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第一章:残んの月

【五】筍飯

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 ゆっくりと歩いて七星堂に帰宅すると、日が傾き始めていた。
 だがまだまだ明るい。
 ただ本日は一人だった上、椋之助は昼食をとっていなかったこともあり、どちらかといえば空腹だった。元々往診続きの場合は、必ずしも三食を摂るわけでもない。

「ただいま戻りました」

 戸を開けて中へと入る。声をかけながら草履を脱ぐため視線を下げた時、椋之助は台所の方から香ってくるいい匂いに気がついた。中へと入りながら顔を上げて、目を瞬かせる。気づけば薬籠を置き、自然とそちらへ進んでいた。

 すると台所に、紺色の着物をたすき掛けにした伊八の背中が見えた。
 竈の前に立ち、釜の蓋を開けている様子だ。僅かに見える横顔は真剣で、相変わらずの無表情ではあるが、無愛想には不思議と見えない。そんな事を考えていると、ゆっくりと首だけを動かし、伊八が椋之助を見た。目が合ったので、慌てて椋之助は笑顔を取り繕った。気づかれているとは思っていなかったのだが、考えてみれば入り口で声をかけたのだから分かっていたかと考え直す。

「椋之助様、何時がいいですか?」
「はい?」
「夕餉は」

 初めて伊八のがわから話しかけられた椋之助は、少し考えてから答える。

「そろそろ七ツ半ですし、すぐにでも」
「分かりました。部屋はどちらで?」
「隣の居間にお願いします」
「はい」
「それと、少し話がしたいので、貴方も一緒に食べませんか? これから、住み込みで諸々を担ってもらうんですし、私も色々伺ってみたいんです。貴方がどんな方なのか。折角です、仲良くしましょう」

 にこりと椋之助が笑うと、相変わらず無愛想な顔をしている伊八が、ゆっくりと瞬きをしてから小さく頷いた。

 椋之助はそれから入り口に薬籠を取りに戻り、そばの診察をしている部屋の一角に戻しておいた。中の間と台所が通じる部屋にあたり、その二つの部屋の隣が居間だ。

 それから椋之助が居間へ向かうと、黒い卓の上には料理が二人分並んでいた。

「これは」

 目を瞠った椋之助は、早速座りながらまじまじと茶碗を見る。そこには筍飯たけのこめしがあった。他の品もあるが、まず目を惹かれたのは筍飯だった。茹でた筍の上に、木の芽と紅だてが載せられている。だし汁のよい香りが、先程入り口まで香ってきた匂いの正体だと、椋之助は気がついた。目が釘付けになっていた椋之助は我に返ったとき、伊八がまだ立ったままだと気がついた。

「あ、どうぞ座って下さい」
「はい」

 頷いた伊八はどことなく迷惑そうな空気を醸しだしながら、椋之助の正面に腰を下ろした。お金も共に食事をしていたので椋之助としては自然だが、本来はあまりこのように手伝いの者は雇い主と卓を囲むことはないのかもしれない。

「早速頂きます」

 箸を手にした椋之助は、茶碗を手に持ちまずはご飯を口へと運んだ。するとだしの風味が口の中に広がる。続いて口に運んだ筍は食感を残しつつも柔らかで、こちらは塩味が効いていた。気づくとどんどん箸が進んでしまい、椋之助はあっという間に食べ終えていた。普段であれば、どちらかといえばゆっくりと食べる方であるし、会話も楽しむ方なのだが、食に没頭してしまうくらい美味だったため、つい言葉を忘れていた。

「あ……ええと」
「おかわりですか?」
「お願いします」

 何か会話のいとぐちを、と、口を開いただけだったのだが、問いかけられるとすぐに頷いてしまった。立ち上がった伊八が、すぐに筍飯の用意に行き、戻ってきた。

 こうして二杯目を食べながら、漸く椋之助は伊八に意識を向ける。

「伊八、料理はどちらで習ったんです?」
「小料理屋をしていた祖父に」
「なるほど」
「……」
「……」

 しかしそこで会話が途切れてしまった。椋之助は、続ける言葉を色々と想定してはいたが、その前に伊八が何かを自発的に話すか気になり、敢えて沈黙を挟んだ。伊八は茶碗を見て、黙々と箸を動かしている。別段食べる速度が遅いわけではない。椋之助の一敗目を食べる速度が早すぎただけで、お椀からは順調に筍飯が減っている。

「伊八、歳は?」
「二十七です」
「おや、私と同じですね」
「……」
「なにか武芸を?」
「……何故です?」

 それとなく椋之助が尋ねると、初めて伊八が聞き返してきた。視線を上げたのもこれが初めてだ。窺うような眼の色に、椋之助は気をよくした。

「これでも医者の端くれですから、肉付きで分かります」
「……そうですか」

 沈黙を置いてから、淡々とした声で伊八が頷いた。
 実際、伊八の体躯は着物の上からでも逞しいのが一目で分かる。凌雲に鍛えられて椋之助もそれなりに心得はある。だが伊八のしなやかな筋肉の付き方は、少し質が違って見えた。ただの料理人には見えない。相当鍛えていると、椋之助の目には映った。

「どんな武芸を?」
「……」
「そちらの道には進まなかったんですか? あ、いえ……これは立ち入ったことを訊いてしまいましたか? 言いたくなければ結構」
「……」
「逆に料理人の道には、本格的に進まないんですか? これほどの腕前ですし、私の家で手伝いをしてばかりでは勿体ないようにも思えます。雇っておいて言うのも妙かもしれませんが」

 傍目には実に穏やかに見える上辺だけの作り笑いで、椋之助は言葉を連ねる。しかし黙りこくった伊八は何も答えない。そして黙々と食べ終えると、疲れたように吐息した。

「椋之助様」
「はい」
湯屋ゆうやには行かないんですか?」
「あ……行きます」

 丁度椋之助も全ての料理を食べ終えた時の事である。

「伊八も行きますか?」
「俺は皿を片付けたら行きます」
「場所を案内しますよ?」
「平気です」
「そ、そうですか」

 まさにとりつく島も無い様子の伊八に対し、さすがに椋之助も次第にかける言葉を見失い、面倒になってきた。親しくする気が無い相手の姿、先方も面倒な様子。いくら今後一緒に暮らすとはいえ、ご機嫌取りをする気にはならない。

「では、お先に」

 こうして椋之助は箸を置き立ち上がった。
 そして七星堂を出ながら、先程より少し冷えてきた風に当たりつつ、深々と息を吐く。
 一番星が輝いていた。

「上手くやれるんでしょうか」

 不安しかない出だしだった。


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