別れの曲

石田ノドカ

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第1楽章 『con molt espressione』

1-6.”それ”

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 奥へ奥へと進んだ先。
 まるで舞台のように開けた場所に、『それ』はあった。
 お世辞にも、感動の再会とは言えない。
 この空間にある他のものと同様、澄んだ水色に光が反射している幻想的な色をしているというのに。私の目には『それ』が、綺麗なものには映らなかった。
 ただただ心地が悪く、今すぐにでもここから消えてしまいたい。

「どうして、こんなところに――」

 思わず声が漏れる。
 どうして声は、

「なんで、グランドピアノなんか……」

 こんなところへといざなったのだろう。
 つい数分前まで、胸は高鳴り、心は踊り跳ねていたというのに。
 声の言葉を信じるのなら、私のことなら何でも知っている筈なのに。
 どうしてわざわざ、こんなところへ。
 吐きそうだ。引き返そう。
 素直に、そう思った。

『陽和』

 来た道を引き返そうと歩み出した足が止まる。声はすぐ近くから――グランドピアノの方からだ。
 思わず振り返る。けれど、そこに誰かの姿はない。

「ねぇ、悪趣味じゃない? 私のこと知ってるんでしょ? どうしてこんなところに連れて来たの?」

『嫌いかい?』

 間髪入れないそんな質問に、私は思わず言葉を呑んだ。
 嫌いかどうか。そんなのに、決まっている。

「大っ嫌い!」

 そう、強く言った少し後で。

「…………じゃ、ない……はず。多分」

 歯切れ悪くも、紛れもない私の気持ちだった。
 今までずっと、ピアノなんて大嫌いだった。大嫌いに、なろうとしていた。
 けれど、心の底から好きだと思っていたものは、そう簡単には嫌いになれなかったらしい。
 私は、ピアノが好きだ。それが、本当の気持ちだ。

『そうだろうね。君が嫌う筈がない。だから君は、僕の言葉に怒っているんじゃなくて、悲しんでいるんだ』

「また随分と見透かしたように言うね」

『違うかい?』

「ううん、その通り。まったくもって大正解だよ」

『そりゃあそうだ。母さんに褒めて貰えて、君自身も更に深めていきたいと願ったものがピアノだ。それがまさか、あんな理由から離れることになって――悲しかったんだ』

「君、お母さんのことも知ってるの?」

『言ったろう、君のことなら産まれる前から知ってるって』

 声は爽やかに言う。
 答えにはなっていないけれど、別段それが気になった訳でもなかったから、私はそれ以上追随することはなかった。

「それで? そろそろ答えてもらってもいいかな? どうしてここに連れて来たの?」

 大きく踏み込んで、尋ねてみた。
 本当は、少しだけ怖かった。これについて何か話を聞くことが。
 声は答えない。数秒。数十秒。幾らか静寂が続いた後でようやく、声は口を開いた。

『僕が君の眼になる。耳になる。分からないことは、ここで全部分かるようになるから』

 何を言っているのか分からなかった。
 だから私は何も返せず、黙ってしまった。
 それは、敢えて尋ねなかった質問への答えのようなものだったから。

――私はピアノを弾けないのに、どうしてこんなところへ連れて来たのか――

 胸が痛くて飲み込んだ言葉への、答えのようだった。

「どういうこと……?」

『弾くんだよ。ピアノを。それを、触るんだ。ここでなら弾ける。弾くことが出来るんだ』

「む、無理だって、何言ってるの…!」

 私は強く否定した。
 望んでいたことがすぐ目の前に並べられていて――けれどもそれは、苦しくて一度、はっきりと手放したものだったから。
 怒鳴ったのは、手に入れられるのかもしれない、そんな期待を少しでも見させてくる声に、苛立ちを覚えたからだ。
 ここは夢の中。夢の中だからこそ、現実で味わえないことで苦しみは増す。
 いくら望んだって、それが出来ないことに変わりがないことは、もう何度も試して分かっている。
 楽譜を読む度に気持ちが悪くなって、何度か吐いてしまうこともあった。その度姿勢を保とうとピアノに手をつくけれど、悲しくて仕方がなくなって、足元が覚束なくなる。
 向こうでは弾けない。弾くことが出来ないんだ。

「知ってるんでしょ、私のこと…! おかしいじゃん…! 分からないの、弾けないの…! なのに、どうしてこんなこと――」

『弾けるよ』

 声は、これ以上ないくらいに落ち着いた声で言った。
 予想していなかった声音に、私は黙ってしまう。

『弾けるよ。ここでなら、好きな曲を、好きなだけ。陽和なら大丈夫さ』

「私ならって……ここで弾けたって、意味なんか……」

 もうほとんど言いかけたようなものだったけれど、少しでもはっきりと言わなかったのは、私自身がそれを全て認めてしまいたくなかったからだと思う。
 私の考えすら読めてしまっているようなこの声が、答えを出してこそくれなかったけれど、否定もしなかったということに、どこか希望を見出そうとしてしまったのかもしれない。

「い、今更、夢の中だからって、どうやって弾けばいいって言うの……? ここに楽譜なんてあるの?」

『いいや。読むんだ。陽和自身が』

「私自身って、まさか向こうで読んで来いとか言わないよね? 夢なんでしょ? それくらい何とかしてよ」

『分からなくても、気持ちが悪くなっても、まずは楽譜を読むんだ。一つ一つ、音符も記号も全て、何も残さずしっかりと。じっくりとね』

「何で向こうで読まなきゃいけないのよ。気持ち悪くなるんだってば」

『そうなってしまったとしても、だ。酷いことを言っているのは承知してる。もし嫌なら、別に構わない。けれど、君が少しでもそれを望むのなら、何でもいいから読んでみるんだ』

「そ、そんなことしたって、私……」

『大丈夫。何たって、ここは夢の中なんだよ? 全てが心のまま、思うままに出来るんだ。必要なのはどうありたいか、そしてどうなりたいか。心の在り方さ』

「心の、在り方……」

 その言葉が、胸にささった。嫌に食い込んで離れない。
 どこかで、自分から諦めていた。
 楽譜が読めないからと、もう無理なんだって諦めて、勝手に線を引いて、それを超える程の努力は自分でもやったことがなかった。
 しかしもし――もし、願ってもいいのなら。
 もう触らないと誓ったピアノに、一度でも触れて良いのなら。
 夢でも良い。この世界だけれ感じられる、泡沫の心地でも構わない。

「弾きたい……私、弾きたい」

 はっきりと告げたつもりの言葉は、絞り出したように儚い。
 それでも、声の主にはちゃんと届いたようで、『よく言った』とはっきり答えてくれた。大きく頷いている様子も見て取れるようだ。

『もう一度だけ言うよ。目を覚ましたら、楽譜を読むんだ。しっかり、じっくりとね。そうすれば、またこっちに来た時、好きなように練習が出来るから』

「はぁ、分かった。でもここにはどうやったら来られるの?」

『僕が君を迎えに行く。強く、この風景をイメージするんだ。そうすればまた、僕の方から君のことを呼んであげるから』

「うん。ありがと。って、何者かも分からない相手に言ってもなぁ」

『まぁ、そうなんだけどね』

 声は少し、抑揚なく言う。

『そろそろ夜明けだ。まずは、思いつく好きな曲を視てきてごらん――』
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