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第2章 『祖父の写真』

第5話 なんちゃって伊吹蕎麦

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 と、厨房の方から珠子さんが出て来た。

「お待たせ、雫ちゃん。試作品の『なんちゃって伊吹蕎麦』や。作ってしもたし、先に召し上がり」

 そう言って机上に置かれたのは、大人な和食器で準備されたお蕎麦。
 伊吹蕎麦。聞いたことはある。

「えっ、良いんでしょうか……?」

「かまへん。私らのもすぐに出来るさかい、先につまみ始めるだけの話や」

「うぅ……く、クリスさん……?」

「どうぞどうぞ。もうお腹もペコペコでしょう?」

「あぅ……」

 さすが、よく分かってらっしゃる……。
 私の逡巡は、先に私だけ良いのかな、という気持ちと半分、正直なところお腹がペコペコだったからもう食べても良いかな、という欲が半分だった。
 何とかすんでのところで持ちこたえていた心だったけれど、ゴーサインが出てしまったのであれば仕方ない。

「い、いただきますっ!」

 クリスさんの笑顔に見送られながら、私はその煌めくお蕎麦に箸をつけた。
 軽くほぐして幾らか持ち上げると、先ず香りが強く立った。
 伊吹蕎麦の特徴の一つだ。
 滋賀県の伊吹地方は、日本蕎麦発祥の地としても知られている。
 江戸時代には、その土地を治める藩主は勿論のことながら、当時の徳川家にも献上されていた程だという話だ。
 かの松尾芭蕉の弟子である森川許六きょろくが編んだ『本朝文選』には「伊吹蕎麦。天下にかくれなければ」という、広く、そして素晴らしいものとして知られていた旨をあらわす記述もある程、上質なお蕎麦として認知されている。
 歴史は古く、平安時代後期から鎌倉時代にかけ、伊吹山中腹にあるお寺から始まったものだとされている。発祥が修行僧の貴重な食糧源であったとされていることからも、繋がりはあるのだろう。
 伊吹蕎麦の特徴は、たった今私が感じた『香りの強さ』と、実の小ささ。厳しい伊吹山にて育まれるからこその風味だ。
 伊吹山は、滋賀県の北東方面に位置する、岐阜県の境にある山。冬場は雪が非常によく降るとされていて、その原因は日本海側からの季節風の通り道となるからだ。
 その季節風のことを、滋賀県では『伊吹おろし』と呼んだりもする。
 そんな厳しい環境下で育つものだから、希少も希少な訳で、現在は出荷量がとても少なく、滋賀県内でも限られたお店でしか食べることが出来ないと聞いたことがある。
 ピリッと辛い香りのする大根は、伊吹大根かな。

「美味しい……美味しいです、これ」

 一口で分かる、本物の味。
 私は別に食に通ずる人間ではないから、本質的なことを言っているのではない。
 昔ここに住んでいた時分、母に連れられていったお店で食べた味と、まったく同じだったのだ。
 あれも確か、伊吹蕎麦だった筈だ。

「おばあちゃんがね、販売所の物を知り合いから譲ってもらったんですって。今では買えるお店も少なくなってしまいましたから、特別に」

「えっ、そんなもの、私なんかの歓迎に使っちゃって良かったんですか……?」

「ええ、勿論。あの人の狙いは、『素直な気持ちが飛び出て来る雫ちゃんの感想をもとに、自分の蕎麦を作ること』だそうですから。遠慮なく召し上がって、忌憚のない意見を述べて頂ければそれで構いません」

「な、なるほど……では、遠慮なく」

「ええ。どうぞ、ごゆっくりと」

 クリスさんはいつものようにふわりと笑った。
 カウンター越しに向けられるこの表情は、反則だ……常連さんが増えるのも頷ける。
 二口、三口と食べ進める毎に、幸せは益々口の中いっぱいに強く広がってゆく。
 こんな贅沢、他では味わえないな。
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