12 / 64
第1楽章 『con molt espressione』
1-11.本当は、こっちでも……。
しおりを挟む
ゆっくりと目を開く。
薄く開いた瞳が、部屋を後にしようとしている涼子さんの姿を捉える。
「涼子さん……」
声をかけると立ち止まって、はっとしたようにこちらへ振り向いた。
「あら、ごめんなさい。起こしちゃったかしら」
涼子さんはすぐ目の前まで戻って来ると、しゃがんで私の顔を覗き込んだ。
「具合はどう?」
「うん、大丈夫……あと、謝るのは私の方かも。ごめんね、夕飯だよって声は聞こえてたのに……」
「仕方ないわよ。いつ来るとも知れないものなんだから。それより、無理はしなくていいから、ゆっくり降りて来てね」
「……うん」
涼子さんの柔和な声に頷く。
そこでようやく、今私はピアノの置いてある部屋にいて、その端の方にあるソファに背中を預けられ、ふわりと良い香りのするブランケットがかけられているのだと理解した。
私の状態を目にした涼子さんが介抱してくれた跡だ。
「今、何時……?」
寝ぼけ眼を擦りながら、私は尋ねた。
寝起きの目はぼやけて、部屋も薄暗くされていた為、うまく時計が見えなかった。
「八時半よ。だから、倒れてからは二時間くらいかしら。六時を回った辺りで陽和ちゃんに声をかけた筈だから。今は、ちょっと様子を見に来たの」
「そっか」
時間にしてみれば、それほど長く落ちていた訳ではなかったらしい。けれどもやっぱり、せっかく出来立ての夕飯を食べられていない申し訳なさはあった。
「それにしても驚いたわ。お部屋に行っても姿がないから、もしかしたらと思って見に来てみたら、こんなところにいるんだもの。それに、この楽譜も」
私のすぐ傍らに落ちていた楽譜を拾い上げると、少しだけ何か考えてから、
「――何か、あったのね?」
と尋ねて来た。
短く、けれども適格な問いかけに、私は素直に頷いた。
ブランケットを口元まで巻いて、足を三角に折って、そこに顎を乗せると、私はついさっきまで視ていた夢の中での出来事を思い返した。
「夢、見てたんだ」
「あら、また夢のお話ね」
「この間の続き、なのかな。凄く素敵な夢だった。幻想的な風景が広がっててね、とっても広いその空間の中に、ぽつりと一台のグランドピアノが置いてあって」
私は首だけで、部屋の中心に堂々と構えるグランドピアノの方を見る。
「それでね、その曲を弾いてたの」
「その曲って、これ?」
「うん、別れの曲――あのコンサートの舞台で、お母さんが弾いてた曲だよ」
組んだ腕で、ぎゅっと膝を抱き寄せる。
「小さい頃、楽譜だけが読めない学習障害だって診断されて、私は絶望した。今となっては他に趣味も出来たから、結果良かったは良かったんだけど、あの時、ピアノは初めてお母さんに褒めてもらえたものだったから。プロのお母さんにだよ」
「ええ。そうだったわね」
小さく言って、涼子さんは頷いた。
「でもさ……夢の中で、不思議な声に『ピアノが嫌い?』って尋ねられた時、私は頷かなかった。ううん、頷けなかったの。いくら嫌いになろうとしても、嫌いになりきれなかったみたい。今でも、楽譜を見ると気持ち悪くなるし、毎回違った旋律に聞こえて鳥肌が立つ。見なくていいならなるべく見たくはないって思う。でも……でもね」
私の声は、少し震え始めていた。
嗚咽のようなものも混ざって、上手く声が出せない。
それでも何とか、言葉を絞り出す。涼子さんには、伝えないといけないからだ。
「私……ピアノが大好き」
本当は、忘れてなんていなかった気持ち。
嫌いだ、なんて、ただピアノから離れる為の口実のようなものだった。
本当はずっと、好きで好きで仕方がなかった。ただ、自分で心の奥底に閉じ込めて鍵をかけて、眠らせていただけだ。
「夢の中で、たった一度だけでも、私はピアノに触れた。一番大好きな曲が弾けて、とっても幸せだった……凄く、嬉しかったの……」
「うん」
頷く涼子さんの声は、聖母のように優しく、温かい。
「弾きたい…弾きたいよ……こんなに好きなのに……お母さんともっと、もっともっとピアノのこと話したいのに……一緒に練習したり、一緒の舞台に立ったり、出来ること、沢山あるはずなのに……なんで…」
どうしても、それだけは叶わない。夢の中に入る前、そして入ってから、痛烈に思い知らされた。
読めば気持ちが悪くなるし、その内容だってぐちゃぐちゃだ。悔しくて、悲しくて、憤りすらも感じた。
「弾きたい…………会いたいよ……お母さん…」
母の帰国までは、まだ二週間以上ある。ひと月にも満たない出張。ただの、出張なのに。
こんなにも会いたくなってしまうのはきっと、夢の中でピアノ触れてしまったからだ。
「陽和ちゃん…」
どうしようもなく苦しむ私の身体を、涼子さんは優しく抱き寄せてくれた。
家政婦さんなのに、昔から涼子さんには、たしかに母のような温もりと安心感を覚える。
十六にもなって、大きな声まで出して、泣いてしまうほどに。
母がいない時、母の代わりになってくれているからかな。
どれくらいか時間が経った。
「みっともないところ見せちゃった……ごめん、涼子さん」
眠気はもうすっかりなくなったけれど、空腹感はない。
そんな私の様子を察してか、涼子さんは、
「後で、お腹が空いた時にでも食べればいいわ」
と言い残して、部屋を出ていった。
すっかり腫れあがってしまった目元を拭ってから、先にお風呂に入ってしまおうかと思い立ち、準備をするべく立ち上がった。
辺りは静寂に包まれていた。いつもなら聞こえる鳥や犬の鳴き声、車のエンジン音、木々の擦れる音さえ聞こえない。
なんだか、とても寂しい夜だ。
そんなことを思いながら、私は部屋を後にした。
薄く開いた瞳が、部屋を後にしようとしている涼子さんの姿を捉える。
「涼子さん……」
声をかけると立ち止まって、はっとしたようにこちらへ振り向いた。
「あら、ごめんなさい。起こしちゃったかしら」
涼子さんはすぐ目の前まで戻って来ると、しゃがんで私の顔を覗き込んだ。
「具合はどう?」
「うん、大丈夫……あと、謝るのは私の方かも。ごめんね、夕飯だよって声は聞こえてたのに……」
「仕方ないわよ。いつ来るとも知れないものなんだから。それより、無理はしなくていいから、ゆっくり降りて来てね」
「……うん」
涼子さんの柔和な声に頷く。
そこでようやく、今私はピアノの置いてある部屋にいて、その端の方にあるソファに背中を預けられ、ふわりと良い香りのするブランケットがかけられているのだと理解した。
私の状態を目にした涼子さんが介抱してくれた跡だ。
「今、何時……?」
寝ぼけ眼を擦りながら、私は尋ねた。
寝起きの目はぼやけて、部屋も薄暗くされていた為、うまく時計が見えなかった。
「八時半よ。だから、倒れてからは二時間くらいかしら。六時を回った辺りで陽和ちゃんに声をかけた筈だから。今は、ちょっと様子を見に来たの」
「そっか」
時間にしてみれば、それほど長く落ちていた訳ではなかったらしい。けれどもやっぱり、せっかく出来立ての夕飯を食べられていない申し訳なさはあった。
「それにしても驚いたわ。お部屋に行っても姿がないから、もしかしたらと思って見に来てみたら、こんなところにいるんだもの。それに、この楽譜も」
私のすぐ傍らに落ちていた楽譜を拾い上げると、少しだけ何か考えてから、
「――何か、あったのね?」
と尋ねて来た。
短く、けれども適格な問いかけに、私は素直に頷いた。
ブランケットを口元まで巻いて、足を三角に折って、そこに顎を乗せると、私はついさっきまで視ていた夢の中での出来事を思い返した。
「夢、見てたんだ」
「あら、また夢のお話ね」
「この間の続き、なのかな。凄く素敵な夢だった。幻想的な風景が広がっててね、とっても広いその空間の中に、ぽつりと一台のグランドピアノが置いてあって」
私は首だけで、部屋の中心に堂々と構えるグランドピアノの方を見る。
「それでね、その曲を弾いてたの」
「その曲って、これ?」
「うん、別れの曲――あのコンサートの舞台で、お母さんが弾いてた曲だよ」
組んだ腕で、ぎゅっと膝を抱き寄せる。
「小さい頃、楽譜だけが読めない学習障害だって診断されて、私は絶望した。今となっては他に趣味も出来たから、結果良かったは良かったんだけど、あの時、ピアノは初めてお母さんに褒めてもらえたものだったから。プロのお母さんにだよ」
「ええ。そうだったわね」
小さく言って、涼子さんは頷いた。
「でもさ……夢の中で、不思議な声に『ピアノが嫌い?』って尋ねられた時、私は頷かなかった。ううん、頷けなかったの。いくら嫌いになろうとしても、嫌いになりきれなかったみたい。今でも、楽譜を見ると気持ち悪くなるし、毎回違った旋律に聞こえて鳥肌が立つ。見なくていいならなるべく見たくはないって思う。でも……でもね」
私の声は、少し震え始めていた。
嗚咽のようなものも混ざって、上手く声が出せない。
それでも何とか、言葉を絞り出す。涼子さんには、伝えないといけないからだ。
「私……ピアノが大好き」
本当は、忘れてなんていなかった気持ち。
嫌いだ、なんて、ただピアノから離れる為の口実のようなものだった。
本当はずっと、好きで好きで仕方がなかった。ただ、自分で心の奥底に閉じ込めて鍵をかけて、眠らせていただけだ。
「夢の中で、たった一度だけでも、私はピアノに触れた。一番大好きな曲が弾けて、とっても幸せだった……凄く、嬉しかったの……」
「うん」
頷く涼子さんの声は、聖母のように優しく、温かい。
「弾きたい…弾きたいよ……こんなに好きなのに……お母さんともっと、もっともっとピアノのこと話したいのに……一緒に練習したり、一緒の舞台に立ったり、出来ること、沢山あるはずなのに……なんで…」
どうしても、それだけは叶わない。夢の中に入る前、そして入ってから、痛烈に思い知らされた。
読めば気持ちが悪くなるし、その内容だってぐちゃぐちゃだ。悔しくて、悲しくて、憤りすらも感じた。
「弾きたい…………会いたいよ……お母さん…」
母の帰国までは、まだ二週間以上ある。ひと月にも満たない出張。ただの、出張なのに。
こんなにも会いたくなってしまうのはきっと、夢の中でピアノ触れてしまったからだ。
「陽和ちゃん…」
どうしようもなく苦しむ私の身体を、涼子さんは優しく抱き寄せてくれた。
家政婦さんなのに、昔から涼子さんには、たしかに母のような温もりと安心感を覚える。
十六にもなって、大きな声まで出して、泣いてしまうほどに。
母がいない時、母の代わりになってくれているからかな。
どれくらいか時間が経った。
「みっともないところ見せちゃった……ごめん、涼子さん」
眠気はもうすっかりなくなったけれど、空腹感はない。
そんな私の様子を察してか、涼子さんは、
「後で、お腹が空いた時にでも食べればいいわ」
と言い残して、部屋を出ていった。
すっかり腫れあがってしまった目元を拭ってから、先にお風呂に入ってしまおうかと思い立ち、準備をするべく立ち上がった。
辺りは静寂に包まれていた。いつもなら聞こえる鳥や犬の鳴き声、車のエンジン音、木々の擦れる音さえ聞こえない。
なんだか、とても寂しい夜だ。
そんなことを思いながら、私は部屋を後にした。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
【完結】忘れてください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。
貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。
夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。
貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。
もういいの。
私は貴方を解放する覚悟を決めた。
貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。
私の事は忘れてください。
※6月26日初回完結
7月12日2回目完結しました。
お読みいただきありがとうございます。
王子様な彼
nonnbirihimawari
ライト文芸
小学校のときからの腐れ縁、成瀬隆太郎。
――みおはおれのお姫さまだ。彼が言ったこの言葉がこの関係の始まり。
さてさて、王子様とお姫様の関係は?
どうぞご勝手になさってくださいまし
志波 連
恋愛
政略結婚とはいえ12歳の時から婚約関係にあるローレンティア王国皇太子アマデウスと、ルルーシア・メリディアン侯爵令嬢の仲はいたって上手くいっていた。
辛い教育にもよく耐え、あまり学園にも通学できないルルーシアだったが、幼馴染で親友の侯爵令嬢アリア・ロックスの励まされながら、なんとか最終学年を迎えた。
やっと皇太子妃教育にも目途が立ち、学園に通えるようになったある日、婚約者であるアマデウス皇太子とフロレンシア伯爵家の次女であるサマンサが恋仲であるという噂を耳にする。
アリアに付き添ってもらい、学園の裏庭に向かったルルーシアは二人が仲よくベンチに腰掛け、肩を寄せ合って一冊の本を仲よく見ている姿を目撃する。
風が運んできた「じゃあ今夜、いつものところで」という二人の会話にショックを受けたルルーシアは、早退して父親に訴えた。
しかし元々が政略結婚であるため、婚約の取り消しはできないという言葉に絶望する。
ルルーシアの邸を訪れた皇太子はサマンサを側妃として迎えると告げた。
ショックを受けたルルーシアだったが、家のために耐えることを決意し、皇太子妃となることを受け入れる。
ルルーシアだけを愛しているが、友人であるサマンサを助けたいアマデウスと、アマデウスに愛されていないと思い込んでいるルルーシアは盛大にすれ違っていく。
果たして不器用な二人に幸せな未来は訪れるのだろうか……
他サイトでも公開しています。
R15は保険です。
表紙は写真ACより転載しています。
冬の水葬
束原ミヤコ
青春
夕霧七瀬(ユウギリナナセ)は、一つ年上の幼なじみ、凪蓮水(ナギハスミ)が好き。
凪が高校生になってから疎遠になってしまっていたけれど、ずっと好きだった。
高校一年生になった夕霧は、凪と同じ高校に通えることを楽しみにしていた。
美術部の凪を追いかけて美術部に入り、気安い幼なじみの間柄に戻ることができたと思っていた――
けれど、そのときにはすでに、凪の心には消えない傷ができてしまっていた。
ある女性に捕らわれた凪と、それを追いかける夕霧の、繰り返す冬の話。
思い出を売った女
志波 連
ライト文芸
結婚して三年、あれほど愛していると言っていた夫の浮気を知った裕子。
それでもいつかは戻って来ることを信じて耐えることを決意するも、浮気相手からの執拗な嫌がらせに心が折れてしまい、離婚届を置いて姿を消した。
浮気を後悔した孝志は裕子を探すが、痕跡さえ見つけられない。
浮気相手が妊娠し、子供のために再婚したが上手くいくはずもなかった。
全てに疲弊した孝志は故郷に戻る。
ある日、子供を連れて出掛けた海辺の公園でかつての妻に再会する。
あの頃のように明るい笑顔を浮かべる裕子に、孝志は二度目の一目惚れをした。
R15は保険です
他サイトでも公開しています
表紙は写真ACより引用しました
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる