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別離の時間
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夜明けにはまだ時間がある。カーテンの取り外されている窓からひっそりと寝静まった町を見る。夜の闇はしつこく世界を覆い続けている。しかし、そろそろ明るくなってくるだろう。
家の中はがらんとしている。父の部屋に重苦しく置かれていた漆黒の本棚も、母が嫁入り道具のひとつとして持って来た明るいベージュのタンスもなくなっている。父のただひとつの趣味で、集めて来た絵画の数々、そして僕が入学のプレゼントとして買ってもらった机もない。床に長い間敷いてあった赤い絨毯も。
すべて売り払ったのだ。新大陸へ旅立つためにまとまった金が必要だったからである。もっとも大部分が二束三文だった。多少とも金になったのは絵画だけ。そして一昨日、かなり時代ものだが、土台のしっかりしたこの家も買い手との交渉がまとまり、代金を受け取った。
まだここに残っていたい気持ちはある。だが、事ここに至ってはどうしようもなかった。
「ロナルド」母が僕を呼んだ。「アイリーンを起こして来て」
僕は黙って階段を登ると、左手の寝室に入った。幼い妹は毛布にくるまって、床に転がっている。彼女の寝顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃん」妹は薄目を開けた。「もう行くの」
「ああ……」妹が目をこするのを見つめながら答えた。「さあ、起きて!」
危なっかしい足取りの妹を連れて階下へ降りると、両親はすばやく服装を整えていた。ふたりとも地味な服で父はグレイ、母はブラウンである。僕も身支度をすませなければと思って、鞄の中から上着を引っ張り出した。
馬のいななきが聞こえる。ニールスが馬車の用意をしているのだろう。
妹は母に服を着せてもらっていた。けれども、それがいかにも嫌そうで、自分でやるとただをこねた。そして、母から濃紺のスカートを奪って、一所懸命はこうとした。僕は彼女がちゃんとはけるかどうか見届けずに、洗面室へ行った。
「早く」父がせかす。「十分もしたら出るぞ!」
「旦那様」今度はニールスの低い声だ。窓の外から聞こえる。
「馬車はすぐにでも出せるようになりました。荷物をお運びいたしましょうか」
「いや、必要ない。自分たちで持つさ。アイリーン、着替えはすんだか」
妹はイエスと返事をした。僕もすませていた。父は頷くと、部屋をゆっくり見回した。彼はもう一度頷き、玄関を開けた。僕らは外に出た。
ぞくっとするような夜明け前の外気。そいつがすっと僕のからだを通り抜ける。ぶるるっと震えた。妹も寒がっていた。
「寒い! それにまだ夜よ、パパ。夜が明けてから出発しましょうよ」
彼女は父の裾を引っ張った。
父は苦笑して妹を抱き上げ、背中をさすってやった。
僕ははぁっと息で手のひらを暖めた。それからその手でちぎれそうな耳を包んで寒さを癒した。吐く息が凍ってしまうのではないかと思えた。
背後から小さくカッカッカッという蹄の音が聴こえた。振り返ると、ニールスが馬車を操っていた。
「乗ってください」
僕の心がわずかに抵抗した。乗りたくない。もう少し別離の時間を!
しかし両親も妹もニールスに勧められるまま、すぐ乗り込んだ。
「お兄ちゃん」
仕方がない。なおも名残惜しく家を仰ぎ見てから、僕は馬車に乗った。
ニールスは馭者席から僕たちを見守っていた。おもむろに進み始めた。半球形をした一市民のものとしては珍しい屋根を持つ僕らの家はすぐ闇に吸い込まれてしまった。妹は身を乗り出し、悲しそうな目で家の方を見つめ続けている。闇で何も見えない筈だ。
家の中はがらんとしている。父の部屋に重苦しく置かれていた漆黒の本棚も、母が嫁入り道具のひとつとして持って来た明るいベージュのタンスもなくなっている。父のただひとつの趣味で、集めて来た絵画の数々、そして僕が入学のプレゼントとして買ってもらった机もない。床に長い間敷いてあった赤い絨毯も。
すべて売り払ったのだ。新大陸へ旅立つためにまとまった金が必要だったからである。もっとも大部分が二束三文だった。多少とも金になったのは絵画だけ。そして一昨日、かなり時代ものだが、土台のしっかりしたこの家も買い手との交渉がまとまり、代金を受け取った。
まだここに残っていたい気持ちはある。だが、事ここに至ってはどうしようもなかった。
「ロナルド」母が僕を呼んだ。「アイリーンを起こして来て」
僕は黙って階段を登ると、左手の寝室に入った。幼い妹は毛布にくるまって、床に転がっている。彼女の寝顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃん」妹は薄目を開けた。「もう行くの」
「ああ……」妹が目をこするのを見つめながら答えた。「さあ、起きて!」
危なっかしい足取りの妹を連れて階下へ降りると、両親はすばやく服装を整えていた。ふたりとも地味な服で父はグレイ、母はブラウンである。僕も身支度をすませなければと思って、鞄の中から上着を引っ張り出した。
馬のいななきが聞こえる。ニールスが馬車の用意をしているのだろう。
妹は母に服を着せてもらっていた。けれども、それがいかにも嫌そうで、自分でやるとただをこねた。そして、母から濃紺のスカートを奪って、一所懸命はこうとした。僕は彼女がちゃんとはけるかどうか見届けずに、洗面室へ行った。
「早く」父がせかす。「十分もしたら出るぞ!」
「旦那様」今度はニールスの低い声だ。窓の外から聞こえる。
「馬車はすぐにでも出せるようになりました。荷物をお運びいたしましょうか」
「いや、必要ない。自分たちで持つさ。アイリーン、着替えはすんだか」
妹はイエスと返事をした。僕もすませていた。父は頷くと、部屋をゆっくり見回した。彼はもう一度頷き、玄関を開けた。僕らは外に出た。
ぞくっとするような夜明け前の外気。そいつがすっと僕のからだを通り抜ける。ぶるるっと震えた。妹も寒がっていた。
「寒い! それにまだ夜よ、パパ。夜が明けてから出発しましょうよ」
彼女は父の裾を引っ張った。
父は苦笑して妹を抱き上げ、背中をさすってやった。
僕ははぁっと息で手のひらを暖めた。それからその手でちぎれそうな耳を包んで寒さを癒した。吐く息が凍ってしまうのではないかと思えた。
背後から小さくカッカッカッという蹄の音が聴こえた。振り返ると、ニールスが馬車を操っていた。
「乗ってください」
僕の心がわずかに抵抗した。乗りたくない。もう少し別離の時間を!
しかし両親も妹もニールスに勧められるまま、すぐ乗り込んだ。
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仕方がない。なおも名残惜しく家を仰ぎ見てから、僕は馬車に乗った。
ニールスは馭者席から僕たちを見守っていた。おもむろに進み始めた。半球形をした一市民のものとしては珍しい屋根を持つ僕らの家はすぐ闇に吸い込まれてしまった。妹は身を乗り出し、悲しそうな目で家の方を見つめ続けている。闇で何も見えない筈だ。
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