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『“中華料理屋 安部”のハンカチさん』






高校3年  2月



「“ハンカチさん”、今年は会社の女の子達からバレンタインのチョコ貰っちゃってさ。」



カウンターの向こう側、土曜日の15時過ぎに2人の常連さんが座っている。



1人は近所に住む50代の男の人。
肉体労働をしている人で、俺の中学の頃の男子同級生のお父さん。
そろそろ現場を引退しようかと考えている人だった。



そしてもう1人はその常連さんの隣、1つ間を空けた席、俺が作業をする時によく立つ場所の目の前の席に座る常連さん。
そこに毎週末座っているのが“ハンカチさん”と常連さん達から呼ばれる羽鳥さんだった。



どこかの財閥の分家として生まれ育ったらしい25歳のお嬢様。
店の古い扉が開かれたことにも気付けないくらい静かに扉を開けることが出来て、セルフサービスで自分の水をいれることも出来ず、壁に貼られているメニューから注文を選ぶことも出来ず、なのに50万分も入った商品券の封筒をポンッと俺に渡そうとすることは出来る。



それくらいに生粋のお嬢様が24歳の誕生日の日、たまたまこの店に入ってきた。
そして思いっきり母親に想いも気持ちも吐き出していて、更には思いっきりそこの床に嘔吐までしていた。



誰でも入れるような中華料理屋、色んな人がいるような定時制の夜間コースの高校。
どんな人も知っているつもりでいたけれど、ここまでの生粋のお嬢様は初めて見たし、ここまで印象的なお客さんが来店したのは初めてのことだった。



“あんな姿を俺に見られて恥ずかしかっただろうな”とも思ったけれど、この店の責任者として出来る限りの対応をして“また来てください”と伝えた。



純粋にそう思っていたし、それに“何不自由なく見えるような大金持ちのお嬢様も大変なんだな”と、そんなことを知れたのは少しだけ嬉しいとも思えたから。



自分だけが大変だなんて思ってはいないけれど、生きてるだけでも大変だなとは思ってはいて。
でも長男だしそんなことも言ってられず稼げるだけ稼いできたけれど、心の中ではずっとそう思っていて。



中学に入るタイミングでこの地域に越してきて、初めて我が家のことを誰かに話したのは嘔吐まみれで汚くなった生粋のお嬢様にだった。
初めて俺の心の中の声を聞いてくれたのは、友達でもなんでもなく初めて来店した生粋のお嬢様、羽鳥さんだった。



「チョコを貰えてよかったじゃないですか。」



「よかったはよかったけどさ~、お返しとか何あげればいいんだ?
若い女の子が好きな物とか分からないしよー・・・。
可愛いハンカチとか・・・?
“ハンカチさん”、いつも可愛いハンカチ広げてるし。」



「無難に百貨店のホワイトデーコーナーに置かれてるお菓子を買えば大丈夫ですよ。」



残っているスープを今日もゆっくりとレンゲで飲みながら羽鳥さんが常連のオジサンに答えている。



「“ハンカチさん”は幸治にチョコ渡しに当日来たのか?
それとも今日渡すの?」
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