上 下
35 / 46

賈詡文和

しおりを挟む
 賈詡は、不眠不休で働いた。
 南征の軍師。曹操に召し抱えられて、ついにもらった大役である。
 荊州と揚州の攻略を果たせば、中国全土の平和が見えてくる。
 主に喜ばれ、天下万民を救うことができる。やりがいがある。いくらでも働くことができた。

 賈詡文和は、147年、涼州武威郡姑臧県生まれ。
 孝廉に選ばれ、洛陽に出仕した。
 董卓時代、世の乱れを憂いながらも、官僚の仕事を淡々とこなしつづけた。 
 
 董卓が王允と呂布に暗殺されたとき、司隷弘農郡陝県で軍務についていた。ともにいたのが、李傕と郭汜。
「我らはどうすればよいのだ。呂布に殺されるのを待つしかないのか」
 李傕に相談され、賈詡は長安急襲作戦を授けた。頼られると、助けてしまう性格だった。

 献帝が許都へ移った頃、荊州南陽郡で勢力のあった張繡の招きに応じた。
 強大な曹操と敵対した張繡を補佐し、宛城の戦いで勝たせた。
 有能で、主に忠実。
 賈詡は董卓、李傕、段煨、張繡、曹操と主君を変えてきたが、呂布のような裏切りをしたことはない。常に誠実であろうとしながら、むずかしい時代を生き抜いてきた。
 曹昂を死なせた策士なのに、曹操に重用されている。清廉で魔術的というめったにいないタイプの天才である。

 ちなみに張繡は、賈詡とともに降伏した後、曹操に重く遇された。
 官渡の戦いで戦功があり、破羌将軍に任じられたが、207年に惜しくも戦陣で病没している。

 曹操から南征作戦を託され、賈詡は地図を睨んでいる。
 作戦とは、突き詰めれば、軍隊の進路を決めることと言えるかもしれない。
 むろん軍事には、いろいろな要素がある。兵士の動員、将軍や将校の選任、諜報、戦術、兵站……。
 しかしすべては軍を進め、敵を倒すことに集約される。

 今回は、官渡以上の大作戦である。
 攻略目標は劉表と孫権。
 進路を想定しなければならない。
 戦況によっていくらでも臨機応変できるようにしながら、理想の進軍経路を描いておくのである。
 賈詡はさまざまな情報を集め、分析し、曹操軍の行路を考えた。
 許都、新野、襄陽、江陵、烏林、柴桑、建業と進めばよいであろう、とイメージをまとめあげた。
 その理想進路を曹操に伝えた。

「許都に五十万の兵を集め、出発します。南陽郡に入り、新野県の劉備を蹴散らします」
 曹操は、賈詡が丞相執務室に持ってきた地図をのぞき込んだ。
「南郡襄陽県へ進み、劉表軍と決戦します」
 丞相がうなずくのを見ながら、説明していく。
「荊州軍に勝利した後、南郡江陵県に進出し、兵站基地と水軍基地を設置します」
「うむ……その先へ進むと、孫権の領土に入っていくな……」
「はい。われらは陸路と水路にわかれて進み、長江北岸の烏林に陣を敷きます。おそらく孫権軍は、南岸の赤壁に陣取るでしょう。そこが最初の水戦場となります」
「烏林と赤壁か。南郡、江夏郡、長沙郡の境界だな」
「そこで敵水軍を撃滅します。その後、豫章郡柴桑を落とし、最後に孫権の本拠地、丹陽郡建業へ至ります」
「そう進めれば、理想的だ……」
 曹操がつぶやいた。予定進路は承認された、と賈詡は思った。
「賈詡、これはそなたにだけ言うのだが……」
 賈詡はごくりとつばを飲み込んだ。
「今回はできるだけ死者を出したくないと思っておる。劉表と孫権を、戦わずに降伏させたい」
「私もそうなればよいと思っています。そのためには、大いなる圧力をかけなければなりません」
「そうだ。五十万の大軍で……」
 賈詡の心は歓喜でいっぱいになった。
 丞相は、戦わずに勝つことをめざしておられる。素晴らしい。
 荀彧殿は苦労しているだろうが、どうしても大兵力が必要だ……!
 賈詡は進路を描いた地図を曹操に進呈し、一礼して、部屋を出た。

 曹操と参謀たちが打ち合わせ、六月に兵を許都に集めることになった。
 そして、曹操は諸将を集め、遠征に連れていく参謀と将軍を発表した。
 賈詡、荀攸、曹仁、曹純、夏侯淵、楽進、于禁、徐晃、張遼、許褚、張郃、李典、朱霊、牛金、臧覇。
 八州の治安との兼ね合いで、優秀な将を全員連れていくわけにはいかない。
「大事な作戦である。選ばれた者に奮闘を期待する。任地に残る者にも、大切な役目がある。私の留守をよろしく頼む」などと曹操は演説した。
 最後に「郭嘉を連れていきたかった……」と言った。
 私が彼の分も働きます、と賈詡は誓った。 

 出陣に至るまで、やるべき仕事はいくらでもあった。
 賈詡は働きつづけ、ある日、倒れた。
 気がついたとき、華佗が寝台の横にいた。
「華佗殿……私は……」
「ただの過労です。ゆっくりと休んでいたら治りますよ。心配はいりません」
「休んでなどいられない。私にはやらなくてはならないことが山ほどあるのだ」
「だめです。過労に過労を重ねては、本当に重病になってしまいます。出陣できなくなりますよ」
「そうか……」
 賈詡は天井を見た。見慣れた自宅の天井だった。
「賈詡様、今度の戦場は南方だそうですね」
「ああ……」
 ぼんやりと答えた。医者に作戦を伝えるわけにはいかない。
「華北の兵に南方で無理をさせると、疫病が流行る怖れがあります」
「えっ……」
「くれぐれもご注意なさってください」
 華佗は薬を置いて、部屋から出ていった。
 疫病という言葉が、賈詡の脳内で反響していた。 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

劉禅が勝つ三国志

みらいつりびと
歴史・時代
中国の三国時代、炎興元年(263年)、蜀の第二代皇帝、劉禅は魏の大軍に首府成都を攻められ、降伏する。 蜀は滅亡し、劉禅は幽州の安楽県で安楽公に封じられる。 私は道を誤ったのだろうか、と後悔しながら、泰始七年(271年)、劉禅は六十五歳で生涯を終える。 ところが、劉禅は前世の記憶を持ったまま、再び劉禅として誕生する。 ときは建安十二年(207年)。 蜀による三国統一をめざし、劉禅のやり直し三国志が始まる。 第1部は劉禅が魏滅の戦略を立てるまでです。全8回。 第2部は劉禅が成都を落とすまでです。全12回。 第3部は劉禅が夏候淵軍に勝つまでです。全11回。 第4部は劉禅が曹操を倒し、新秩序を打ち立てるまで。全8回。第39話が全4部の最終回です。

劉備が勝つ三国志

みらいつりびと
歴史・時代
劉備とは楽団のような人である。 優秀な指揮者と演奏者たちがいるとき、素晴らしい音色を奏でた。 初期の劉備楽団には、指揮者がいなかった。 関羽と張飛という有能な演奏者はいたが、彼らだけではよい演奏にはならなかった。 諸葛亮という優秀なコンダクターを得て、中国史に残る名演を奏でることができた。 劉備楽団の演奏の数々と終演を描きたいと思う。史実とは異なる演奏を……。 劉備が主人公の架空戦記です。全61話。 前半は史実寄りですが、徐々に架空の物語へとシフトしていきます。

幕府海軍戦艦大和

みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。 ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。 「大和に迎撃させよ!」と命令した。 戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

処理中です...