別れの曲

石田ノドカ

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第3楽章 『calando』

3-24.辞退

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 一さんが『もうすぐ着く』と連絡が来る頃には、すっかり日も傾いてしまっていた。
 それだけの時間も経つと、ある程度の冷静さは取り戻していたけれど、頭の中を巡るのは母のことばかり。
 コンクールはどうなったのか――考える余裕はなかった。どうでも良かった。
 結果が欲しかった訳では、ないのだから。
 だから私は、母のこれからを、そして自分がどうしていくかを、必死になって考え始めた。
 けれど、いくら考えても考えても、母が笑っている姿しか浮かんでこなくて、何も答えは出ない。
 何でもない時に向けてくれる笑顔。受験が上手くいったことに喜んでいる笑顔。もっと昔――うんと幼い頃へと遡って思い出してみても、母はいつだって笑っていた。
 本当は、自分が一番辛かった筈なのに。
 母がどれだけ強いひとだったのか。今なら分かる。

「陽和…!」

 私の名前を呼びながら駆けて来る姿があった。一さんだ。
 すぐ目の前までやって来た一さんに、私は強く、ただ強く、縋るように抱き着いた。

「お母さんが……お母さんが…! どうしよう、一さん……私、どうしたらいいの、お父さん…!」

 受け入れていた筈だった。
 覚悟だって決めた筈だった。
 陽向の前で涙を流して、乗り切れる気がしていた――その筈だったのに。
 まさか、こんなに早くその時が来てしまうなんて、思いもしなかった。考えられなかった。
 夏を迎えることが叶わないだろうからと、春のコンクールを選んだ。春ならまだ保つだろうと、そう信じて疑わなかったからだ。
 せめて一度だけ――たった一度だけ、大好きな母に、大好きな曲を、晴れやかな舞台で聴いて欲しかっただけなのに。
 こんなことになるのなら、いっそただの発表会にでも出場しておけばよかった。いや、どこに出ることもなかった。
 一度だけ、ただ私の奏でるあの曲を聴いて貰えるのなら、それだけで良かったのに。
 コンクールに拘る必要なんてなかった。緊張感を得る必要なんてなかった。上手いか下手か、そんなことどうでもよかった。
 大好きな母にだけ聴いてもらえたならば、それで――
 ボロボロでも、みっともなくとも、ただあの曲を聴いてくれたのなら――母があの舞台で弾いたあの曲が好きなんだって、ピアノが好きなんだって伝えることが出来れば、それだけで良かったのに。

「陽和……」

 小さく、一さんが名前を呼ぶ。抱擁を返してはくれないけれど。
 声にならない声で叫んで、涙を流して泣き続ける私は、

「お父さん……うっ、うぅ……」

 自然と、そう呼んでいた。

「陽和……」

 さっきより幾らも大きい声で名前を呼ぶと同時、一さんは――父は、私の身体を抱き返してくれた。

「大丈夫、大丈夫だよ、陽和…! お母さんはそう簡単に逝くような人じゃない。ずっと、そうだったんだ。きっと大丈夫さ。強くて優しい、最高のお母さんなんだから…!」

 それは、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
 当然だ。父にとっても、母はかけがえのない存在なのだから。
 危篤だと、はっきりと言っていたことを思い出して、また怖くなる。けれども父の言葉は、声は、すっかり弱り切ってしまっていた私の意識を、安らかな眠りへと誘った。
 意識が途切れる間際。
 強く念じて、また陽向のところへ行こう。そこで、時間も忘れてうんと泣いて、気持ちを切り替えよう。そう思いながら、私はあの世界のことを思うけれど。
 いくら思っても。いくら呼びかけても。
 私の意識が、あの幻想的な空間へと落ちることはなかった。




 夜。
 医師から、状態が横ばいに落ち着いたとの報せを受けて、私たちはそれぞれ帰路についた。
 家に辿り着いてから少しした頃、コンペの主催側から、事の説明を求める電話がかかってきた。
 私は手短に話し、謝罪とともにコンペ辞退を表明したけれど、先方からは、せっかくだから最後の一曲も聴きたいものだったと言われた。
 選考の対象にはならないが、良かったら聴かせてくれないか――そう持ち掛けられたけれど、もう何の意欲も沸かず、すっかり疲弊しきっていた私は、そこからは何も言葉を返すことが出来ず、少しの間を置いてから通話を切ってしまった。
 もう、そのことは考えないように決めて。
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