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第2楽章 『appassionato』
2-1.勉強会
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「――そう。随分と良くなったね、陽和。やっぱり元々才能があったんだよ」
手を叩きながら言うのは、他でもない、陽向だ。
家のことは問題ないからと、涼子さんにはもう一日だけ大事を取っておいて貰っている、日曜の昼下がり。
昼食を終えてピアノのある部屋へと赴いたところで、夢に落ちていた。
「それは過言だよ。陽向くんの教え方が上手なんだって。流石、神様」
「否定しなかったのは僕だけど、別に神様じゃないからね、改めて」
「分かってるけど、その方がなんか面白いじゃん」
陽向くんはあはは、と恥ずかしそうに笑って、楽譜を手に取った。
本日の曲目は、ドビュッシーのピアノ曲集『版画』の全曲。
インドシナの民族音楽を模した、アジアを暗示している『塔』、作曲当時まだ数時間程度しか訪問していなかった筈のスペインはサンセの街を経て作られた『グラナダの夕べ』、母国フランスの童謡が引用されている『雨の庭』の三曲から成る。
どれも何となく聴いたことはあるけれど、『グラナダの夕べ』に関しては、スペインの作曲家マヌエル・デ・ファリャが『ただの一小節も民謡からは引用されていないというのに、細部に於いてスペインを見事に描き切っている』と評した、異例の名作である。
『塔』と『グラナダの夕べ』は、全体的にゆったりと流れる曲風。どう魅せられるかによって、奏者により大きく様相を変える。表現の仕方が難しい。
反対に『雨の庭』は、頭から締めまで、とにかくも早いトリルばかりが続く。一つ一つ音の輪郭をはっきりと際立たせつつも、トリルばかりが目立たないよう主旋律の音も大きくさせ過ぎず引き立てなくてはいけない。両手それぞれの塩梅が非情に難しい一曲だ。
練習曲としても、コンサートやコンクールの場でも、しばしば選ばれている。
…………というのは全て、陽向くんからの受け売りだ。
「クロード・ドビュッシー。女性関係が悪く、内向的かつ非社交的であるにも関わらず、音楽院ではその伝統を壊しかねない言動を繰り返していたとされる問題児だった。が、その音楽性はやはり天から有ら得られた才能――だからこそ、遠い未来である現代にも、こうして根強く、クラシックの代表として受け継がれている曲ばかりだ」
陽向くんは時に、私が覚えている以上の知識で以って、先生のようにもなってくれる。
私の目にはそれが、とても眩しく、とても頼もしく映った。
「確か、十八歳でとある人妻に恋心を抱いてたとかって話があったよね」
「うん。その結果、彼はその夫人の為に、二十以上の歌曲を捧げたんだってね。ちなみに、かの有名な『月の光』はの歌曲版は、その内の一つだ」
「え、あの曲って人妻の為に造られたものだったの?」
「原曲か編曲版かは知らないけどね。結局、ドビュッシーはその生涯を通して、誰かの妻を愛することしか出来なかった。おかげで、親友と呼べる相手もいなかったらしい」
「あんなに綺麗な曲の裏側には、そんな話があったんだね」
「面白いものだよね。一般人からすれば、そういった話を聞く機会もなければ、背景を学んでから奏でることはまずない。プロや専門家ならいざ知らず、陽和みたいな一般人が曲を弾くのは、その曲自身に魅せられてしまったからって理由が大半だろうからね」
確かに、その節は大いにある。
私が好きな『別れの曲』だって、曲自体の綺麗さ、そして母の雄姿に惚れたからに他ならない。
もしかしたら、とんでもない逸話があったりするのだろうか。
「そんな理由があってかどうかは定かじゃないけど、月の光の原題は『Promenade Sentimentale』と言って、意味は『感傷的な散歩道』だそうだ」
「感傷的、ねぇ」
当時十八歳のドビュッシー少年は、何を思い、このようなタイトルにしたのか。
考える程に、そう遠くない歳の自分には予想もつかない。
「さぁ、そろそろ休憩も良い頃合いだろう。もう一回、最初からだ」
景気の良い柏手を一つ打って、意識を切り替える陽向くん。
引き締まる思いとともに、鍵盤の上へと指を置いた。
大きく息を吸って、深く息を吐く。それを何度か繰り返している間に、私はあることを思い出した。
母も、家で練習をしている時、コンサート会場で壇上に立った時、知り合いとの集まりで弾く何気ない時でさえ毎回、こうしてまずは深呼吸をしていた。
数秒間の、ピアノを弾く為の心構え、その準備として、深呼吸はとても重要なことだったのだと、改めて実感する。
(――よしっ)
小さく気合いを入れると、私はまず『塔』のフレーズへと入って行った。
一つ一つの音を丁寧に鳴らしながら、しかし意識は半分、別のことを考える。
(電話…………お母さん、あの後なにも言ってくれなかったな)
先日、母に例の宣言をした時のこと。
驚いたのか、聞こえなかったのか、あるいは怒ったのか――理由こそ確かめてはいないけれど、母はあの後、しばらくの間ずっと黙っていたかと思うと、そのまま通話が切られてしまった。それ以降、かけ直してくることもない。
驚いたのであれば相応のリアクションが、聞こえなかったのであればもう一度言って欲しいと頼むか、怒ったのであればすぐに切るかその場で怒り出すか。
その、どの予想にも当てはまらない切り方だったものだから、私の方からかけ直して詮索をするのも、どうにも気が進まない。
(お母さん……どういうつもりなんだろ……)
どう感じて、どうして何も言ってくれなかったのか。
確かめたいけれども出来なくて、気持ちは焦ってしまって、
「陽和、そこはピアノだ。もっと小さく。強くしてどうするの?」
焦りはそのまま、音色に現れてしまった。
頭の中に流れる譜面とは裏腹に、苛々と募る思いの方が強く出てしまったらしい。
「――ああうん、ごめん。もう一回やるね」
どこから弾き直したものか。そもそもどこで止められてしまったのかも分からなかった私は、頭から弾き直すことにした。
それが、隣で見ている陽向くんの目にどう映ったのか――陽向くんは、私に演奏を止めるよう指示して来た。
「え、でも」
「疲れている時に無理はしない。これも、ピアノを弾く上で必要なことだよ。気分の良い状態じゃないと、当然良い音なんて出せやしない。音楽というのは、心そのものだからね」
「気分って……別に、私は何とも――」
「そうやって強がることも、何も悪いとまで言うつもりもないけどね。無理にでもって言うなら止めはしないけど、それならこの先は付き合わないよ? それでも良いかな?」
言い方は優しいけれど、選択肢は無いようなもの。
そう言われてしまっては、流石に食い下がる訳にもいかない。私は陽向くんの言葉を呑んで、指を降ろした。
うんうん、と陽向くんは満足げに頷く。
「陽和が目覚めるまで、どうしようか?」
「うーん。別に何でも良いかな。色んな話が聞きたいし」
言い方がやや投げやりになってしまった。
本心ではあったけれど、口にしてから、しまった、と思い陽向くんの方を窺う。けれど、当の本人は別段気になってはいない様子だ。
よかった。
「色んなって、例えば?」
「音楽史でも、偉人でも、曲の解説でも――ほんとは君のことが聞きたいけど」
「うん、それはやめておこうか」
「って言うと思ってたから、じゃあやっぱり、偉人の話で」
今特別気になることがある訳ではないけれど、彼のことは未だ全てが謎なだけに、その全ては知りたいことである。
しかし、そもそもここが夢であり、彼自身が煮え切らない言動を繰り返していることから、詮索したって無駄なんじゃないかとさえ思えてしまう。
だから私も、強く縋ってまで、彼に懇願するようなこともしない。たとえ尋ねたところで『まだその時ではない』だのと躱されることは目に見えている。
ふわりと朧気にされてしまうのが、関の山だ。
「あはは、バレてる。偉人か……そうだ、別れの曲って、日本以外の国では――」
手を叩きながら言うのは、他でもない、陽向だ。
家のことは問題ないからと、涼子さんにはもう一日だけ大事を取っておいて貰っている、日曜の昼下がり。
昼食を終えてピアノのある部屋へと赴いたところで、夢に落ちていた。
「それは過言だよ。陽向くんの教え方が上手なんだって。流石、神様」
「否定しなかったのは僕だけど、別に神様じゃないからね、改めて」
「分かってるけど、その方がなんか面白いじゃん」
陽向くんはあはは、と恥ずかしそうに笑って、楽譜を手に取った。
本日の曲目は、ドビュッシーのピアノ曲集『版画』の全曲。
インドシナの民族音楽を模した、アジアを暗示している『塔』、作曲当時まだ数時間程度しか訪問していなかった筈のスペインはサンセの街を経て作られた『グラナダの夕べ』、母国フランスの童謡が引用されている『雨の庭』の三曲から成る。
どれも何となく聴いたことはあるけれど、『グラナダの夕べ』に関しては、スペインの作曲家マヌエル・デ・ファリャが『ただの一小節も民謡からは引用されていないというのに、細部に於いてスペインを見事に描き切っている』と評した、異例の名作である。
『塔』と『グラナダの夕べ』は、全体的にゆったりと流れる曲風。どう魅せられるかによって、奏者により大きく様相を変える。表現の仕方が難しい。
反対に『雨の庭』は、頭から締めまで、とにかくも早いトリルばかりが続く。一つ一つ音の輪郭をはっきりと際立たせつつも、トリルばかりが目立たないよう主旋律の音も大きくさせ過ぎず引き立てなくてはいけない。両手それぞれの塩梅が非情に難しい一曲だ。
練習曲としても、コンサートやコンクールの場でも、しばしば選ばれている。
…………というのは全て、陽向くんからの受け売りだ。
「クロード・ドビュッシー。女性関係が悪く、内向的かつ非社交的であるにも関わらず、音楽院ではその伝統を壊しかねない言動を繰り返していたとされる問題児だった。が、その音楽性はやはり天から有ら得られた才能――だからこそ、遠い未来である現代にも、こうして根強く、クラシックの代表として受け継がれている曲ばかりだ」
陽向くんは時に、私が覚えている以上の知識で以って、先生のようにもなってくれる。
私の目にはそれが、とても眩しく、とても頼もしく映った。
「確か、十八歳でとある人妻に恋心を抱いてたとかって話があったよね」
「うん。その結果、彼はその夫人の為に、二十以上の歌曲を捧げたんだってね。ちなみに、かの有名な『月の光』はの歌曲版は、その内の一つだ」
「え、あの曲って人妻の為に造られたものだったの?」
「原曲か編曲版かは知らないけどね。結局、ドビュッシーはその生涯を通して、誰かの妻を愛することしか出来なかった。おかげで、親友と呼べる相手もいなかったらしい」
「あんなに綺麗な曲の裏側には、そんな話があったんだね」
「面白いものだよね。一般人からすれば、そういった話を聞く機会もなければ、背景を学んでから奏でることはまずない。プロや専門家ならいざ知らず、陽和みたいな一般人が曲を弾くのは、その曲自身に魅せられてしまったからって理由が大半だろうからね」
確かに、その節は大いにある。
私が好きな『別れの曲』だって、曲自体の綺麗さ、そして母の雄姿に惚れたからに他ならない。
もしかしたら、とんでもない逸話があったりするのだろうか。
「そんな理由があってかどうかは定かじゃないけど、月の光の原題は『Promenade Sentimentale』と言って、意味は『感傷的な散歩道』だそうだ」
「感傷的、ねぇ」
当時十八歳のドビュッシー少年は、何を思い、このようなタイトルにしたのか。
考える程に、そう遠くない歳の自分には予想もつかない。
「さぁ、そろそろ休憩も良い頃合いだろう。もう一回、最初からだ」
景気の良い柏手を一つ打って、意識を切り替える陽向くん。
引き締まる思いとともに、鍵盤の上へと指を置いた。
大きく息を吸って、深く息を吐く。それを何度か繰り返している間に、私はあることを思い出した。
母も、家で練習をしている時、コンサート会場で壇上に立った時、知り合いとの集まりで弾く何気ない時でさえ毎回、こうしてまずは深呼吸をしていた。
数秒間の、ピアノを弾く為の心構え、その準備として、深呼吸はとても重要なことだったのだと、改めて実感する。
(――よしっ)
小さく気合いを入れると、私はまず『塔』のフレーズへと入って行った。
一つ一つの音を丁寧に鳴らしながら、しかし意識は半分、別のことを考える。
(電話…………お母さん、あの後なにも言ってくれなかったな)
先日、母に例の宣言をした時のこと。
驚いたのか、聞こえなかったのか、あるいは怒ったのか――理由こそ確かめてはいないけれど、母はあの後、しばらくの間ずっと黙っていたかと思うと、そのまま通話が切られてしまった。それ以降、かけ直してくることもない。
驚いたのであれば相応のリアクションが、聞こえなかったのであればもう一度言って欲しいと頼むか、怒ったのであればすぐに切るかその場で怒り出すか。
その、どの予想にも当てはまらない切り方だったものだから、私の方からかけ直して詮索をするのも、どうにも気が進まない。
(お母さん……どういうつもりなんだろ……)
どう感じて、どうして何も言ってくれなかったのか。
確かめたいけれども出来なくて、気持ちは焦ってしまって、
「陽和、そこはピアノだ。もっと小さく。強くしてどうするの?」
焦りはそのまま、音色に現れてしまった。
頭の中に流れる譜面とは裏腹に、苛々と募る思いの方が強く出てしまったらしい。
「――ああうん、ごめん。もう一回やるね」
どこから弾き直したものか。そもそもどこで止められてしまったのかも分からなかった私は、頭から弾き直すことにした。
それが、隣で見ている陽向くんの目にどう映ったのか――陽向くんは、私に演奏を止めるよう指示して来た。
「え、でも」
「疲れている時に無理はしない。これも、ピアノを弾く上で必要なことだよ。気分の良い状態じゃないと、当然良い音なんて出せやしない。音楽というのは、心そのものだからね」
「気分って……別に、私は何とも――」
「そうやって強がることも、何も悪いとまで言うつもりもないけどね。無理にでもって言うなら止めはしないけど、それならこの先は付き合わないよ? それでも良いかな?」
言い方は優しいけれど、選択肢は無いようなもの。
そう言われてしまっては、流石に食い下がる訳にもいかない。私は陽向くんの言葉を呑んで、指を降ろした。
うんうん、と陽向くんは満足げに頷く。
「陽和が目覚めるまで、どうしようか?」
「うーん。別に何でも良いかな。色んな話が聞きたいし」
言い方がやや投げやりになってしまった。
本心ではあったけれど、口にしてから、しまった、と思い陽向くんの方を窺う。けれど、当の本人は別段気になってはいない様子だ。
よかった。
「色んなって、例えば?」
「音楽史でも、偉人でも、曲の解説でも――ほんとは君のことが聞きたいけど」
「うん、それはやめておこうか」
「って言うと思ってたから、じゃあやっぱり、偉人の話で」
今特別気になることがある訳ではないけれど、彼のことは未だ全てが謎なだけに、その全ては知りたいことである。
しかし、そもそもここが夢であり、彼自身が煮え切らない言動を繰り返していることから、詮索したって無駄なんじゃないかとさえ思えてしまう。
だから私も、強く縋ってまで、彼に懇願するようなこともしない。たとえ尋ねたところで『まだその時ではない』だのと躱されることは目に見えている。
ふわりと朧気にされてしまうのが、関の山だ。
「あはは、バレてる。偉人か……そうだ、別れの曲って、日本以外の国では――」
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