“純”の純愛ではない“愛”の鍵

Bu-cha

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17時



経理部のフロアにある1番奥の会議室、私は今日1日中そこに閉じ込められている。
トイレ以外はこの場所で過ごし、昼休みには社員食堂のうどんが届けられた。



18時の定時まであと1時間。



私はまた簿記3級の教科書を見下ろしノートにシャーペンを走らせる。
今日は始業開始からずっと簿記3級の勉強をしている。



“経理部に3年もいて簿記の資格も持ってない人間に振れる仕事はない”



佐伯さんからそう言われこの小さな部屋に閉じ込められた。



佐伯さんはとんでもない女の子だった。
そんな佐伯さんの教育担当である羽鳥さんは何も言わずに普通の顔で仕事を始めていた。
もう1人の女の子も普通の顔で仕事をしていて、他の社員達は心配そうな顔で私のことを見ているだけで。



普通の顔で私のことを見ることもしていなかった部長。
課長である砂川さんのことは確認していないけれど、どんな顔をしていたのか想像するのも怖い。



「これは私のことを自主退職に追い込んでるよね・・・。」



増田生命に所属したまま退職するのは会社として不都合があったのか、私を一旦増田ホールディングスに出向させてから退職させるつもりらしい。



「今日の帰りに増田生命に渡しに行こう・・・。」



黒い手帳から退職願いを取り出した。



「いくら営業部から抜けたとはいえ、最後の最後にこんな仕打ちは酷いな・・・。」



全然頭に入らなかった簿記3級の教科書の活字。
その上に退職願いを置き泣きそうになった。



「最後の最後に格好悪い所を見せちゃった・・・。」



あんな年下の女の子から強い言葉を浴びせられている私のことを見て、砂川さんはどう思っただろう。



「また“可哀想”って思われたかな・・・。」



砂川さんは凄く優しい人でもあるから、きっとそう思ったはずで。



砂川さんにとって私はいつだって“可哀想な人”で。



“可哀想な女の子”でもなく、“可哀想な人”。



「この部署、あんなに綺麗で可愛い女の人ばっかりなんだ・・・。」



今日は密かにいつもよりも気合いの入った化粧をしていた。
お気に入りのブラウスにお気に入りのスーツ、いつもよりも時間を掛けた髪型、昨晩磨き上げたヒールの靴。



「私がこんなことをしたところで、全然意味なんてなかった・・・。」



あの綺麗で可愛い女の人達の中で一際目立っていた羽鳥さん。
佐伯さんのオーラはとんでもない物ではあったけれど、滲み出ているような美しさは佐伯さんの比ではなかった。



「なんか・・・疲れちゃった・・・。」



乾いた笑い声を口にした後にスーツのポケットに右手を入れた。
そこにはホワイトデーの夜に砂川さんから投げ込まれた砂川さんの家の鍵が入っている。



あれから砂川さんに会うつもりはなくてずっと返しに行けていなかった鍵が。



「もう、疲れちゃったよ・・・。」 



どうやって頑張るのかを忘れてしまった。



何の為に頑張ればいいのか分からなくなってしまった。



佐伯さんの言う通り、私はつまらなかった。



いつからか、私はいつもつまらなくなった。



「全部忘れたい・・・。」



砂川さんと過ごした日々だけはあんなにも楽しくて幸せで。
そんな日々が終わってしまったら、それまで以上にもっとつまらなくなってしまった。



「これでも、営業だけは頑張れてたんだよ・・・?」



砂川さんと出会う前、つまらない中でも営業だけは頑張れていた。
頑張れば頑張るほど成果に繋がる営業は私にとって凄くやりがいのある仕事だった。



でも・・・



「疲れちゃった・・・。
もう、疲れちゃった・・・。」



疲れ果ててしまった。



でも・・・



「もう行けないよ・・・。
行けるわけないじゃん・・・バカ・・・。」



砂川さんとの過去を忘れることなんて出来ない私が、砂川さんの家に行けるはずがなかった。



ポケットの中の鍵を握り締めながらやっぱり泣きそうになった時・・・



部屋の扉がゆっくりと開いた。



そこには佐伯さんが立っていて、私のことをバカにしたように笑った。



「ちゃんと勉強してる?」



私の横に立ち私のことを見下ろしてきて、綺麗なネイルがされている人差し指が退職願いに触れた。



「また逃げるんだ?」



そう言われ・・・



「アナタって逃げてばっかりの人生だからね。
末っ子の女の子で甘やかされて育てられちゃった?
両親からもお兄さんからも友達からも助けられてばかりで、自分1人だと逃げることしか出来ない人間。」



そんなことまで言われて・・・



「高校も大学もお兄さんと同じ学校を選んで、会社までお兄さんと同じグループ会社に入ったの?
自分の進路も自分で決められない人間なんだってね。」



お兄ちゃんから聞いたであろう話をそんな風な言い方でしてくる。



「自分の人生を決めることからも逃げて、剣道では中学の時の全国大会で2位。
最後の最後で逃げ腰になっちゃったんだってね?
そのうえ高校では部活にも入らず道場だけは続けて、そこで子ども達に指導するだけでもう1度戦うことからも逃げたんだ?」



何も知らない佐伯さんがそんなことを言う。



「女の子達からの本気の愛にも逃げてばかりだったんだって?
本気の愛をちゃんと受け取ることから逃げ続けて、どの女の子もアナタに純粋な愛情を向け続けるだけの虚しい恋愛にさせちゃった悪い人間でもあるらしいじゃん。」



私のことを何も知らない佐伯さんがそんなことを言い続けてくる。



「恋愛をしたことなんてないんでしょ?
そういうことからも逃げてるんでしょ?
だから女の子達からの本気の愛からも簡単に逃げようとするんだよ。」



私がどんな思いで逃げ続けて来たか知らない佐伯さんがまだ続けてくる。



「何か1つのことを最後まで逃げずにやり遂げたことなんてないでしょ。
自分の思いと最後まで向き合ったことなんてないでしょ。
自分の人生を楽しくしようと努力したことなんて1度もないでしょ。」



それを言われ・・・



そんなことまで言われたけれど・・・



私は何も言わなかった。



口は動いてしまいそうだったけれど、この口は決して動かさなかった。



だって分かるわけがない。



私のことなんて佐伯さんに分かるわけがない。



そう思うから何も言わない。



何も言わないでいるはずなのに・・・



まるで自分の口ではないようにこの口が勝手に動き出した。



「佐伯さんには分からないよ。
どんなに努力しても報われない人間の気持ちなんて、佐伯さんには絶対に分からない。」
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