琵琶のほとりのクリスティ

石田ノドカ

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第1章 『勉強の日々、初めての謎解き』

第4話 地域

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 閉店後、清掃や整頓も終えた後は、マスターさんの厚意でお勉強タイムを設けて貰っている。
 喫茶店のこと、働く上で必要な知識など、空いている時間に教えて欲しいと頼み込んだところ、私さえよければ閉店後に、ということで決まった時間だ。
 初日は仕事に着いて行くのに精一杯だったから、それの反省会。二日目はそれと勉強半分ずつ、そして今日だ。

「そうですねぇ。せっかくですから、雫さんが知りたいことをお教えいたしましょうか」

 ハンドミルの手入れをしながら、マスターさんが言う。
 私の知りたいこと、か。
 前回の勉強会の際には、ここ淡海のことを少しと、周囲の環境について教えて貰った。
 何でも、地域と繋がることはとても大事なのだとか——

「そう、地域!」

「はい?」

「地域です、地域! 前回、マスターさんが言っていたやつです。地域と繋がることはとても大切だって。この辺りのお店や特徴なんかについては教えて頂きましたけれど、それ以上のことはまだだったじゃないですか。特にここは常連さんの多いお店ですし、地域と繋がることはとても大切なんだろうってことは、何となくは分かるんですけど」

「ああ、その話ですか。では、本日はもう少し踏み込んだ話を致しましょう」

 ふわりと微笑むと、マスターさんはハンドミルを置いた。丁度、手入れも終わったらしい。

「地域、と一口に言っても、様々な特徴や特色、他と違ってここにしかないもの、などございますが――そこに突っ込む前に、まずは私たちのことから話しましょうか」

「私たち?」

「ええ。雫さんは、私、貴女自身、そしてここへ来るお客様とを見比べた時、何か思うところはありませんか?」

「思うところ、ですか……何でしょう。若い?」

「ふふっ、それもそうですね。では、聞き比べて、と質問してみれば?」

「聞き比べて……あっ! マスターさんが標準語です!」

 思いがけず出た大きな声に、しかしマスターさんは笑顔を崩さないままで、正解です、と大きく頷いた。

「つゆさんも標準語のようですが、私とはまた訳が違うことでしょう。が、それは今は置いておいて。どうしてだか分かります?」

「え、っと……マスターさんは、引っ越して来られた方、ではないですよね。それなら私と同じような理由だし。うーん」

 それと地域と、どう関係しているのか――地域?
 ここは滋賀県。関西だ。住んでいる人は皆、基本は関西弁で話している。私だって昔は、ううん今も、ふとした拍子には関西弁が出てしまう。
 関西弁まみれの中に、標準語……。

「一つだけヒントを差し上げましょう。標準語、そして関西弁と、そのどちらをも普段は喋らない人の存在です」

「どちらも話さない…………あっ! そっか、観光客!」

 私は、今日の午前中に芽吹いた悩みの種を思い出す。
 浮かんだのは、ある時お勧めを聞いて来た観光客の顔だ。
 マスターさんが大きく頷く。ビンゴだったようだ。
 ヒントありきとは言え、この優しい笑顔を向けられると、心が小躍りしそうに嬉しい。

「産まれてこの方、私は滋賀県から住まいを移したことがございません。故に、意図的に標準語で話しているというわけです。理由は、今し方雫さんが正解されたことにあります」

「そっか、観光客で関西弁を話す人なんて、そうそういませんもんね」

「ええ。他県や他所に比べると、滋賀県の、それも近江八幡市は、観光客が特別多い訳ではありませんが、やはりおられることに変わりはありません。たねやさん、クラブ・ハリエさんといったお菓子屋さんから、田園水郷地帯を一望できる八幡ロープウェイ、八幡堀に、新町通り、と挙げれば数ある観光地を、まったりゆったりと巡り歩かれるのです。その中には少なからず、カタコトでも日本語を話せたり、話せなくとも聞いて理解することの出来る方だっておられます。そんな方とお話しをする際には、関西弁や、地域特有の言い回しが多い滋賀の言葉より、標準語で話しかける方が、円滑に会話も進められますし、何より第一印象が良い。特に母国で勉強をなんかされた方ですと、習うのは当然、標準語です。加えて言うなら、相手が外国の方でなくとも、標準語なら誰にだって間違いなく伝わります」

「だから、標準語を……」

 地域と繋がる、とはこういうことか。
 ただ知っているだけではない。会話一つで、そんなことまで考えているなんて。

「その上で、ここいらのことも知っておけば、簡単にでも紹介が出来ます。これが、私がまず第一に考えていることですね。とても大切なことです」

「な、なるほど……」

「その点で言えば、雫さんは知らず知らずのうちに達成しているようなものですね。東京におられたのは、確か十年程と」

「は、はい。すっかり染み付いてしまったみたいで。別に困ることもないからって、わざわざ関西弁も喋っていないだけなんですけど」

「関西弁女性も好きですけれど、奥ゆかしい淑女のような気品が漂っていて、私は良いと思いますよ」

「しゅ、淑女だなんて、そんな…!」

 私にそれを言うなら貴女は何なのだ。神か仏か。
 喜びつつも項垂れる私に、マスターさんはきょとんとした視線を向ける。

「な、なるほど、そういうことでしたか…! じゃあ、地域のことについて、もう少し…!」

「それは追々、で構わないかと。先ほどは踏み込んで教えると息巻いた私ですが、周囲のことを知るには、やはりご自分で足を運ぶのが一番ですから。今日のようなことがあれば、また私が助けますし。百聞は一見に如かず、ということです」

「ただ話し聞いて教わるより、自分なりに、ということですか」

「その通りです。お散歩でしたら幾らでもお付き合い致しますから、営業時間外ならいつでも声を掛けてください」

「わ、分かりました…!」

 思わぬ進言だが、これは有難い。
 未だ周囲の目や声が怖く感じてしまう私には、マスターさんの存在は大きすぎる。
 …………あれ? そう言えば、仕事中はまったくそんなこと気にならなかったな。
 緊張と忙しさから、だけではない。

(きっと……)

 ちらりと見える、マスターさんの横顔。
 優しい口元に視線――女の私でも魅力的に映ってしまうくらいに素敵で美しくて、何より優しい。
 この世の何よりふわふわな物体に包まれているような、そんな心地だ。
 いつまでも甘えている訳にはいかないけれど、甘えられる内は、この夢のような温かさに包まれていたいとさえ思う。

「さて、思っていたより時間もまだ早いですが、他に何か聞きたいことは――」

「珈琲……」

 つい口をついて出た言葉。
 ただ、マスターさんの優しさや、あの一杯の温かさについて考えていただけだったのだけれど、思いがけず零れたそれは、質問に答える形になった。

「珈琲、ですか。そう言えばあの日も、雫さんはとても幸せそうに飲んでおられましたね。悩みを打ち明けながらもあんな表情をされてしまって、私、胸がいっぱいになりましたよ」

「あ、あれは、ただ本当に、あの珈琲がビックリするくらい美味しかったからで……」

「ありがとうございます。当店一番の自慢ですからね、あの味は」

「はい。とっても複雑な深い味わいなのに、凄く口溶けが優しくて、不思議だなと。あんな珈琲、他では飲んだことありません」

「それはそうですよ。当店でしか取り扱っていないブレンドなのですから」

「ブレンド、ですか。そう言えばよく耳にする言葉ですけど、それってどういう意味なんですか?」

 今更ながらな疑問をぶつける。

「そうですね。では、残り時間は珈琲の基本についてお教えしましょうか」
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