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第3楽章 『calando』
3-9.きっと
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「大事にしまっていた箱を持ち出したこと。それを相談もなく陽和ちゃんに見せたこと。それによって、あの子の身体を危険に晒してしまったこと。何より、貴女の不在中、不安定になってしまっていた陽和ちゃんを支えてあげられなかったこと――その全てに謝罪し、一切を白状致します」
「別にいいわよ、そんなこと。あなたのことは誰より信頼してるし、信用してる。何の意味もなくこんなことをしたんじゃないってことぐらい、私には分かってる。だから、顔を上げてちょうだい」
「……ありがとう、ございます」
深く深く、いっそう深く頭を下げてから、涼子さんはようやく顔を上げた。そうして、事の経緯を語り始める。
「貴女が発たれてから、すぐのことでした。トリニティカレッジ、と、陽和ちゃんが口にしたのです」
そんな言葉に、私は思わず声を上げた。
「あの子が? どうしてそんなこと……」
「ええ。どこで知ったか、誰に聞いたのかは定かではありません。しかし、ただ『綺麗な場所なんだけど涼子さんは知ってる?』と尋ねるにしては、納得が出来ないくらい、あの時の様子はどうにも腑に落ちないものでした。とても、神妙な面持ちだったのです」
「――そう」
そう話す涼子さんの表情に、私は嫌な胸騒ぎがした。
トリニティカレッジ――それは私にとって、とても思い出深い場所であったからだ。
陽和と陽向を身籠ってから、自身が病に侵されていると判明するまでの間に、私たちは新婚旅行に出かけた。
アイルランドの首都ダブリン。そこにある件の図書館は、私が幼い頃から憧れていた地。
写真や動画で観るより何倍も、何十倍も綺麗で、優雅で、また荘厳なその姿にひどく感動して、ひとみさんと、まだ光を知らない我が子二人と、四人で楽しんだ場所だ。
「あの時分、お腹には既に二人を身籠っておられましたから。親の見たもの聞いたものを産まれてからも覚えている子どももいるという話を聞きます。が、そもそもまだあまり形もない胎児です。ただ、それとは関係なく、陽和ちゃんのあの様子に、嫌な結びつきを感じた、と申しましょうか。何だか、嫌な予感がしたのです。ええ、根拠などはございません。ただ、今のままではいられない――止まっていた時が動き出すような、そんな予感がいたしました」
「――そう。なら、貴女にそれを決断させたのは?」
「高熱が出たから休んでいた、と夜に貴女にも連絡をした日の朝、私は本当は一度、ここに来ていました。陽和ちゃんの様子を見る為、というのともう一つ。ポストの中に、貴女の知らない手紙がある筈だったからです。ええ、先ほど美那子さんが仰られました、あの手紙のことです。勿論、私の方には事前に連絡が来ていました。陽和ちゃんに渡すかどうかは私が判断してくれ、と仁三さんから言われていたのです。熱が出てしまったことはイレギュラーなことでしたから、それを取り出しに行くために伺いました。けれど――陽和ちゃんに胸を張れるような家政婦には、どうやらなれなかったようです。私は、それを利用しようと考え至ったのですから」
「手紙が陽和の手に渡れば、ひとみさんの存在は割れる。でも、そこから陽向の存在まで知られるかは分からない。だから、この箱を置いておいた、ということね。なるほど。だから手紙は回収せず自宅に戻って、陽和に、そして私に連絡をしたのね」
「ええ。仰る通りでございます」
タネは分かった。
でも、そんなことをする意味についてはまだ不明なままだ。
「別に怒る理由も、諫める理由もないけれど――分からないわね。どうして貴女がそこまで思って、どうして行動するに至ったのか」
涼子さんは潤んだ瞳で、優しく笑った。
「陽和ちゃんには――あの子には昔から、私にだけ見せる姿がありました。ピアノとの決別を余儀なくされたあの日や、進路に迷った時など、決まって、料理をしている私の隣にふらりとやってきて、何かやることはないかって尋ねるんです。今よりもずっと気の弱かった女の子が、まるで苦しみを押し殺すかのように、誤魔化そうとしているように、身体に力を入れて必死になって抑えるような表情をしながら、ちょこんと私の横に立ってね」
「陽和が?」
「ええ。とっても……とっても、可愛いんですよ? 元々小さな身体が、更に小さくなってしまったみたいにしおらしくて、何だか無性に抱きしめたくなってしまうくらい」
冗談交じりに少し笑って、すぐにまた穏やかな表情を作る。
「あの時も正に、そんな様子でした。それで私にトリニティカレッジのことを尋ねて来たということはつまり、知りたがっているけれども誰にも尋ね辛い――そして何か、あの子にとって重要な事が起こったか、今正に起ころうとしているか。いずれにしても、そのことで、これまでと同じように堪えていた『知りたい』という気持ちが溢れているような、そんな目をしていたんです」
涼子さんは温かく、明るく、けれどもどこか苦しそうに、笑ってみせた。
「隠せる筈もありませんでした。ただ昨夜に見た何でもない夢の話をされたのであれば、私もこれまで通りでいられたかもしれません。けれど――けれど、私だって、美那子さんと同じだけの月日を、あの子とともに生きているのです。芽生えたこれが母性なのかは分かりませんが、何も思わないなんて、そんなことはありませんよ。両親もとっくにいませんし、私自身こんな歳です。夫も早くにいなくなって、子どもだっていませんし、私は一人っ子。一番身近に『家族』と呼べるような相手は、他でもない貴女と、仁三さん、そして陽和ちゃんだけなんですよ」
ここにいるのは仕事だからと、そう割り切っていた涼子さんは、自分の思いを語ったことは今まで殆どなかった。
一度もなかったかもしれない。
口では『仕事だからではない』と言いながら、仕事をしている身として徹してきた。
それにも、限界が来てしまったのだろう。
「とても、苦しかった……貴女の為で、陽和ちゃんの為で、仁三さんの為でもあるって、そう分かっていますし、あなた方の意志に異を唱えたくなった訳でもありません。でも……あんな年端もいかない子に、無垢で愛らしい子に、十年以上も嘘を吐き続けている自分が、苦しくて苦しくて……ただ、私が、この苦しみから解き放たれたかっただけ……本音で、嘘一つない心で、ちゃんとあの子と向き合いたかった。もし渡航した先で何か決定的なことが分かったなら、先の短いお命です。そうなれば、あの子の未来を見届けるのはきっと、私になることでしょう。だから……だからこそ、もうあの子には隠し事をしたくなかった……全てを知ってもらって、曇り一つない気持ちでちゃんと貴女のことを送って――その上で未来を歩んで欲しかっただけです。だって……だって、私はこんなにも――」
止まることなく溢れる感情のままに、涼子さんは続ける。
それこそ、嘘偽りない気持ち、そのものだった。
「どうしようもないくらい、あなたたち三人のことを、心から愛しているのですから」
これまでにないくらいに清々しく。
今までずっと言えないままだった気持ちまで吐き出してようやく、ようやく涼子さんは、心からの笑みを浮かべた。
初めて見た、こんな笑顔。
ずっとずっと、本当に苦しかったんだ。
「涼子さん……」
思わず立ち上がり、私は震えるその手を取った。
同じだ。
十六年間ずっと、私だって苦しかった。同じなんだ。
「ありがとう、涼子さん。私に代わってあの子のことを見ていたのが貴女で、本当に良かった。ありがとう。どれだけ言ってもきっと足りないわ」
「いいえ……いいえ、美那子さん……私も、この家でお仕事が出来て、大変嬉しく思っています……旦那様も奥様もそうでしたが、これほどまでに家族への愛情深い方ばかりのご家庭で仕事が出来ることは、この上なく幸せなことです。だから――だからどうか、美那子さんも頑張ってくださいね。あの子は必ずやり遂げます。必ずです。あっと驚くような結果を残して、美那子さんの病気だって吹き飛ばせるくらいの活躍を見せてくれることでしょう。私は、そんな予感が致します」
「貴女の予感はよく当たるものね。ええ、そうね。何たって、私とあの人の子どもなんだから。不甲斐ない結果を残したら、おちおち死んでもいられないわ。そうなったら、この私が一から指導してあげないと」
「ええ、その意気でございます、美那子さん」
まったく、本当に。
改めて思い知るわ。
私の周りは、こうも恵まれていたのね。
きっと陽和も――私たちも、それぞれ目指すところへ辿り着ける筈だわ。きっと。
「別にいいわよ、そんなこと。あなたのことは誰より信頼してるし、信用してる。何の意味もなくこんなことをしたんじゃないってことぐらい、私には分かってる。だから、顔を上げてちょうだい」
「……ありがとう、ございます」
深く深く、いっそう深く頭を下げてから、涼子さんはようやく顔を上げた。そうして、事の経緯を語り始める。
「貴女が発たれてから、すぐのことでした。トリニティカレッジ、と、陽和ちゃんが口にしたのです」
そんな言葉に、私は思わず声を上げた。
「あの子が? どうしてそんなこと……」
「ええ。どこで知ったか、誰に聞いたのかは定かではありません。しかし、ただ『綺麗な場所なんだけど涼子さんは知ってる?』と尋ねるにしては、納得が出来ないくらい、あの時の様子はどうにも腑に落ちないものでした。とても、神妙な面持ちだったのです」
「――そう」
そう話す涼子さんの表情に、私は嫌な胸騒ぎがした。
トリニティカレッジ――それは私にとって、とても思い出深い場所であったからだ。
陽和と陽向を身籠ってから、自身が病に侵されていると判明するまでの間に、私たちは新婚旅行に出かけた。
アイルランドの首都ダブリン。そこにある件の図書館は、私が幼い頃から憧れていた地。
写真や動画で観るより何倍も、何十倍も綺麗で、優雅で、また荘厳なその姿にひどく感動して、ひとみさんと、まだ光を知らない我が子二人と、四人で楽しんだ場所だ。
「あの時分、お腹には既に二人を身籠っておられましたから。親の見たもの聞いたものを産まれてからも覚えている子どももいるという話を聞きます。が、そもそもまだあまり形もない胎児です。ただ、それとは関係なく、陽和ちゃんのあの様子に、嫌な結びつきを感じた、と申しましょうか。何だか、嫌な予感がしたのです。ええ、根拠などはございません。ただ、今のままではいられない――止まっていた時が動き出すような、そんな予感がいたしました」
「――そう。なら、貴女にそれを決断させたのは?」
「高熱が出たから休んでいた、と夜に貴女にも連絡をした日の朝、私は本当は一度、ここに来ていました。陽和ちゃんの様子を見る為、というのともう一つ。ポストの中に、貴女の知らない手紙がある筈だったからです。ええ、先ほど美那子さんが仰られました、あの手紙のことです。勿論、私の方には事前に連絡が来ていました。陽和ちゃんに渡すかどうかは私が判断してくれ、と仁三さんから言われていたのです。熱が出てしまったことはイレギュラーなことでしたから、それを取り出しに行くために伺いました。けれど――陽和ちゃんに胸を張れるような家政婦には、どうやらなれなかったようです。私は、それを利用しようと考え至ったのですから」
「手紙が陽和の手に渡れば、ひとみさんの存在は割れる。でも、そこから陽向の存在まで知られるかは分からない。だから、この箱を置いておいた、ということね。なるほど。だから手紙は回収せず自宅に戻って、陽和に、そして私に連絡をしたのね」
「ええ。仰る通りでございます」
タネは分かった。
でも、そんなことをする意味についてはまだ不明なままだ。
「別に怒る理由も、諫める理由もないけれど――分からないわね。どうして貴女がそこまで思って、どうして行動するに至ったのか」
涼子さんは潤んだ瞳で、優しく笑った。
「陽和ちゃんには――あの子には昔から、私にだけ見せる姿がありました。ピアノとの決別を余儀なくされたあの日や、進路に迷った時など、決まって、料理をしている私の隣にふらりとやってきて、何かやることはないかって尋ねるんです。今よりもずっと気の弱かった女の子が、まるで苦しみを押し殺すかのように、誤魔化そうとしているように、身体に力を入れて必死になって抑えるような表情をしながら、ちょこんと私の横に立ってね」
「陽和が?」
「ええ。とっても……とっても、可愛いんですよ? 元々小さな身体が、更に小さくなってしまったみたいにしおらしくて、何だか無性に抱きしめたくなってしまうくらい」
冗談交じりに少し笑って、すぐにまた穏やかな表情を作る。
「あの時も正に、そんな様子でした。それで私にトリニティカレッジのことを尋ねて来たということはつまり、知りたがっているけれども誰にも尋ね辛い――そして何か、あの子にとって重要な事が起こったか、今正に起ころうとしているか。いずれにしても、そのことで、これまでと同じように堪えていた『知りたい』という気持ちが溢れているような、そんな目をしていたんです」
涼子さんは温かく、明るく、けれどもどこか苦しそうに、笑ってみせた。
「隠せる筈もありませんでした。ただ昨夜に見た何でもない夢の話をされたのであれば、私もこれまで通りでいられたかもしれません。けれど――けれど、私だって、美那子さんと同じだけの月日を、あの子とともに生きているのです。芽生えたこれが母性なのかは分かりませんが、何も思わないなんて、そんなことはありませんよ。両親もとっくにいませんし、私自身こんな歳です。夫も早くにいなくなって、子どもだっていませんし、私は一人っ子。一番身近に『家族』と呼べるような相手は、他でもない貴女と、仁三さん、そして陽和ちゃんだけなんですよ」
ここにいるのは仕事だからと、そう割り切っていた涼子さんは、自分の思いを語ったことは今まで殆どなかった。
一度もなかったかもしれない。
口では『仕事だからではない』と言いながら、仕事をしている身として徹してきた。
それにも、限界が来てしまったのだろう。
「とても、苦しかった……貴女の為で、陽和ちゃんの為で、仁三さんの為でもあるって、そう分かっていますし、あなた方の意志に異を唱えたくなった訳でもありません。でも……あんな年端もいかない子に、無垢で愛らしい子に、十年以上も嘘を吐き続けている自分が、苦しくて苦しくて……ただ、私が、この苦しみから解き放たれたかっただけ……本音で、嘘一つない心で、ちゃんとあの子と向き合いたかった。もし渡航した先で何か決定的なことが分かったなら、先の短いお命です。そうなれば、あの子の未来を見届けるのはきっと、私になることでしょう。だから……だからこそ、もうあの子には隠し事をしたくなかった……全てを知ってもらって、曇り一つない気持ちでちゃんと貴女のことを送って――その上で未来を歩んで欲しかっただけです。だって……だって、私はこんなにも――」
止まることなく溢れる感情のままに、涼子さんは続ける。
それこそ、嘘偽りない気持ち、そのものだった。
「どうしようもないくらい、あなたたち三人のことを、心から愛しているのですから」
これまでにないくらいに清々しく。
今までずっと言えないままだった気持ちまで吐き出してようやく、ようやく涼子さんは、心からの笑みを浮かべた。
初めて見た、こんな笑顔。
ずっとずっと、本当に苦しかったんだ。
「涼子さん……」
思わず立ち上がり、私は震えるその手を取った。
同じだ。
十六年間ずっと、私だって苦しかった。同じなんだ。
「ありがとう、涼子さん。私に代わってあの子のことを見ていたのが貴女で、本当に良かった。ありがとう。どれだけ言ってもきっと足りないわ」
「いいえ……いいえ、美那子さん……私も、この家でお仕事が出来て、大変嬉しく思っています……旦那様も奥様もそうでしたが、これほどまでに家族への愛情深い方ばかりのご家庭で仕事が出来ることは、この上なく幸せなことです。だから――だからどうか、美那子さんも頑張ってくださいね。あの子は必ずやり遂げます。必ずです。あっと驚くような結果を残して、美那子さんの病気だって吹き飛ばせるくらいの活躍を見せてくれることでしょう。私は、そんな予感が致します」
「貴女の予感はよく当たるものね。ええ、そうね。何たって、私とあの人の子どもなんだから。不甲斐ない結果を残したら、おちおち死んでもいられないわ。そうなったら、この私が一から指導してあげないと」
「ええ、その意気でございます、美那子さん」
まったく、本当に。
改めて思い知るわ。
私の周りは、こうも恵まれていたのね。
きっと陽和も――私たちも、それぞれ目指すところへ辿り着ける筈だわ。きっと。
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