枯葉と帆船

みらいつりびと

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退屈で退屈で堪らないんだ

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 父が移住しないかと持ち掛けたアメリカ。イタリア人アメリゴ・ヴェスプッチが1506年に発見した大陸だ。今では祖国大英帝国の盛んな移住が行われている。ニューイングランド地方は、すでにかなり開けているという。が、その程度はこのロンドンとは比すべくもないだろう。人口はまだわずかで、その上危険な原住民との争いもあると聞いている。そこへ移住するということは大事件であった。
 町の商人の娘として何の波乱もなく育ったおとなしい母はほとんど父に反対することはなかった。しかしこの事ばかりは承服できなかった。猛反対した。そんな気まぐれには絶対賛成できないと!
 僕としても父の言葉が戯言としか思えなかった。一瞬雄大なアメリカを想い浮かべて、憧れに似た気持ちを抱きはしたが、実行することは不可能だと心の中で決めつけていた。しばらくして、父が真剣だとわかってきてからも、無理だという気持ちは変わらなかった。海を越えて遥か彼方にあるような土地は僕にはまるっきり無縁で、現実にあるものと頭ではわかっていても実感がわかなかった。妹にいたっては、インディアンが住んでいる土地だという知識しかない。そんなところに父はどんな魅力を感じたのか。
 また、アメリカへ移住した者の多くはパンを求めた労働者たちである。それを豊かとは言えないが、一定の生活水準を保っている僕ら家族がなぜ行く必要があるのか。
 しかし、やがて父が移住したがっている理由がわかった。
 僕が、夜中にふと目を覚ました時のことである。父と母の話し声が聞こえてきた。僕は隣のベッドで寝入っている妹を起こさないようベッドから這い出て、壁に聞き耳を立てた。
「だが、俺はこの生活が不満なんだ。退屈で退屈で堪らないんだ」いつになく激越な父の声。
「じゃあ、あなたは刺激を求めて植民地へ行くつもりなの」母は唖然としている様子だ。
「そうじゃない。それだけじゃないんだ、レズリー。俺はこんな役人なんか辞めて、父のように生きたい。アジニア会社が五十エーカーの土地をくれるんだ。それで……」
 この時僕は父の目的を知った。祖父はオックスフォードに住んでいて、農園でオレンジを育てていた。僕は両親に連れられて時々そこへ行ったが、何とも楽しい雰囲気なのだ。朝は早くから起きて、祖父も使用人たちも夕方まで農園に散って行く。そして水を撒いたり、害虫を落としたり、それこそ泥だらけ、汗びっしょりになって働くのだ。それでも、皆優しくて、僕がオレンジの樹の間を縫って近づくと、気がついて真っ黒なごつごつした手で頭を撫でてくれる。また、もう疲れたまいったという顔で木陰に倒れている祖父に寄って行くと、おいでおいでをして僕を呼び、太ももの上によいしょと乗せて、森の悪魔の話やお城の地下室の怪談などをしてくれたものだ。
 夜はまたすばらしかった。上でダンスができそうな大きなテーブルを十数人で囲み、祖母が料理したポタージュや新鮮なサラダ、分厚いステーキ、焼きたてのパンを食べるディナーはとても楽しいものだった。皆の口から飛び出すジョークは幼い僕には理解できなくとも、心を浮き立たせた。そんな生活をしたい、と父は言うのだ。
 残念ながら、祖父の農園は投資の失敗により今はない。
 しかし、移住したいという父をなんという空想家なのだろう、と僕は思わざるを得なかった。そんな甘い考えでアメリカ移住が成功するとは思えない。なるほどアメリカでも親しい人間関係、働く喜びは得られるかもしれない。だが、父にフロンティアスピリットはあるのだろうか。アメリカは祖父の農園のように環境がよく、労働者も優しいという理想的な状態であるわけがない。新大陸へ行くことは、農民になることの前に開拓者になることなのだ。
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