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第1楽章 『con molt espressione』
1-1.母の渡航
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高校一年の冬。
一月八日の今日は、私の誕生日。今年で十六になる。祝いの席には、毎年ちゃんと母がいた。けれども今年は、
「ごめんね、陽和。今年だけは、どうしても外せなくて」
もう何回、何十回という謝罪の言葉が、私の耳を打っていた。
どうしても外せない予定――母の言うそれは、海外で行われる、とある音楽イベントのことであった。
ピアニストとして、これまで国内のみで活動していた母だったが、その演奏は海外でも高く評価されており、イベント出席の声も、以前からずっとかけられているものだった。
それは世界から認知される程の舞台で、そこで成功すればまた定期的に参加要請の声がかかり、活躍次第では現地でのソロコンサートも企画、斡旋してもらえるのだとか。
とてもとても、大事なイベントなのだ。クラシック奏者に言わせれば、声がかかるだけでも名誉らしいとも聞く。
けれども母は、毎回呼ばれるその時期に、私の運動会であったり、部活の催し、更には誕生日なんかが被ったりしていたことから、全て断り続けていたのだ。
運動会なんて目立たない種目だったし、中学時代の部活は茶道部、誕生日だって中学に上がってからは少しばかり恥ずかしさすら覚えるようなイベントだ。
私のことより、自分のことを優先したっていいようなものなのに。
それでも、母は「大事な一人娘の晴れ舞台」と言って譲らなかった。
けれど、今回ばかりは特別なようで――何でも、今回を逃してしまったら、次はもうないだろうという話。そんな旨を知ってしまったから、今回ばかりは、是が非でも行ってもらうと決めていた。
私だって、もう高校生だ。いい加減、親に祝ってもらうようなものでもない。言葉一つ貰えれば、それで十分だ。
「大丈夫、気にしないで。いいチャンスじゃん。今回こそは無駄にしちゃダメだよ?」
私は、努めて明るく振舞う。母の初海外出張を、大出を振って見送ると決めたのだから。
三週間会えないこと自体は寂しいけれど、それを少しでも見せてしまっては駄目だ。
「高々三週間の話でしょ? 心配いらない、大丈夫だよ。涼子さんだっているんだしさ」
「ええ。ありがとね、陽和。愛してるわ。誕生日、おめでとう」
「こちらこそありがと、お母さん。でも、謝るのは寧ろ私の方だよ。これまで全部、私のことで断って来たんでしょ? ごめんね、私が病気とか色々持っちゃってるせいで」
「何言ってるの。しっかり良い子に育っちゃって、もう。誰に似たのかしらね」
「紛れもなく血の繋がった親子だよ。最近ね、佳乃から『お母さんに似て来たんじゃない?』って言われるの。私、それがすっごく嬉しいんだ」
坂井佳乃。中学からずっと同じクラスの、友人だ。何度か家にも呼んでいるから、母もよく知っている。
私がそんなことを言う頃、母の目が潤んでいるのに気が付いた。何だか、私まで寂しくなってきてしまう。
母はそれを誤魔化すように、私には見せないように、わざとらしく腕時計に目を落とした。
「飛行機の時間に遅れちゃうわ。そろそろ行かないと」
「気を付けてね。機長さんに『絶対事故らないでね』って連絡入れておこうか?」
「冗談言ってるくらいなら、まだ安心出来そうね。ふふっ」
キャリーケースを持ち直し、玄関の扉を開ける。道路脇には、もうタクシーが停まっていた。
「っと、出かける前に――ほら、写真撮るわよ、写真」
振り返った母が言う。
キャリーケースから手を離し、いそいそとデジタルカメラを取り出した。
「えー! 今まで私が誘ったって、お化粧がーとか、衣装がーとか言って、頑なに避けて来たくせに! 何でこのタイミングで!?」
「良いでしょ、別に。三週間も離れるの、初めてなんだもの。きっと寂しくなっちゃうわ、私の方が」
「何よそれ、もう」
呆れて笑いながらも、私は母の隣に並んだ。そうして家をバックに、一枚、二枚と、涼子さんに撮ってもらった。
「旧家名家の家族写真みたい。とっても素敵に撮れましたよ」
涼子さんが母にカメラを返しながら言う。横から覗き込んだそれは、確かに旧家名家の家族写真のよう。私たちじゃないみたいに、よく撮れていた。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
「陽和もね。佳乃ちゃんにもよろしく言っておいて。じゃ、行ってきます」
優しく笑いながらひらりと手を振ると、母と涼子さんはタクシーに乗り込んだ。車内からも、ずっとこちらへと手を振り続けていた。
そんな姿が、先の角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、私は家の中へと戻った。
寒い寒い、昼下がりのことだった。
すっかり寂しくなってしまったリビングに目をやっていると、自然と大きな溜息が零れた。これまで、母はいつだってこの家にいたのだ。
母が出張の時は、予定さえなければ必ず着いて行っていた。一日二日なら、学業にも影響は出さないよう努められた。
しかし今回は、海外。それも、三週間。
もう高校生なのだから、幼子のように泣いて悲しんだりはしないけれども、今まで当たり前だったものが急に変わると、やっぱり寂しさや虚しさは感じる。涼子さんも、母の見送りに着いて行った後は、諸々の処理に追われて、今日はもう戻ってこない。
家のことは、自分で全てやらなくてはいけない。
「すぅー、はぁー…………よしっ!」
大きな深呼吸をすることで雑念を取っ払うと、私は早速、やらなくてはならないことに取り掛かった。
考えてしまうから寂しいのなら、考えられないくらい動けばいい。
一月八日の今日は、私の誕生日。今年で十六になる。祝いの席には、毎年ちゃんと母がいた。けれども今年は、
「ごめんね、陽和。今年だけは、どうしても外せなくて」
もう何回、何十回という謝罪の言葉が、私の耳を打っていた。
どうしても外せない予定――母の言うそれは、海外で行われる、とある音楽イベントのことであった。
ピアニストとして、これまで国内のみで活動していた母だったが、その演奏は海外でも高く評価されており、イベント出席の声も、以前からずっとかけられているものだった。
それは世界から認知される程の舞台で、そこで成功すればまた定期的に参加要請の声がかかり、活躍次第では現地でのソロコンサートも企画、斡旋してもらえるのだとか。
とてもとても、大事なイベントなのだ。クラシック奏者に言わせれば、声がかかるだけでも名誉らしいとも聞く。
けれども母は、毎回呼ばれるその時期に、私の運動会であったり、部活の催し、更には誕生日なんかが被ったりしていたことから、全て断り続けていたのだ。
運動会なんて目立たない種目だったし、中学時代の部活は茶道部、誕生日だって中学に上がってからは少しばかり恥ずかしさすら覚えるようなイベントだ。
私のことより、自分のことを優先したっていいようなものなのに。
それでも、母は「大事な一人娘の晴れ舞台」と言って譲らなかった。
けれど、今回ばかりは特別なようで――何でも、今回を逃してしまったら、次はもうないだろうという話。そんな旨を知ってしまったから、今回ばかりは、是が非でも行ってもらうと決めていた。
私だって、もう高校生だ。いい加減、親に祝ってもらうようなものでもない。言葉一つ貰えれば、それで十分だ。
「大丈夫、気にしないで。いいチャンスじゃん。今回こそは無駄にしちゃダメだよ?」
私は、努めて明るく振舞う。母の初海外出張を、大出を振って見送ると決めたのだから。
三週間会えないこと自体は寂しいけれど、それを少しでも見せてしまっては駄目だ。
「高々三週間の話でしょ? 心配いらない、大丈夫だよ。涼子さんだっているんだしさ」
「ええ。ありがとね、陽和。愛してるわ。誕生日、おめでとう」
「こちらこそありがと、お母さん。でも、謝るのは寧ろ私の方だよ。これまで全部、私のことで断って来たんでしょ? ごめんね、私が病気とか色々持っちゃってるせいで」
「何言ってるの。しっかり良い子に育っちゃって、もう。誰に似たのかしらね」
「紛れもなく血の繋がった親子だよ。最近ね、佳乃から『お母さんに似て来たんじゃない?』って言われるの。私、それがすっごく嬉しいんだ」
坂井佳乃。中学からずっと同じクラスの、友人だ。何度か家にも呼んでいるから、母もよく知っている。
私がそんなことを言う頃、母の目が潤んでいるのに気が付いた。何だか、私まで寂しくなってきてしまう。
母はそれを誤魔化すように、私には見せないように、わざとらしく腕時計に目を落とした。
「飛行機の時間に遅れちゃうわ。そろそろ行かないと」
「気を付けてね。機長さんに『絶対事故らないでね』って連絡入れておこうか?」
「冗談言ってるくらいなら、まだ安心出来そうね。ふふっ」
キャリーケースを持ち直し、玄関の扉を開ける。道路脇には、もうタクシーが停まっていた。
「っと、出かける前に――ほら、写真撮るわよ、写真」
振り返った母が言う。
キャリーケースから手を離し、いそいそとデジタルカメラを取り出した。
「えー! 今まで私が誘ったって、お化粧がーとか、衣装がーとか言って、頑なに避けて来たくせに! 何でこのタイミングで!?」
「良いでしょ、別に。三週間も離れるの、初めてなんだもの。きっと寂しくなっちゃうわ、私の方が」
「何よそれ、もう」
呆れて笑いながらも、私は母の隣に並んだ。そうして家をバックに、一枚、二枚と、涼子さんに撮ってもらった。
「旧家名家の家族写真みたい。とっても素敵に撮れましたよ」
涼子さんが母にカメラを返しながら言う。横から覗き込んだそれは、確かに旧家名家の家族写真のよう。私たちじゃないみたいに、よく撮れていた。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
「陽和もね。佳乃ちゃんにもよろしく言っておいて。じゃ、行ってきます」
優しく笑いながらひらりと手を振ると、母と涼子さんはタクシーに乗り込んだ。車内からも、ずっとこちらへと手を振り続けていた。
そんな姿が、先の角を曲がって見えなくなるまで見送ってから、私は家の中へと戻った。
寒い寒い、昼下がりのことだった。
すっかり寂しくなってしまったリビングに目をやっていると、自然と大きな溜息が零れた。これまで、母はいつだってこの家にいたのだ。
母が出張の時は、予定さえなければ必ず着いて行っていた。一日二日なら、学業にも影響は出さないよう努められた。
しかし今回は、海外。それも、三週間。
もう高校生なのだから、幼子のように泣いて悲しんだりはしないけれども、今まで当たり前だったものが急に変わると、やっぱり寂しさや虚しさは感じる。涼子さんも、母の見送りに着いて行った後は、諸々の処理に追われて、今日はもう戻ってこない。
家のことは、自分で全てやらなくてはいけない。
「すぅー、はぁー…………よしっ!」
大きな深呼吸をすることで雑念を取っ払うと、私は早速、やらなくてはならないことに取り掛かった。
考えてしまうから寂しいのなら、考えられないくらい動けばいい。
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