別れの曲

石田ノドカ

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第1楽章 『con molt espressione』

1-17.報告と……

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「――――ふぇ?」

 幸せの終わりは、突然に訪れる。

「あぅ……え、夜……?」

 カーテンの隙間からは、光一つ射し込んで来ていない。
 まだ深夜という訳でもないだろうとは思うけれど、随分と長い間落ちてしまっていたらしい。

「え、っと……」

 未だ覚醒途中の頭で考えるのは、夢の中で弾いていた曲の数々。
 クープランの墓から始まって、金の亀を使う女、子犬のワルツ、月の光、革命のエチュード、喜びの島――思い出せる限りで、それくらい。
 随分と沢山弾いたものだ。いや、弾けたのか。
 それだけ、長い時間眠ってしまっていたということだ。
 ただ譜面を追っていただけの目も頭も、時に厳しい陽向くんの助言もあって、次第に手元を見る余裕も出て来た。弾く技術だけでなく、魅せる技術も多少見に付いたと思う。
 隣で譜面を捲りながら、穏やかで優しく、たまに真剣な目をして見守ってくれていた陽向の顔が、脳裏を過る。
 思い出すのは、やはりあの言葉だ。

「あの曲たちはもう、私のものなんだ……私の音は、まだ死んでない――」

 部屋の真ん中で佇む、ひとり寂しそうなグランドピアノ。
 母はいない。
 あれを楽しませてあげられるのは、今ここに私一人。
 ここは防音室で、敷地も広い。周りには民家もあまりない。涼子さんも、今日はいない。
 夜更けに弾いたって、気にする者は誰もいない。
 ここにはただ、一台のピアノと、一人の奏者。
 私は迷うことなく、蓋を開けた。



 まずは月の光。
 そして金の亀を使う女、子犬のワルツ――やっぱり、どれも弾くことが出来る。
 譜面台に乗せたそれらは、相変わらず分からないことの方が多いけれど、頭の中には確かに、陽向くんの起こした譜面、そしてそれを視ながら直す指摘、言葉の数々が、イメージとして強く浮かんでいる。
 次々浮かぶそれらに従いながら、私は音を紡いでゆく。

(隣に陽向くんがいるみたい)

 ただ独り奏でているだけの、虚しい音じゃない。
 誰かに聴かせる、誰かが聴いてくれているという意識で初めて奏でられる音。魅せる音だ。
 そんな音を、私は少し奏でられるようになっていた。

 ――――そろそろ、頃合いかと思った。

 疑問は解消された。こちらでもピアノを弾ける現象が、理屈は分からないまでも確信に変わったことで、そろそろ母に伝えても良いのではないかと、そう思い至ったのだ。
 壁に掛かった時計に目をやる。現在時刻は二十時。時差を考えると、向こうは正午くらい。
 早起きな母のことだ。仕事中でないのなら、起きていて、外に出ていたってスマホは持ち歩いている筈。
 少しばかりの不安は孕みつつも、私は意を決して母の番号を呼び出した。
 プルルル、プルルル……繋ぎの音が、やけに長く感じる。

『――どうもこんばんは、陽和。そっちはもう夜でしょ? 久しぶりね。なかなか連絡出来なくてごめん』

 母の声。懐かしさすら覚える。
 一週間と少し離れていただけでここまで寂しくなってしまうとは、自分でも驚きだ。
 それだけ、母の声を聞いていた日常が、当たり前過ぎたのだろう。

「ううん、それは全然」

『そ? ならよかった。それで、急にどうしたの? 寂しくなっちゃった?』

 揶揄うような調子で母が言う。
 内心当てられてやや驚きつつも、私は冷静に言葉を組み立てる。

「え、っと……えっと、ね」

 思いがけず煮え切らない声が漏れてしまう。私がこんな調子の時は、決まって何か相談事や大事な話がある時だ。母にもそれは分かってしまったことだろう。

「そ、そうだ、コンサート…! どうだったの?」

『勿論、大成功よ。次回へのお呼びもかかったけど、それはまた今度考えるわ。今はやっぱり、陽和と涼子さんの顔が見たいもの。きっと、日本の空気が性に合ってるのよ』

「そ、そうなんだ」

『うん。そういう陽和は? 上手くやれてるの?』

「まずまず、かな。あーそうだ。今日ね、初めて家のこと全部やったんだ。涼子さんが風邪っぽくてさ。連絡いってる?」

『あら、私の方はまだ――きっと時差を考えてのことでしょうね。朝からって言うなら、その時分こっちは真夜中だもの』

「あ、そっか。確かに。流石だね」

『ええ。それにしても心配ね。ちゃんと病院には行ったのかしら』

「それは抜かりないと思う。だってほら、涼子さんだよ? 何があっても、今まで一度だって休んだことないんだから。『早く治して戻らなきゃ』って、真面目さ全開で病院にも駆け込んだんじゃないかな」

『ふふっ。それもそうね』

 無論、心配であることに変わりはない。
 親子二人。遠い異国の地にあって、その表情こそ拝むことは出来ないけれど――笑って、楽しそうな顔をしているんだろうなと思う。
 何でもない話をしながら、私はベランダの方へと足を運んだ。冷たい冬の夜風にあたりながらだと、はっきりとした意識で言葉が出せると思った。

「えっと、それでね、お母さん」

『ええ。ゆっくりで良いからね』

「う、うん」

 恐れはある。
 けれど、伝えないことには――母にだけは言葉にしておかなければ、決意が揺らいでしまいそうだ。
 あと二週間もすれば、この家に帰って来るのだから。
 受験の時より、その合格発表の時より……今までの何より、緊張する。
 最愛の母、誰より尊敬する背中だからこそ、この言葉はとても大事で、意味のあることなのだ。

「すぅー……はぁー……」

 ゆっくり、大きく深呼吸。

「私――」

 心臓は未だ五月蠅いけれど、落ち着いた呼吸で、私は夜空に浮かぶ月を見上げた。

「私、出たいの――『天上の音楽祭』に」

 それは、母が昔立った舞台――別れの曲を弾いた、あの舞台の名前だ。
 初めて抱いた、願望らしい願望――これが、私の新しい夢。

 ……そのはずだったのに。

 数秒。数十秒。いくら経とうとも。



 母は、言葉を返してはくれなかった。
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