家事と喧嘩は江戸の花、医者も歩けば棒に当たる。

水鳴諒

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第一章:残んの月

【八】端午の節句

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 陸奥の外れに、斗北藩は位置している。接しているのは会津藩だ。
 その斗北では、端午の節句はどちらかといえば関東風に柏餅が食される。

 五月五日、椋之助は評判の菓子司で桜餅を購入した帰り、顔なじみの呉服屋の啓助けいすけから、手紙を受け取るついでに菖蒲を貰い受け、機嫌良く往診から帰宅した。すると台所で伊八が蚕豆そらまめを七輪で焼いていた。二つある竈は、ご飯の釜と味噌汁のそれで埋まっている様子だ。

「伊八、今夜は酒にこちらを」
「ああ、菖蒲酒か」

 椋之助の手にする菖蒲を見て、伊八が頷いた。

「それからこちらは土産です」
「それは?」
「端午の節句といったら決まっているでしょう?」
「柏餅か? ちまきか?」
「おや、粽も候補にあがるとは」

 粽は関西で主流だと、椋之助は耳にした事があった。江戸にいれば、どちらも見たことはあるが、それでも斗北にゆかりのある食べ方をしている椋之助には、少々意外だった。

「柏餅は作れないが、粽は俺にも作る事が出来るからな。知識はある」
「なるほど」

 当然のように述べた伊八に対し、椋之助は頷いた。

「少し買い足してくる」
「そうですか」

 出て行く伊八を見送り、椋之助は一度診察をする部屋へと向かった。そして本日中身をいくつか消費した薬籠に、使う頻度が高い漢方薬を補充した。

 暫くして伊八が戻ってきた気配がしたが、椋之助は薬籠の中身の整理に熱中していたので構わなかった。そのまま七ツ半になった頃、伊八が呼びに来たので、椋之助はやっと仕事に一区切りをつける。

「やはり風流ですね」

 いつもより大きな酒盃の中に浮かぶ、濃い紫や群青色の花弁に、椋之助は目を惹かれた。酒の水面に揺れる菖蒲は、見る者を魅了する。

「あ、それに今宵の酒の肴は、これはまた」

 続いて隣を見れば、いつもの食事の他に、一品追加されていて、あじのたたきがそこにはあった。夕方でも棒手振りがよく売りに来るため、先程伊八が買いに出たのは、鰺だとすぐに想像がついた。酒と聞いて、つまみを付け足してくれたらしい。

 みょうがとわけぎ、青じそと生姜が彩る鰺のたたきの器を見て、椋之助は口の中に唾液が溢れてくるのを感じた。椋之助が座ったところで、さっと伊八がしょう油をかける。

「貴方も飲みなさい」
「さすがにそれは」
「いつも思っていたんです。二人いるのに一人でばかり飲むのは、退屈でならない。いいですか? 酒は味と酔いばかりを楽しむものではなくて、飲むという空間を楽しむものでもあるんです。分かりますか? 分かりますよね」

 椋之助が笑顔で断言すると、呆れた顔をしてから伊八が立ち上がった。そしてもう一つ酒盃を持って戻ってきた。そして卓の上に置いてあった皿から菖蒲の花弁を手にし、静かに散らす。そしてまじまじと酒を見てから、珍しく伊八が口元を綻ばせた。最近は表情が豊かになりつつあるが、どちらかといえばそれは怒りや呆れであり、このように柔らかな顔をするのは、まだまだ珍しい。

「伊八、どうして鰺は鰺というか知っていますか?」
「さぁ? 何故だ?」
「味がいいからだそうです」
「……」

 笑顔で述べた椋之助に対し、伊八が胡散臭そうな顔をしながら、酒を呷る。

「信じていませんね?」
「おう。そんな安直な名前だとは思わない」
「上の部屋にある本の中に、〝東雅とうが〟という辞書があります。そこに書いてありました」
「……本当に?」
「賭けますか?」

 唇の片端を持ち上げて、余裕たっぷりの顔で椋之助が笑った。するとぐいっと伊八が酒を飲み干す。そして手酌で二杯目を注ぎながら頷いた。

「いいぞ。賭けをそちらが持ちかけたんだ。先に俺が答えてもいいか?」
「ええ。何を賭けますか?」
「そうだな……」
「では、こうしましょう。私が勝ったら明日は私の好きな食べ物、伊八が勝ったら明日は私の嫌いな食べ物としましょう」

 伊八は疑っている様子なので、〝嘘〟にかけると椋之助は考えていた。なので己が勝利すると確信している。

「いいだろう。俺は〝まこと〟にかける。それは本当の話だな?」
「えっ、ど、どうしてです?」
「椋之助がわかりやすいのが一つ。それと――俺は賭け事は、大勝負をする方なんだ」
「見えませんね。いかにも堅実そうなのに」
「正解は?」

 無表情で伊八が問う。ぐっと言葉に詰まってから、椋之助が肩を落とした。

「正解は、〝真〟です」
「ほらな」

 にやっと唇の端を持ち上げて、伊八が勝ち誇ったような顔をした。稀に見る楽しげな表情に、椋之助が不貞腐れた顔をする。

「言えよ。嫌いな食べ物はなんだ?」
「……雀です」
「は?」
「雀です」
「す、雀……? 雀を食べるのか? あの愛らしい小鳥を?」

 伊八がぎょっとしたような顔をした。俯き、悲しげに椋之助が頷く。

「斗北は小さく貧しい藩なので、民は米を食い荒らす雀を追い払いつつ、一部の死した雀は焼いて食べます……私は、どうしてもそれだけは食べられず……いえ、いなごや蛙も苦手なのですが……」

 青ざめてさえいる椋之助の小さな声に、引きつった顔で伊八が頷いた。
 どうやらなんでも料理が作れそうな伊八の料理帖にも、雀は記載されいなかったようだ。

「……ちなみに訊くが、好きな食べ物は?」
烏賊いかのカピタン和えです」
「カピタン和え?」
「烏賊と長葱を、味噌や砂糖などで濃い味にしたものです、私が好きなのは」
「烏賊の葱味噌和えという事か?」
「大体そのようなものです」

 気を取り直したように、椋之助が頷いた。それを見て、酒盃を呷りながら、伊八が思案するような顔をする。

「失敗して、非常に不味い品が出来るかも知れないから、明日はそれを作る。決して、俺自身が雀を料理したくないからじゃない」
「やはり嫌ですか、貴方も」
「違うと言っているだろ」
「伊八。貴方も大概分かりやすいです」

 こうして端午の節句の夜は更けていった。椋之助はこの夜、その顛末を手紙に綴った。


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