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ペンギン先生最終講義
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胡蝶の夢を読んでから、ペンギン先生は少しおかしい。
自分が鳥であるのか、人であるのかわからなくなった、などと言う。
胡蝶の夢は中国戦国時代の思想家、荘子が書いた。
「不知 周之夢爲胡蝶與 胡蝶之夢爲周與……」と先生はつぶやく。
僕は大学院に進んでいた。
専攻は文楽批評で、漢詩ではない。
だが、ペンギン先生に特別に許可を得て、五言絶句ゼミには参加させてもらっていた。
ときどきふたりで飲みに行く。
「わたしは鳥なのでしょうか、人なのでしょうか」
「先生は特別なペンギンですよ」
「南極で日本の夢を見ているだけなのかもしれないと思います」
先生はウイスキーのソーダ割りを飲んでいる。僕はオン・ザ・ロックで。
「先生は二足のわらじで疲れているんです」
ペンギン先生は大学教授だが、同時に小説家でもある。
鳥と人の切ない恋愛を描いた処女長編小説が大ヒットした。
「南極へ帰りたい……」と漏らすことも多くなった。
南極観測船しらせに乗って、一時帰郷することになった。
僕も同行した。
オーストラリア西部の美しい港町フリーマントルから船に乗せてもらった。
南極海航海。
やがて船は氷の大地にぶつかった。
ガリンガリンと砕氷して進む。
僕はあたたかい服を着て、先生は素肌のままで船首に立ち、微かに青みを帯びた氷の平原を見ていた。
「寒くないですか」
「寒いです。でも服を着たら、わたしはいよいよ鳥であることを忘れてしまうでしょう」
しらせは昭和基地に到着した。
あすか基地は、先生が救助されたときは活発に使われていたが、いまは無人で、気象観測のみを行っている。
先生と僕はヘリコプターでペンギンの居住地へ送ってもらうことになった。
空からコウテイペンギンの群れを発見し、少し離れたところに着陸した。
ヘリコプターから降りて、先生は群れへ向かって歩いていった。
僕はヘリコプターのそばに立ち、先生を見守っていた。
クアアアアと先生が呼びかけ、クアアアアと対面したペンギンが答えていた。
先生は何羽かのペンギンと話した。
群れの中に入った先生を、他のペンギンと見分けるのはむずかしかった。
やがて僕は先生を見失った。
一時間ほど待った。
ペンギンの群れと、南極の平原と、遠くに見える氷の山脈を見飽きることはなかった。ただ、かなり寒かった。ヘリコプターのパイロットは機内から出ようとはしなかった。
ペンギンの群れから一羽が歩み出てきた。
先生だった。
「あれはわたしの出身の群れでした。友達と会うこともできました」
先生は微笑んでいた。
「これからどうするんです」
「日本に帰りますよ。もう南極には来ません。わたしの心は鳥ではなく、人になっていました。それを確かめることができました」
日本への帰路、しらせに乗り、船尾から南極大陸を見ながら先生は言った。
「わたしは大学を辞めます。小説を書いて生きていきます」
ペンギン先生の最後の講義は大講堂で行われた。
席は満員で、通路に立つ学生も少なくなかった。
先生を演壇に乗せたのは僕だった。腰を抱いて、ひょいと持ちあげた。先生は演台まで歩いていった。
しばらく声もなく、先生は立ち尽くしていた。
「わたしは数奇な運命をたどったペンギンであると言っていいでしょう」
そんなふうに語り始めた。
「もう内容は憶えていないささいなことで友達とけんかをして、群れを飛び出しました。人に救われて、しばらくあすか基地に住み、その後水族館で暮らしました。学んで、学んで、学んで、水族館へ遊びに来た学長と知り合い、招かれてこの大学で教えることになりました。最初は特別講師でした」
「わたしは本に夢中になり、文学者を志しました。途中で文学は漢字を変えて文楽になりました。いまは文楽だろうが文学だろうがどちらでもよい、と思っています。どう呼ばれようとも小説は小説であり、詩は詩であります」
先生はときどき黙り込み、次になにを話すか考えているようだった。
その漆黒の瞳は潤んで光っていた。
「鳥と人とは言葉を介してわかりあうことができます。人と人は話しあってわかりあい、鳥と鳥もまた鳴き声を交わしてわかりあうことができます。人と鳥のちがいは、文字を持っているかいないかです。人は文字を使い、文章をつくり、遠く離れた人にも想いを伝えることができます。わたしは大学教授であることをやめ、小説家になることによって、より多くの人に想いを伝えたい」
満場の学生たちは耳をそばだてて、先生の言葉をひとことも聞き漏らすまいとしているようだった。
ペンギン先生の最後のライブだ。
この後、先生は文筆に集中し、推敲を重ねた研ぎ澄まされた文章を世に出していこうとしている。
「はあ、コウモリとはついにわかりあうことはできませんでしたね。あいつらは超音波が好きなんです。わたしには感知することができない。あいつらはにやにや笑って、わたしを無視して超音波を飛ばしあっていました」
話が脱線してきた。
「夕暮れどき、わたしは何回か河原へ行き、コウモリと意思疎通をはかろうとしました。哺乳類でありながら空を飛ぶ彼らに憧れていたんです。いまはもうその憧れはありません。わたしは言葉と文字を使って、鳥類と人類の架け橋になります。コウモリにはそんな意志はありません」
「南極はけがれなく、美しい。望郷の念にかられ、一時は心を病みました。自喩適志與 不知周也……。何度か氷の大地で生きている夢を見ました。それは悪い暮らしではなかった。楽しかった。しかし目が覚めると日本にいるのです。俄然覺 則蘧蘧然周也……。南極で生きることへの憧れはいまも消えてはいません。でもそれは憧れでしかない。わたしはもう日本の鳥です。このアスファルトの地に足をつけて生きていきます」
先生はまた黙り込んだ。
演壇に立つ先生を見るのはこれで最後。
僕は泣きそうになった。
「床前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷
詩仙と言われた李白の詩です。静夜思。李白の故郷への想い……」
「わたしは故郷を忘れることはありません。南極を想いながら、わたしを受け入れてくれた日本で生きて、ここに骨を埋めたいと思います。ご清聴ありがとうございました」
ペンギン先生の最終講義は幕を閉じた。
拍手はいつまでも鳴りやむことがなかった。
自分が鳥であるのか、人であるのかわからなくなった、などと言う。
胡蝶の夢は中国戦国時代の思想家、荘子が書いた。
「不知 周之夢爲胡蝶與 胡蝶之夢爲周與……」と先生はつぶやく。
僕は大学院に進んでいた。
専攻は文楽批評で、漢詩ではない。
だが、ペンギン先生に特別に許可を得て、五言絶句ゼミには参加させてもらっていた。
ときどきふたりで飲みに行く。
「わたしは鳥なのでしょうか、人なのでしょうか」
「先生は特別なペンギンですよ」
「南極で日本の夢を見ているだけなのかもしれないと思います」
先生はウイスキーのソーダ割りを飲んでいる。僕はオン・ザ・ロックで。
「先生は二足のわらじで疲れているんです」
ペンギン先生は大学教授だが、同時に小説家でもある。
鳥と人の切ない恋愛を描いた処女長編小説が大ヒットした。
「南極へ帰りたい……」と漏らすことも多くなった。
南極観測船しらせに乗って、一時帰郷することになった。
僕も同行した。
オーストラリア西部の美しい港町フリーマントルから船に乗せてもらった。
南極海航海。
やがて船は氷の大地にぶつかった。
ガリンガリンと砕氷して進む。
僕はあたたかい服を着て、先生は素肌のままで船首に立ち、微かに青みを帯びた氷の平原を見ていた。
「寒くないですか」
「寒いです。でも服を着たら、わたしはいよいよ鳥であることを忘れてしまうでしょう」
しらせは昭和基地に到着した。
あすか基地は、先生が救助されたときは活発に使われていたが、いまは無人で、気象観測のみを行っている。
先生と僕はヘリコプターでペンギンの居住地へ送ってもらうことになった。
空からコウテイペンギンの群れを発見し、少し離れたところに着陸した。
ヘリコプターから降りて、先生は群れへ向かって歩いていった。
僕はヘリコプターのそばに立ち、先生を見守っていた。
クアアアアと先生が呼びかけ、クアアアアと対面したペンギンが答えていた。
先生は何羽かのペンギンと話した。
群れの中に入った先生を、他のペンギンと見分けるのはむずかしかった。
やがて僕は先生を見失った。
一時間ほど待った。
ペンギンの群れと、南極の平原と、遠くに見える氷の山脈を見飽きることはなかった。ただ、かなり寒かった。ヘリコプターのパイロットは機内から出ようとはしなかった。
ペンギンの群れから一羽が歩み出てきた。
先生だった。
「あれはわたしの出身の群れでした。友達と会うこともできました」
先生は微笑んでいた。
「これからどうするんです」
「日本に帰りますよ。もう南極には来ません。わたしの心は鳥ではなく、人になっていました。それを確かめることができました」
日本への帰路、しらせに乗り、船尾から南極大陸を見ながら先生は言った。
「わたしは大学を辞めます。小説を書いて生きていきます」
ペンギン先生の最後の講義は大講堂で行われた。
席は満員で、通路に立つ学生も少なくなかった。
先生を演壇に乗せたのは僕だった。腰を抱いて、ひょいと持ちあげた。先生は演台まで歩いていった。
しばらく声もなく、先生は立ち尽くしていた。
「わたしは数奇な運命をたどったペンギンであると言っていいでしょう」
そんなふうに語り始めた。
「もう内容は憶えていないささいなことで友達とけんかをして、群れを飛び出しました。人に救われて、しばらくあすか基地に住み、その後水族館で暮らしました。学んで、学んで、学んで、水族館へ遊びに来た学長と知り合い、招かれてこの大学で教えることになりました。最初は特別講師でした」
「わたしは本に夢中になり、文学者を志しました。途中で文学は漢字を変えて文楽になりました。いまは文楽だろうが文学だろうがどちらでもよい、と思っています。どう呼ばれようとも小説は小説であり、詩は詩であります」
先生はときどき黙り込み、次になにを話すか考えているようだった。
その漆黒の瞳は潤んで光っていた。
「鳥と人とは言葉を介してわかりあうことができます。人と人は話しあってわかりあい、鳥と鳥もまた鳴き声を交わしてわかりあうことができます。人と鳥のちがいは、文字を持っているかいないかです。人は文字を使い、文章をつくり、遠く離れた人にも想いを伝えることができます。わたしは大学教授であることをやめ、小説家になることによって、より多くの人に想いを伝えたい」
満場の学生たちは耳をそばだてて、先生の言葉をひとことも聞き漏らすまいとしているようだった。
ペンギン先生の最後のライブだ。
この後、先生は文筆に集中し、推敲を重ねた研ぎ澄まされた文章を世に出していこうとしている。
「はあ、コウモリとはついにわかりあうことはできませんでしたね。あいつらは超音波が好きなんです。わたしには感知することができない。あいつらはにやにや笑って、わたしを無視して超音波を飛ばしあっていました」
話が脱線してきた。
「夕暮れどき、わたしは何回か河原へ行き、コウモリと意思疎通をはかろうとしました。哺乳類でありながら空を飛ぶ彼らに憧れていたんです。いまはもうその憧れはありません。わたしは言葉と文字を使って、鳥類と人類の架け橋になります。コウモリにはそんな意志はありません」
「南極はけがれなく、美しい。望郷の念にかられ、一時は心を病みました。自喩適志與 不知周也……。何度か氷の大地で生きている夢を見ました。それは悪い暮らしではなかった。楽しかった。しかし目が覚めると日本にいるのです。俄然覺 則蘧蘧然周也……。南極で生きることへの憧れはいまも消えてはいません。でもそれは憧れでしかない。わたしはもう日本の鳥です。このアスファルトの地に足をつけて生きていきます」
先生はまた黙り込んだ。
演壇に立つ先生を見るのはこれで最後。
僕は泣きそうになった。
「床前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷
詩仙と言われた李白の詩です。静夜思。李白の故郷への想い……」
「わたしは故郷を忘れることはありません。南極を想いながら、わたしを受け入れてくれた日本で生きて、ここに骨を埋めたいと思います。ご清聴ありがとうございました」
ペンギン先生の最終講義は幕を閉じた。
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