別れの曲

石田ノドカ

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第3楽章 『calando』

3-8.探偵ごっこをしたいわけじゃない

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 夢をみた。
 懐かしい、昔の夢。
 あの人は今どうしてるかしら――そんなことを考えながら眠ってしまったからかもしれない。
 まったく。陽和が会ったりするから。
 話を聞いている内に懐かしくなって、どうにも胸の辺りがざわついてしまう。
 だからまた、こうしてピアノのある部屋に来ている。

 私が音を鳴らす時には、決まって「これから弾くわ」「ちょっとうるさくなるわよ」などと言い残してから部屋に入る。急に鳴らして、陽和や涼子さんの生活に支障をきたすようなことを避ける為だ。
 ただ、それには例外もある。
 過度な過度なストレスや心配事など、いずれか心身に負担のかかるような出来事があった時には、私は何も言わないまま弾き始める。だから荒々しかったり、反対に力なかったりもする。
 その時々の心のまま弾き殴って、頭を切り替える。
 曲は、決まって『別れの曲』ただ一つだけ。
 陽和が大好きだと言ってくれた辺りから、だろうか。私も同じく一番好きなこの曲を、一番嫌な心情で弾くと、これでは駄目だと切り替えられるのだ。

「美那子さん」

 最後の一音、その余韻を長く細く残していたところに、涼子さんが声を掛けて来た。
 少しだけ開いた扉から顔を覗かせている。気が付かなかった。

「ごめんなさい、涼子さん。入って大丈夫よ」

「はい。失礼致します」

 小さく頭を下げて、涼子さんは部屋の中へと入って来た。
 またやってしまった。

「それで、陽和ちゃんのことなのですが――」

「――ええ」

 鍵盤の蓋を閉め、目を閉じた私の脳裏に浮かぶのは、一週間前の夜のこと。
 帰って来た私は、陽和と話している最中に倒れた。
 過度な疲労、それに伴う貧血症状、そして睡眠不足――自分のこと、そして陽和たちのことと、ずっとそればかりを考え続けていたからだと、医師から言われて自覚した。
 向こうに行ってから――いや、行く前から、そのことばかりが頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
 何気ない会話から、記念にと写真を撮った時まで、何でもない時間のことばかりを思い出していた。
 考えなかった時なんて、なかったんだ。
 そればかり考えていた所為か、食事もあまり喉を通らず、寝付いてもすぐに起きてしまっていた、なんてことを繰り返していたのだ。
 病室で目覚めた私に、幾らかの会話を交わした後で、陽和が尋ねて来た。
 どうして、次の自分の誕生日を祝えないのか、と。
 ひとみさんから話を聞いたのなら、陽和の中にもその答えはあっただろうとは思うけど、敢えて尋ねて来たのはきっと、私の言葉でちゃんと聞きたかったからだろう。
 私は、偽ることなく答えた。
 今までのこと全てにも謝りながら、私は余すことなく吐き出した。
 もっと泣いたり、叫んだり、取り乱すかもしれないと思っていたけれど、陽和は「そっか」と目を伏せた。
 知らない間に、随分と大人になっちゃって。

 今は年を跨いでまだ間もない。
 余命は半年。陽和の誕生日は一月。
 私を蝕む病は想定より早く進んでいて、今から何かしたのではとても意味がない。ここにまた新しい治療を始めようものなら、その副作用や大変さから、満足な生活が輪をかけて送れなくなる。
 そうなってしまえば、残り半年、凡そ「楽しかった」なんて言えないような日々を過ごし、最期を迎えてしまうことになる。
 稀なケースとして進行の遅い私だったけれど、今はこうして急速に進んできている。
 運否天賦が世の常だ。期日通りにしか開催出来ないイベント事と、期日通りとはいかない人間の身体。
 夏から先に開催準備が始まる天上――私は、その夏を前に命が尽きるかもしれない身体だ。
 何かの奇跡が起こって陽和が呼ばれることになったとしても、私がそれを目にすることは約束されていない。
 だから、なのだろう。
 なるべく早く、なるべく近いところで、華々しい姿を見せてくれようと思ったのかもしれない。
 ただの発表会や演奏会では駄目。誰でも出られるし、身内贔屓に喜んで終いだ。
 そう考えた陽和の頭にはもう、一つの選択肢しかなかったらしい。

『お母さん。私、春のコンペに出るよ』

 陽和は言った。
 それも、確かな強さと覚悟を宿した瞳で。
 口で言う程簡単な話ではない。この春にあるのは『全日本女子ピアノコンペティション』だ。かなりの手練れたちが集う。過去、出たことのある私だって、満足な成果を残すには手こずった。
 そう思ったのに、私は、

『――――うん』

 小さく呟き、頷いていた。
 不可能だ。難しい。そう言ってあげてもよかったはずなのに。

『私、本気だよ。だから――見ててね、お母さん』

 その瞳に宿る確かな熱は、どこか、そんな不可能とも思えることを可能にしてくれそうな、そんな予感すらさせた。

「――――まったく駄目ね、私も。いい加減、子離れしないと」

 リビングへと移動し、丁度、涼子さんが珈琲を淹れて戻って来たところへ声を掛ける。

「杏奈のことは、涼子さんとひとみさんの次に信用出来るんだけど。たまに意地の悪い性格してるなって感じることもあるから、陽和が心配だわ」

「仕方のないことですよ、美那子さん。娘のことが心配になるのは、それだけ大切に思っていればこそ。親として当然のことです。父親である仁三さんのいないこの家では、尚のこと。親という存在は、貴女一人だけなのですから」

「あら、それを言うなら涼子さんにだって『親心』ってやつが芽生えてるんじゃない?」

 私は半分、茶化すように笑いながら言った。

「ご冗談を。私はただの――」

「ただの家政婦が、他人の子に肩入れしようなんて考えるかしら? それも、私たち両親には気が付かれないような、丁度いい具合に。たったの一手――けれども確実に、鮮烈に、陽和のことを刺激して、剰え行動させるくらいの肩入れの仕方を、果たして自分のことを『ただの家政婦』だなんて思っているような人間が、しようだなんて考えるかしら?」

 はっとした様子で涼子さんは固まった。
 恐る恐る振り返りながら、どういう意味かと尋ねて来る。私は呆れて溜息を吐いた。

「別に探偵ごっこをしようって訳じゃないの。答えはもうあの子から聞いちゃったから」

「答え、ですか」

「ええ。だってほら、その証拠に」

 頷き、私は懐から”それ”を出した。

「――やっぱり、陽和ちゃんが持って行ってしまっていたのですね、その箱」

 涼子さんが言う。

「ええ。さっきのあの部屋に置いてあったって言ってたわ。こんなもの、一度しまってからは普通、取り出して眺めたりしないもの。親である私やひとみさんならいざ知らず、家政婦である涼子さんや、この存在すら知らないあの子に至っては、まずないことよ」

「ええ、そうですね」

「ひとみさんは家にはいない。陽和は勿論知らない筈だし、私だって触ったことはないわ。なら、動かしたのは一人しか思い当たらない」

 言うと、涼子さんは観念したように肩を落とした。

「まぁ、ひとみさんも勝手に手紙を出してたって話だし、どっちにしたって、遠からずあの子とひとみさんとの間に接点は出来てたと思うけどね」

 涼子さんは困ったように頷いた。

「だからこそ、気になるのはどうしてこれを置いておいたのか。あの子に見せる、或いは聞かせるだけなら、わざわざ隠すように置いておく必要はないわ。ひとみさんの存在を知らしめるためではない。これは『あの子』の存在を示唆するものだもの」

 ひとみさんと何か話し合いでももたれていて、そこで彼や私のことを教えようとなったのなら、涼子さんが動く必要はない。
 そのまま放って、ひとみさんに任せて、手紙が陽和の元へと渡ればそれでいいのだから。
 涼子さんは大きく、深く息を吐くと、やがてゆっくりと頭を下げた。
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