何やつまらんなぁ。間に一日晴れ間はあった言うてもあんだけ続いた連日の大雨、それからやっと解放されたっちゅう記念にデートの誘いにでも来たんか思たわ」
「えっ!?」
男性の言葉に、つい私が反応してしまった。
二人の視線がぎょっと集まる。
「あんた――クリスの子か?」
「バイトの子やわ! 妹尾雫さん! 前に話したやろ、その子やその子! 冗談は軽い態度だけにしいや!」
男性の軽口に、クリスさんは頬を膨らませて怒る。
「あっはっは! 冗談や冗談、前に言っとった子やろ、分かっとる分かっとる」
「ほんまええ加減にせんと、そろそろ工房さんとの縁も切るで」
「悪い悪い、謝るさかい贔屓にしたってや」
慌てる様子もなく、男性は軽い調子で謝った。
この人の態度と同じように、クリスさんの言葉もまた、冗談のようなものなのだろう。
……じゃれ合い?
「あー笑った笑った。堪忍な、嬢ちゃん。クリスとは中高同じやったんや。で今や互いに店継ぐような立場や言うんやから、不思議な縁やと思わへん?」
「えっ? え、はい、そうですね……クリスさんがこれだけ砕けた話し方するのも、私初めて見ましたもん」
「せやろ? そろそろ結婚でも考えてくれたらええんやけど――」
「雫さん、お父様の方へ伺いましょう。この方はハズレです。大ハズレです。さっさと看板を下ろして欲しいものですね」
と、クリスさんは私の手を引き工房の中へと入ろうとする。
「ほう、それでええのか? ほなこの豆はどないしよかな――」
ニヤニヤと楽し気に笑いながら、わざとらしく掲げるそれには、黒いマジックで『淡海』と手書きされている。
特注、と話があったように、他には売りに出されていない証拠だ。
ふと、クリスさんの足が止まった。
「最初から出して頂けません? 面倒なんですよ、この時間。勿体ないったらありません」
「幼馴染のじゃれ合いやんかこんなん。たまにしか会わんのやしこれぐらい付き合ってや」
「面倒なじゃれ合いでなければ良いんですよ、もう。今日はバイトの子もいるんですから、あまり私のイメージダウンに繋がるような態度を取らせないでください」
「あはは、悪い悪い――っと、ほい、この袋に入っとるもん全部な。代金はもう珠子さんから貰っとるさかい」
「はいはい。ありがとうございます」
「おっ、何や素直に感謝されたわ」
「お仕事のことだけです。人間性はさておいて腕だけは、腕だけは、本当に腕だけは信用しているんですから」
「棘あるなぁ……嬢ちゃん苦労するやろ、クリスんとこで働くんは」
「い、いえ、そんな…! 凄く優しいし、まかないも美味しいですし……私には勿体ないぐらい良い環境です」
「はっはっは! そりゃ何よりやな! 頑張りや」
「は、はいっ!」
お礼を言いつつ頭を下げると、隣ではクリスさんが呆れたように苦笑いしながら息を吐いていた。
何だかんだと言いつつも、意外に良い相性だったりするんじゃないのかな。
「あ、そうやクリス」
歩き始めていた足を、男性の声が引き止めた。
何か、と二人して振り返る。
「最近、八幡堀の方で、何や女の幽霊の目撃情報があるらしいわ」
「幽霊、ですか? どのような?」
「さぁ、俺もよぉ分からんけど、常連のおっちゃんや姉ちゃんらが噂しとるんや。手だか頬だかに切り傷つけた、女の霊が出るんやーって。ふらふらとお堀の周りうろついとって、気が付いたら消えとるらしい。ここ数日やったかな、新しい話やわ」
「おっちゃんに姉ちゃん……性別年齢はバラバラ。出どころ不明の噂という訳ですか。分かりました、ありがとうございます。特別用心することはないと思いますが、気を付けますね」
「おーう、ほなまたなー」
大きく手を振って私たちを見送る男性。
私たちは、それに小さく頭を下げながら、工房を後にした。
0
お気に入りに追加
14
あなたにおすすめの小説
ニンジャマスター・ダイヤ
竹井ゴールド
キャラ文芸
沖縄県の手塚島で育った母子家庭の手塚大也は実母の死によって、東京の遠縁の大鳥家に引き取られる事となった。
大鳥家は大鳥コンツェルンの創業一族で、裏では日本を陰から守る政府機関・大鳥忍軍を率いる忍者一族だった。
沖縄県の手塚島で忍者の修行をして育った大也は東京に出て、忍者の争いに否応なく巻き込まれるのだった。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
スメルスケープ 〜幻想珈琲香〜
市瀬まち
ライト文芸
その喫茶店を運営するのは、匂いを失くした青年と透明人間。
コーヒーと香りにまつわる現代ファンタジー。
嗅覚を失った青年ミツ。店主代理として祖父の喫茶店〈喫珈琲カドー〉に立つ彼の前に、香りだけでコーヒーを淹れることのできる透明人間の少年ハナオが現れる。どこか奇妙な共同運営をはじめた二人。ハナオに対して苛立ちを隠せないミツだったが、ある出来事をきっかけに、コーヒーについて教えを請う。一方、ハナオも秘密を抱えていたーー。
私と目隠し鬼と惚れ薬と
寺音
キャラ文芸
目覚めると知らない橋の上にいました。
そして、そこで出会った鬼が、死者の涙で惚れ薬を作っていました。
……どういうこと?
これは「私」が体験した、かなり奇妙な悲しく優しい物語。
※有名な神様や道具、その名称などを物語の中で使用させていただいておりますが、死後の世界を独自に解釈・構築しております。物語、フィクションとしてお楽しみください。
ダブルファザーズ
白川ちさと
ライト文芸
中学三年生の女の子、秋月沙織には二人の父親がいる。一人は眼鏡で商社で働いている裕二お父さん。もう一人はイラストレーターで家事が得意な、あっちゃんパパ。
二人の父親に囲まれて、日々過ごしている沙織。
どうして自分には父親が二人もいるのか――。これはそれを知る物語。
鬼様に生贄として捧げられたはずが、なぜか溺愛花嫁生活を送っています!?
小達出みかん
キャラ文芸
両親を亡くし、叔父一家に冷遇されていた澪子は、ある日鬼に生贄として差し出される。
だが鬼は、澪子に手を出さないばかりか、壊れ物を扱うように大事に接する。美味しいごはんに贅沢な衣装、そして蕩けるような閨事…。真意の分からぬ彼からの溺愛に澪子は困惑するが、それもそのはず、鬼は澪子の命を助けるために、何度もこの時空を繰り返していた――。
『あなたに生きていてほしい、私の愛しい妻よ』
繰り返される『やりなおし』の中で、鬼は澪子を救えるのか?
◇程度にかかわらず、濡れ場と判断したシーンはサブタイトルに※がついています
◇後半からヒーロー視点に切り替わって溺愛のネタバレがはじまります
喫茶店オルクスには鬼が潜む
奏多
キャラ文芸
美月が通うようになった喫茶店は、本一冊読み切るまで長居しても怒られない場所。
そこに通うようになったのは、片思いの末にどうしても避けたい人がいるからで……。
そんな折、不可思議なことが起こり始めた美月は、店員の青年に助けられたことで、その秘密を知って行って……。
なろうでも連載、カクヨムでも先行連載。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる