別れの曲

石田ノドカ

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第3楽章 『calando』

3-12.ずっと一緒にいられたら

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 久方ぶりに視るその世界に、私はどこか寂しさすら覚えた。
 何度も目にしている筈なのに、どうしてそんな思いを抱かせるのか。
 場所はまた、あのソファの上。
 考えても理由は分からなかったけれど、妄想でも勘違いでもないことが分かるだけで、今の私には十分だった。
 確かめたいこと、問い正したいこと――それらは全て、一さんの時と同様にはっきりさせておかなければならない。
 自然と小走りになる。程なく、足は更に速くなっていった。
 息も切れかかった頃、ようやく、あのピアノのある空間へと辿り着いた。
 肩で息をしながら見つめる先には、椅子に腰かけ楽譜を捲る、その姿があった。
 改めて見ると彼は、とても華奢で、少し力を入れて握ろうものなら折れてしまいそうなくらい、儚い存在に思えた。
 さらりと流れる髪も、長く細い指も、どれも自分とは似ていない。けれど、

「久しぶり。待ってたよ、陽和」

 そう言って笑いかける時の、目の細くなる様子、瞳の色、口元にできる小さな笑窪は、写真に写る自分とよく似ている。
 双子――その言葉が確かで、偽りのないものなのだと、ようやく実感することが出来た。
 いわゆる水子である陽向は、本来であれば、このような姿で目に見えるということは有り得ない。だからこそ、どこか遠い存在であるような、あるいはこの目の前に在る姿とは違うものだったのではないかと、私は心のどこかで思っていた。
 そう、私自身が『神様か何かなの?』と冗談を言ったように。
 けれどもようやく、目の前にいてこうして笑いかけて来る存在こそが『陽向』なのだと、理解することが出来た。
 今、私の方を向いて微笑む陽向は、確かに陽向そのもの。
 夢ではなく、想像でもなく、確かに陽向という存在なのだ。

「先生、今頃びっくりしてるんじゃないかな? 陽和が眠る瞬間、先生は初めて見――」

「君とこの場所で出会うきっかけは、ナルコレプシーだった。夜とかちょっとお昼寝とかって時、つまり自分の意思で睡眠をした時には、君は現れなかった。言い換えるなら、まるで、君の方から誘ってきているみたいに」

「――――うん」

 頷くと、陽向は楽譜を閉じて答えた。

「ナルコレプシー、昔から持ってた病気だけどさ。本当は、昔から君が、私のことを呼んでたんじゃないのかな? だっておかしいもん。登校中とか夜道とか、危険がありそうな時には、一回だって起こったことがないんだから」

 私は大きく一歩、前へ出る。

「ねえ。そうなんでしょ――陽向?」

 私を捉えるその瞳を、私も真っ直ぐに見据えて訴えかける。

「陽向、か。そうだね……もう、他人ではないってことも分かってるんだもんね」

「双子の、兄か弟。どっちかは分かんないけど。私と同じ遺伝子を分けた人――本当ならいた筈の、私の兄弟」

「ああ、その通りさ。なら、この空間のことについても、大方の予想はついているんじゃないのかな?」

 言いながら、陽向は周囲をぐるりと見回した。
 倣うように、私も視線を巡らせる。

「夢、じゃないんだよね、ここ。夢を無意識とするなら、意識ってとことかな? だから、向こうで視た楽譜が、他の楽譜とごっちゃになることなく鮮明に顕れて、理解できて、向こうでも使える自分の力として扱えるようになってたんだ。眠ってる筈なのに熟眠感がなかったのは、その間ずっと脳は働いてたから」

 ついさっき、杏奈さんが言っていたようなことだ。
 これは言わば、頭の中の整理。しかし、それで熟眠感を得られていないことは、大きく異なる点だ。
 やがて、陽向が立ち上がった。

「うん、その通りだ。僕が君に、意識的にあれらを見せていた。それを重ねる度、君の方が僕に慣れて、向こうでも弾けたり読めたり出来るようになった、というところだね」

 陽向は頷き、笑った。
 やっぱり、仕草一つ、表情の変わり方一つを取っても、自分と似通っている。小さな変化が、気になって仕方がない。
 それに――耳の形が同じだ。耳の形が似るのは、親子兄弟姉妹以外にはまずないと言う。

「最初の方に言ったろう? 僕は神様でも何でもないってさ」

「え、ヒントのつもりだったの、それ? 分かりにくいって。そのまま答えを言ってくれれば良かったじゃん」

「夢の中で会った僕は双子の一人でした、って? そんなことをすれば、君は寧ろこの真実まで辿り着けていなかったと思うよ」

「……まぁ、ね。うん、多分そうかも」

 私は一歩、二歩と足を進め、陽向の横を通り過ぎると、つい先ほどまで陽向が座っていた椅子へと腰を降ろした。

「ねえ。一つだけ聞いても良い?」

「何でも答えるよ」

「君が私に干渉出来る理由――君にはあり得ない筈の成長した姿をこうして見せて、話して、それぞれ独立した意識を持ってるってことには、何か理由があるんだよ。それは君が――ううん、君だけが、その理由を知ってる。お母さんも一さんも、涼子さんも、私も知らない、その理由を」

「ああ、知っている」

 陽向ははっきりと頷いた。やっぱり、そうなんだ。

「私が実は多重人格でした、って訳じゃないんだよね。君は実際、君としてここにいるんだよね?」

「勿論だ。でも、僕だって万物万象を知っている訳ではない。神様じゃないからね。君の見聞きしたもの、知っている言葉でしか表すことが出来ない。僕が君に披露したドビュッシーの逸話や演奏の指摘だって、君が向こうでどこかから仕入れていて、眠っていた情報だ。一度は覚えて忘れてしまっていたものに過ぎない。だからこれは、あくまで状況から判断しただけの、ともすれば数ある答えの内の一つだと、そう思って聞いてね」

「それでもいい。十分」

「――――分かった」

 目を伏せ、ふっと息を吐くと、自身の胸の辺りを押さえて話し始めた。

「敢えて『心臓』って言おうかな。はっきりと身体が形成される以前のことだから、どの部位がとは分からない上に、こうして自我もあるからね。それが、陽和の身体と一緒になってるんだよ」

「い、一緒に……?」

「うん。君も知っての通り、僕は母胎内で途絶えている。それが、ある時ふと消えてしまうようなことがあるんだ」

「胎児が消えて……それって、バニシングツインってやつ?」

 一さんや母の話を聞いた後で、色々と調べている内に知ったものの一つに、そんな言葉があった。
 胎内で別れた双子の内片方が亡くなった時、まるで消えてしまうかのように、子宮からいなくなる現象だ。
 でも、それは子宮へと吸収されることを指す。陽向も、その通りと言いながら「でも」と続けた。

「それに近い、というだけだ。子宮ではなく、君に吸収される形になってるわけだからね」

「吸収って……そんなことあり得るの? 一度ははっきりと分かれてるんでしょ?」

「いや、そもそもこれはバニシングツインではないからね。言ったろう、はっきりと身体が形成される以前のことだって」

「言ったけど――えっ、つまりそれよりも前ってこと?」

「多分、だけどね。本来持つ筈だったものの一部が君の中に残されたままで、分離したんだと思う。理屈も答えも分からないけどね。でも、そうとしか思えないんだ。事実、僕は僕で、君とは違う自我を、意識を持ってここにいるからね」

 胸を撫でる手に力を籠める陽向。真っ白なシャツが、くしゃりと歪む。

「時間の問題だろう、なんて思ったのかな。分からないけど、あの時既に、病は母さんの身体を蝕み始めていた。知らない間に、元々弱っていたんだ」

「そ、そんなことって……」

「弱り始めた身体では、あまり物も食べられなくなる。事実、母さんはほんの僅かずつではあったけれど、食欲が落ちていたみたいだからね。それは陽和も知っている通りだ」

 確かに、そんな話も一さんから聞いていた。

「僕と陽和のどちらか、あるいは両方に栄養がいかなくなったって、何ら不思議じゃない。だから、だろうね――本能的に、君の命を優先したんだろう」

「ゆ、優先って……どうして?」

「決まってるさ」

 胸元から手を離し、私に向き直ると、

「まだお腹の中に在る時からずっと、母さんの聴く、そして弾くピアノの音色が、潜在的に大好きだったんだよ」

 躊躇うことも、含みを持たせることもなく、柔和な笑みで以って堂々と言い放った。
 呆気に取られて、私は言葉を失った。物心どころか、心さえもまだ芽生えていないであろう時から、そんなことを――いや、仮に本能がそう思っていたとして、それをどうして陽向が説明出来よう。

「双子、だからかな。根拠なんてないさ。ただ、そう思うってだけ」

「そんなこと……」

 陽向は続ける。

「幼少の頃の君の音色は、とても美しく、楽しさと自信に溢れたものだった。けれど、あの日以降、心を閉ざして、嫌いだ嫌だと言い聞かせて避けて来た。それでも――」

 ピアノの前に立つと、陽向は優しく鍵盤に触れた。
 そうして撫でながら、慈しむような口調で、安心したような表情で続ける。

「こんなに素敵なものまで創り出して、あれだけ素敵な音をまた奏でてみせた。君の音は、まだ死んじゃいない。あの日まで持っていた情熱も、愛も、母さんへの憧れすらも、君は片時だって手放したことはなかった。昔と変わらない思いを、確かに持ち続けていたんだよ。君に託して、正解だったんだ」

 陽向の言葉に、私は胸が熱くなった。しかしそれと同時に、一つ気になる言葉も出て来た。

「創った……? え、このピアノこと? 誰が?」

 陽向は、何のこともないように言う。

「ん? 陽和に決まってるでしょう?」

「えっ? いや、だって――」

「言ったでしょう、僕と君とは双子で、僕の半身は君の中にあるんだ。この世界は僕だけでなく、二人で創り出したものなんだよ」

「二人で……?」

「うん、二人で。前に伝えた、ここに来る方法。『君が望めば』って言ったでしょ? きっと、君も心のどこかで、憧れの姿になることを望んでいたんだろうね」

「わ、私が……」

「嫌いになろうとしても、離れようとしても、完全には無理だった。心が、本能が、ここに来られることを望んでいたんだから。もう十二分におかしな現実を見て来たんだ。『私が創り出したんだどうだえっへん!』くらい言ってもらわないと」

「そんなの無理だよ…! たった今知った事実なんだし……」

「あはは! うん、そうだろうね」

 こちらはやや憤慨しているようなものなのに、陽向は誤魔化す素振りもなく笑う。しばらくはそれを見て頬を膨らませていた私も、最後には釣られて笑い出してしまった。
 そうしてどちらともなく笑い止んだところで、私は「ねぇ」と切り出した。

「また、ここで弾かせて貰っても良いかな? 知ってるとは思うけど、コンペに出るからさ。付き合ってよ、その練習に。ううん、その先も、ずっとずっとさ」

 それは、何のことはない言葉だった。
 この先何年、何十年経とうと、同じ命を生きている限り、この心臓が動いている限り、その最期の時が来るまではずっと一緒だろう。私はそう思っていた。
 何のことはない言葉。そのはずだった。
 けれども陽向は、

「そうだね。弾こう、一緒に――」

 小さく微笑んだ後で、

「ずっと一緒にいられたら、とてもいいだろうね」

 ほんの僅か、困ったように笑った。

「それ、って――」

 思わず声を上げる。
 しかし瞬間、世界は無情にも暗転した。
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