吸血鬼のための人間の噛み方入門

水鳴諒

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―― 本編 ――

第37話 絵山という風景画

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 この日から暫く瑛が滞在する事になり、邸宅の雰囲気が変化した。
 元々はこんな空気感が自然なはずだったのになと、澪は懐かしい気持ちになるのが不思議だった。現在は絵山と二人で、自分の私室にいる。

 今日はする仕事もないので、ゆったりとお茶を飲んでいる。
 二人の時の常で、絵山もまた座っている。久水は瑛の使いで外へと出ている。

 カップを傾けながら、澪は絵山へと視線を向けた。するとカップの中を無愛想な顔で見ていた絵山が、視線に気づいて顔を上げた。

「なにか?」
「色々あったな」

 思ったまま澪が口に出すと、絵山が呆れたような顔をした。

「今だから言うけど、気が気じゃなかったよ。澪様は、危ない方へ危ない方へと進むものだからね」

 いつものやる気の無い声とは僅かに色彩が違う。そこには心配が滲んでいるようだった。

「調査を手伝ってくれてありがとう。お前がいてくれて色々と助かった」
「……まぁ、澪様を一人には出来ないから」
「そういう仕事だものな」

 何気なく澪が言うと、呆れたように息を吐いた絵山が、顔を背けた。

「仕事だからじゃないですよ」
「ん?」
「俺が澪様を放っておけないって事」
「同じ事だろう?」
「全然違う。分かってないですよね、本当」

 絵山はそう言うと、澪に向き直った。

「俺は、澪様が澪様だからお仕えしているんです」

 それを聞いて、澪はカップを置き腕を組む。澪は絵山が、いつか澪自身が昴に対して種族が関係ないと思ったように、自分の人格を認めてくれているのだろうかと、その言葉から考える。すると嬉しくなって、澪は自然と笑みを零した。

「そう言われるのは、悪い気がしない」
「俺にこんなことを言わせるなんて、澪様くらいなんだから、存分に喜んでくれていいんですよ」
「これからも宜しく頼む」
「ええ。いつまでもおそばに」

 絵山はそう言うとカップを手にし、紅茶を飲み込む。それからふと思い立ったように澪を見た。

「ところで、白兎ってなんだったの?」
「それはまだ分からない。あの後、手紙も来ないが」
「文面を見るかぎり、昴様を心配している第三者のようでもあったけど」

 それを聞き、澪はゆっくりと頷く。

「それは同じ意見だ。だとすれば、俺と白兎は、同じ考えの持ち主だという事だな」
「澪様は本当に過保護だよね。そんなに兄上の事が心配なの?」
「悪いか?」
「悪くはないけど……俺が澪様にそこまで心を配られる日は生涯無さそうだと思うと、微妙な気持ちにはなるよ」
「絵山は弱くは無いからな。ああ、いや、兄上が弱いと言うつもりはない」
「人間なんだから、弱いんじゃないの?」

 首を傾げた絵山を見て、澪は笑う。

「兄上の優しさは、強さだとも思う。俺に、人間の見方を変えさせたのだから、それは強いもののはずだ」
「ふぅん。見方、ですか。なんだか妬けるなぁ」

 絵山はそう言うと再びカップを動かす。

「妬ける?」
「うん。澪様にとって俺は風景だけど、昴様は生きてそこにいるんだろうなと思って」
「絵山」
「なに?」
「お前だって俺にとっては、きちんと生きて、傍に居てくれる大切な従僕だが? 絵山は絵山で、俺にとっては必要だ。確かに絵山がいるのが自然という意味では、風景とも言える。ただ、俺は絵山が仮に、何か困ったり弱ることがあったならば、絵山は兄上ではないが力になりたいと思うぞ?」

 澪が素直な気持ちを述べると、絵山が目を瞠った。それから柔らかく笑う。

「俺は困ったり弱ったりしないよ。弱っていたら、澪様を守れないからね」

 その柔和な表情を見て、澪が苦笑する。

「俺も守られるほど弱くはないつもりだが?」
「どうだろうね。手紙を見てすぐに貧民街に行ったり、ある意味無謀で危険を顧みない上、油断しすぎな部分を、俺は弱いと表現してもいいと思うけど」
「そんな風に思っていたのか?」
「勿論、俺がいるから危害を加えさせるつもりは無かったけどね」

 絵山はそう言うとカップを置いた。それから天井を仰ぐ。

「澪様が小さい頃から見守ってきたんだから、こんな中途半端なところで、危険な目に遭わせたりはしたくないというのが本音。俺は澪様が立派にひとり立ちして西園寺家の当主になる姿をみたいんだよ」

 澪が八歳の頃、二十二歳でこの家で、澪専属で仕えるようになった絵山は、澪にとってはある意味最も身近な大人でもある。もう十年も一緒にいるのだなと考えながら、澪は頷く。

「その期待には、必ず応えることにしよう」
「勿論です」
「そのために、お前はこれからも俺に力を貸してくれるのだろうな?」
「当然だよ」

 澪へと顔を向けると、絵山が形のいい唇の両端を小さく持ち上げた。それに対し、澪が満面の笑みを浮かべる。

「心強いな」

 本心からそう述べた澪は、それから窓の方を見る。本日は雨だ。窓に打ち付ける雨の音が、澪は嫌いではない。雨の音は、澪にとっては優しく聞こえる。

「澪様」
「ん?」
「これからも俺は、永遠におそばに」
「――ああ。それこそ期待している。お前は俺の大切な供なのだから」

 澪は頷き、絵山という風景の絵があるのならば、きっと横には己の姿も描かれているのだろうなと考えた。それだけ、絵山は大切な存在である。



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