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第9話 筆子の家に行く。
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僕たち五年二組の担任は前田みのり先生だった。
三年生のときにも習っていた先生だ。三十歳ちょっと前ぐらいの優しい女の先生。
ホームルームの時間に、彼女が自分の魔法について語ったことがあった。
「私の魔法は飛行魔法なの。古めかしい魔女みたいな魔法よ。空を飛ぶの」
そう言って、先生は三階の窓から飛び出し、ゆっくりと空を飛んで、また窓から教室に戻ってきた。
「歩くぐらいのスピードでしか飛べないの。この魔法が就職に役立つとは先生には思えなかった。だから真面目に勉強して教員免許を取り、教師になったの。魔法の時代だからと言って、勉強をおろそかにしてはいけませんよ。魔法も大事だけど、勉強だって大切なの」
その話を筆子は身を乗り出して聞いていた。感銘を受けたのか、四月中、彼女はみのり先生の授業に集中していた。しかし五月になると力尽きたのか、また授業中ときどき絵を描くようになった。僕はそのようすを見ていた。彼女が我慢できずに再び落書きを始めたとき、僕はちょっと愉快だった。思わず笑ってしまうほどだった。それでこそ筆子だ、と思った。
彼女は漫画を描き続けていた。
休み時間はずっと。授業中に教科書を立てて隠して描くこともあった。先生は気づいていたと思う。筆子を見て苦笑いしていることがあったから。
「家でも描いているの?」と僕は聞いた。
「うん」
まぁそうだろうな、と思った。家では描きたい放題だろう。どれほど熱心に描いているのか興味があった。
「ねぇ、冬月さんの家に行ってもいい?」
「えっ?」
筆子はすごく驚いていた。
「か、春日井くんが、わたしの家に?」
「うん。だめかな?」
「い、いいけど……。友だちが……家に来るなんて、初めて……」
友だち、と彼女は言った。そうか、僕は筆子の友だちなんだ、と思った。少し嬉しかった。
「な、なにかして、遊ぶの……?」
「冬月さんは漫画を描いていればいいよ。特に何かしてくれなくてもいいから」
「そ、それでいいの……?」
「うん。それでいいんだ。きみが漫画を描いているところを見たいんだ」
「そ、そんなの、おもしろくないと思うけど……」
筆子は不思議そうに僕を見ていた。
僕は単純に彼女が家でどれほど描きまくっているのか見てみたいのだ。でもそれは女の子の家を訪れるには、変な理由かもしれない。
「僕も絵を描いて遊ぶよ」と僕は言った。「それとさ、冬月さんが描いてる野球漫画の続きを読みたい」
「う、うん。いいよ……」
そういうわけで、放課後、僕と筆子は連れ立って彼女の家に行った。途中で夕食を買いたいと言って、彼女はコンビニに寄り、おにぎりとサンドイッチを購入した。
筆子は隅田川沿いに建つマンションの五階に住んでいた。
彼女の親は不在だった。確か以前、両親ともに帰りが遅い、と言っていた。
「お父さんもお母さんも忙しいの?」
「うん。お父さんは雑誌の編集をしているの……。速記魔法が使えて、いろんな人のインタビューをして記事を書いて、いつも締め切りに追われてるって言ってた……。わたしが眠った後、夜遅くに帰ってくる。会社に泊まることもある……」
「お母さんは?」
「お、お母さんは、ちょっと特殊な魔法の持ち主なの……。無痛魔法って言って、苦しんでいる人の手を握ってあげると、その人の苦痛が除かれて、安らかな気持ちになれるの。全国の難病の人とか、死にかけている人とかを訪問して、手を握ってあげるのが使命なんだって言ってる。ほとんど家に帰ってこない……」
それは素晴らしい使命かもしれないけど、筆子がかわいそうだな、と思った。
「わたしはおこづかいをもらって、ごはんを食べてる……。前に言ったと思うけど、絵を描きたいから、おにぎりとかハンバーガーなんかで済ませることが多い……」
まだそんな食生活を続けているのか。
「ちゃんとした栄養を取らないと身体に悪いよ」と今度は言った。
「うん。気をつける。なるべく別のものも食べるね。コンビニにもいろいろ売ってるし……」
それでもコンビニなのかよと思ったが、それ以上介入するのはやめた。
彼女は僕のために冷蔵庫からオレンジジュースを出し、コップに注いでくれた。「飲んで」と言って渡し、自分は漫画を描き始めた。ノートに向かうと彼女は無言になり、休むことなく手を動かし続けた。僕のことなんて少しも気にしていないようだった。すごい集中力だな、と思った。
何も会話をせず、筆子は描き、僕は彼女の執筆のようすを見入っていた。やっぱり上手になっているな、と思った。ヒロインがかわいく描けているし、他のキャラクターの顔との描き分けもできている。
想像したとおり、一心不乱といった感じで筆子は描いていた。
「描きためてる漫画を見せてよ」と僕は頼んだ。
筆子の野球漫画はノート三冊めに入っていた。一冊めと二冊めを渡してくれた。
「下手で恥ずかしいけど……」
「前よりずっと上手になってるよ」
「ほんと?」筆子の前髪が揺れて、嬉しそうに輝く瞳が見えた。彼女が笑顔を見せると、本当にかわいい。
僕は「完全試合!」という彼女の漫画を読んだ。やっぱりおもしろい、と思った。ヒロインはさまざまな障壁を乗り越え、ついにエースの座を得て、他校との試合に臨もうとしていた。続きが読みたくなる展開だった。筆子は物語を作る才能を持っているようだ。
絵も一冊めより二冊め、そしてさらに今描いている三冊めの方がうまくなっていた。彼女は着実に上達を続けている。
凄い。
なんだか焦りを感じた。
僕は写真のような絵しか描けない。魅力的なキャラクターをデザインすることなんてできない。僕より筆子の方が絵がうまいんだ、とそのとき感じた。
僕はスケッチブックを広げ、ユニフォームを着た野球少女の絵を描いた。筆子の漫画のヒロインを描いたつもりだった。彼女のオリジナルよりずっとしっかり人体が描けている。でも何か足りず、魅力がなかった。
「うわーっ、うまーい!」筆子がその絵を見て言った。
「いや、これはだめだよ。どうすればいいのかわからないけど、だめなことだけはわかる」
「そうかなぁ」
「キャラになってない。魅力がない」
「確かに漫画の絵じゃないかも……」
会話が途切れ、筆子はまた漫画描きに戻った。
僕はスケッチブックに「完全試合!」の主人公を何度か描いた。筆子の絵の模写ではなく、ちゃんとした人体を持つ僕なりのキャラにアレンジして。ヒロインの表情が硬い。どうしても写実的になってしまって、確かに漫画らしさがなかった。
僕も漫画を描いてみようか、と考えた。何を描こう。
ストーリーなんて、何も思いつかなかった。特に描きたいものもなかった。
「わたし、漫画家になりたいんだ」とそのとき筆子が言った。
「……っ!」
僕は彼女を見て息を飲んだ。
衝撃を受けた。そのときの僕の衝撃をなんと表現すればいいのかわからない。
僕は絵画魔法使いで、将来その能力を使って仕事をするべきなのだ。でもどんな仕事をしたいかなんて全然考えていなかった。そして、絵を描くのが好きじゃない。
僕の魔法は、まったくの無駄だ、と思った。筆子が絵画魔法を持っていた方が、ずっと意味があった。
「そうなんだ……」
「うん。でも絵が下手でめげる……」
めげているのは僕の方だった。このまま描き続けていれば、筆子はもっとうまくなる。プロの漫画家になれるかもしれない。僕はどうすればいいのだろう。
このままじゃ僕はだめだ、と思った。
どうすればいいのかわからなかったけど、だめなことだけはわかった。
三年生のときにも習っていた先生だ。三十歳ちょっと前ぐらいの優しい女の先生。
ホームルームの時間に、彼女が自分の魔法について語ったことがあった。
「私の魔法は飛行魔法なの。古めかしい魔女みたいな魔法よ。空を飛ぶの」
そう言って、先生は三階の窓から飛び出し、ゆっくりと空を飛んで、また窓から教室に戻ってきた。
「歩くぐらいのスピードでしか飛べないの。この魔法が就職に役立つとは先生には思えなかった。だから真面目に勉強して教員免許を取り、教師になったの。魔法の時代だからと言って、勉強をおろそかにしてはいけませんよ。魔法も大事だけど、勉強だって大切なの」
その話を筆子は身を乗り出して聞いていた。感銘を受けたのか、四月中、彼女はみのり先生の授業に集中していた。しかし五月になると力尽きたのか、また授業中ときどき絵を描くようになった。僕はそのようすを見ていた。彼女が我慢できずに再び落書きを始めたとき、僕はちょっと愉快だった。思わず笑ってしまうほどだった。それでこそ筆子だ、と思った。
彼女は漫画を描き続けていた。
休み時間はずっと。授業中に教科書を立てて隠して描くこともあった。先生は気づいていたと思う。筆子を見て苦笑いしていることがあったから。
「家でも描いているの?」と僕は聞いた。
「うん」
まぁそうだろうな、と思った。家では描きたい放題だろう。どれほど熱心に描いているのか興味があった。
「ねぇ、冬月さんの家に行ってもいい?」
「えっ?」
筆子はすごく驚いていた。
「か、春日井くんが、わたしの家に?」
「うん。だめかな?」
「い、いいけど……。友だちが……家に来るなんて、初めて……」
友だち、と彼女は言った。そうか、僕は筆子の友だちなんだ、と思った。少し嬉しかった。
「な、なにかして、遊ぶの……?」
「冬月さんは漫画を描いていればいいよ。特に何かしてくれなくてもいいから」
「そ、それでいいの……?」
「うん。それでいいんだ。きみが漫画を描いているところを見たいんだ」
「そ、そんなの、おもしろくないと思うけど……」
筆子は不思議そうに僕を見ていた。
僕は単純に彼女が家でどれほど描きまくっているのか見てみたいのだ。でもそれは女の子の家を訪れるには、変な理由かもしれない。
「僕も絵を描いて遊ぶよ」と僕は言った。「それとさ、冬月さんが描いてる野球漫画の続きを読みたい」
「う、うん。いいよ……」
そういうわけで、放課後、僕と筆子は連れ立って彼女の家に行った。途中で夕食を買いたいと言って、彼女はコンビニに寄り、おにぎりとサンドイッチを購入した。
筆子は隅田川沿いに建つマンションの五階に住んでいた。
彼女の親は不在だった。確か以前、両親ともに帰りが遅い、と言っていた。
「お父さんもお母さんも忙しいの?」
「うん。お父さんは雑誌の編集をしているの……。速記魔法が使えて、いろんな人のインタビューをして記事を書いて、いつも締め切りに追われてるって言ってた……。わたしが眠った後、夜遅くに帰ってくる。会社に泊まることもある……」
「お母さんは?」
「お、お母さんは、ちょっと特殊な魔法の持ち主なの……。無痛魔法って言って、苦しんでいる人の手を握ってあげると、その人の苦痛が除かれて、安らかな気持ちになれるの。全国の難病の人とか、死にかけている人とかを訪問して、手を握ってあげるのが使命なんだって言ってる。ほとんど家に帰ってこない……」
それは素晴らしい使命かもしれないけど、筆子がかわいそうだな、と思った。
「わたしはおこづかいをもらって、ごはんを食べてる……。前に言ったと思うけど、絵を描きたいから、おにぎりとかハンバーガーなんかで済ませることが多い……」
まだそんな食生活を続けているのか。
「ちゃんとした栄養を取らないと身体に悪いよ」と今度は言った。
「うん。気をつける。なるべく別のものも食べるね。コンビニにもいろいろ売ってるし……」
それでもコンビニなのかよと思ったが、それ以上介入するのはやめた。
彼女は僕のために冷蔵庫からオレンジジュースを出し、コップに注いでくれた。「飲んで」と言って渡し、自分は漫画を描き始めた。ノートに向かうと彼女は無言になり、休むことなく手を動かし続けた。僕のことなんて少しも気にしていないようだった。すごい集中力だな、と思った。
何も会話をせず、筆子は描き、僕は彼女の執筆のようすを見入っていた。やっぱり上手になっているな、と思った。ヒロインがかわいく描けているし、他のキャラクターの顔との描き分けもできている。
想像したとおり、一心不乱といった感じで筆子は描いていた。
「描きためてる漫画を見せてよ」と僕は頼んだ。
筆子の野球漫画はノート三冊めに入っていた。一冊めと二冊めを渡してくれた。
「下手で恥ずかしいけど……」
「前よりずっと上手になってるよ」
「ほんと?」筆子の前髪が揺れて、嬉しそうに輝く瞳が見えた。彼女が笑顔を見せると、本当にかわいい。
僕は「完全試合!」という彼女の漫画を読んだ。やっぱりおもしろい、と思った。ヒロインはさまざまな障壁を乗り越え、ついにエースの座を得て、他校との試合に臨もうとしていた。続きが読みたくなる展開だった。筆子は物語を作る才能を持っているようだ。
絵も一冊めより二冊め、そしてさらに今描いている三冊めの方がうまくなっていた。彼女は着実に上達を続けている。
凄い。
なんだか焦りを感じた。
僕は写真のような絵しか描けない。魅力的なキャラクターをデザインすることなんてできない。僕より筆子の方が絵がうまいんだ、とそのとき感じた。
僕はスケッチブックを広げ、ユニフォームを着た野球少女の絵を描いた。筆子の漫画のヒロインを描いたつもりだった。彼女のオリジナルよりずっとしっかり人体が描けている。でも何か足りず、魅力がなかった。
「うわーっ、うまーい!」筆子がその絵を見て言った。
「いや、これはだめだよ。どうすればいいのかわからないけど、だめなことだけはわかる」
「そうかなぁ」
「キャラになってない。魅力がない」
「確かに漫画の絵じゃないかも……」
会話が途切れ、筆子はまた漫画描きに戻った。
僕はスケッチブックに「完全試合!」の主人公を何度か描いた。筆子の絵の模写ではなく、ちゃんとした人体を持つ僕なりのキャラにアレンジして。ヒロインの表情が硬い。どうしても写実的になってしまって、確かに漫画らしさがなかった。
僕も漫画を描いてみようか、と考えた。何を描こう。
ストーリーなんて、何も思いつかなかった。特に描きたいものもなかった。
「わたし、漫画家になりたいんだ」とそのとき筆子が言った。
「……っ!」
僕は彼女を見て息を飲んだ。
衝撃を受けた。そのときの僕の衝撃をなんと表現すればいいのかわからない。
僕は絵画魔法使いで、将来その能力を使って仕事をするべきなのだ。でもどんな仕事をしたいかなんて全然考えていなかった。そして、絵を描くのが好きじゃない。
僕の魔法は、まったくの無駄だ、と思った。筆子が絵画魔法を持っていた方が、ずっと意味があった。
「そうなんだ……」
「うん。でも絵が下手でめげる……」
めげているのは僕の方だった。このまま描き続けていれば、筆子はもっとうまくなる。プロの漫画家になれるかもしれない。僕はどうすればいいのだろう。
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