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昔砂川さんが買ってくれたマグカップ。
会社の帰りにあのイタリアンの店で夜ご飯を一緒に食べ、湯飲みとグラスしかなかった砂川さんの家にマグカップが欲しいと言った私。



たまたま近くにあった雑貨屋の閉店セールでこのマグカップを見付けた。
1つ300円もしないようなマグカップを。



もう店自体が終わってしまう店のマグカップ。



赤でもなくピンクでもないこの黒いハートになる2つで1つのマグカップ。



ホワイトデーも誕生日もクリスマスも何もくれることがなかった砂川さんがたった1つだけ買ってくれた物。



それがこのマグカップだった。



砂川さんにとっては何でもないマグカップだっただろうけど、私にとっては幸せの証明になるマグカップだった。



付き合っているカップルとしての“幸せ”のマグカップだった。



そのマグカップを今はこんなにも悲しい気持ちになりながら見下ろす。



そして、震える口を何とか開き最後の抵抗をする。



「化粧落としがないからやっぱり帰る。」



そう口にした私に砂川さんは私のすぐ隣に座った。
私の身体と砂川さんの身体がくっついてしまうくらいにすぐ隣に。



「必要なら俺が買ってくるけど、“純ちゃん”化粧落としが嫌いだったよね。
固形石鹸で落ちる化粧品しか使ってなかったはずだけど変えたんだ?」



私のことをムカつくくらい知り尽くしている砂川さんがそんなことまで覚えている。



「スキンケアも気になる所にワセリンを少し塗るくらいだったのに凄く肌が綺麗だったよね。
スキンケアも今は変えたの?
必要なら俺が後で買ってくるよ。
固形石鹸もワセリンも俺が今も普通に使ってるから家にあるけど。」



「もう、いい・・・。ムカつく。」



呟くように嘆いてから勢いよく服を脱いだ。



「え・・・!?ここで着替えるの!?」



「お腹も痛くなってきたから立てない。
・・・何慌ててるの?
私の裸なんて昔散々見たじゃん、この前は明るいトコロで見たし。」



「いや、でも・・・」



何故かめ~・・・・っちゃ慌てている砂川さんの姿にはもっと意地悪をしたくなってきて、全部の鬱憤を晴らすようにこの場で普通に着替えていく。



「パンツを脱ぐなら俺向こう行くから・・・!!」



「まだ生理になってないのにパンツまで脱ぐわけないじゃん。」



「・・・何でブラジャーまで外してるの!?」



「昔から家にいる時は外してたよ?」



「乳首・・・っ乳首分かるから・・・!!
スウェットを着てても分かるからダメだよ!!」



「乳首とか言わないでよ、エッチ。
ていうか、着替えてるトコロをガッツリ見てこないでよ。」



「ごめん、つい・・・。」



赤い顔を更に真っ赤にして謝罪をしてきた砂川さんにはスッキリとした気持ちになり大きく笑った。



「お腹も空いた!!」



「中華街で買った物、車の中で純愛ちゃん全て食べちゃったけど。」



「何か作って、美味しい物。」



「何系が食べたい?」



「中華。」



「ああ、生理前だからね。
生理前は連日中華になるのは変わらないんだ。」



「固形石鹸で化粧落としもワセリンでスキンケアも変わってないよ。
ムカつくけど変わってない!!」



大きく笑いながらホットミルクティーを一気に飲んだ。



「私は何も変わってないよ。
この3年間で砂川さんはこんなに変わったのに私は何も変われてない。」



小さく笑ってから空になったマグカップを自分の目の前に置いた。
しっぽの長い黒いネコは1匹でポツンと寂しそうに見える。



砂川さんは自分のマグカップをゆっくりと持ち上げ勢いよく飲んでいくのがすぐ隣の気配で分かる。



そして・・・



1匹でいたネコの隣にもう1匹のネコがゆっくりと近付いてきた。



「純愛ちゃんも変わったよ。
絶対に女の子を選ばないはずの純愛ちゃんが佐伯さんのことを選んだ。」



私のネコと砂川さんのネコはゆっくりとくっつき、そのしっぽがハートの形になる。



「よくうちの経理部に来てくれたね。
俺がいるから絶対に来てくれないと思っていた。」



「私の命も身体も佐伯さんに貰われたから・・・。」



「佐伯さんに“純ちゃん”を迎えに行かせて良かった。」



その言葉には思わずすぐ隣にいる砂川さんのことを見た。



「砂川さんが私のことを迎えに行くように言ったの・・・?」



「そうだよ、俺は佐伯さんの上司だからそんな指示も簡単に出来る。
1つ付け足すと、迎えに行くようにではなく“顔を見て意向確認をしておいで”だけどね。」



「何それ・・・?」



「“純ちゃん”の顔は女の子の大好きな顔らしいから、佐伯さんも連れて戻ってくるだろうと期待して。」



砂川さんは怖いくらい熱い目で私のことを真っ直ぐと見詰め・・・



それから満足そうに笑った。



「良い“彼氏”と付き合ったね、純愛ちゃん。
佐伯さんと一緒に進めばいい。」



そんなことを言って優しい顔で笑った。
佐伯さんに見せた優しい顔ではなく、何となくそこに熱を込めたような目で。



「俺もとことん付き合うから。
だから3人で一緒に進もう。」



この見た目のせいで“強い人間”だと思われるけれど私はそんなに強くはない。
いつだって家族や友達に守られながら生きてきた。



まだ使うタイミングではない生理用パンツを握り締めながら砂川さんから視線を逸らす。



「私は可哀想じゃない・・・。
だから砂川さんまで付き合ってくれなくていい・・・。」



「これは俺の自己満だよ。
女の子がネイルをするのと同じ感覚くらいに受け取って。」



それにはしばらく黙り・・・



「全然意味が分からないんだけど。」



「女の子のネイルとか俺には何が良いのか全く分からなくて。
あれって自己満らしいよ?」



そんなどうでも良い話にすり替えられたと気付いた時には砂川さんは立ち上がりキッチンに向かって歩いていった。



「美味しい中華料理を作るよ。
あの中華街で食べた物よりも俺が作る中華の方が絶対に美味しい。」



あまりにも自信満々でそう言われるので・・・



ソファーに座り続けキッチンで料理をしていく砂川さんの姿を真正面から見てしまっていた。
昔は後ろ姿しか見ることが出来たかったその姿を。



楽しそうに、嬉しそうに料理をする砂川さんの姿を見て、昔もこんな顔で私に料理を作っていてくれたのかなと、そんなことを少しだけ願うように思ってしまった。



まるで男物のようなスウェットだけではなく、捨てられることがなかった生理用のパンツを握り締めながら・・・。
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