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袁氏の没落
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曹操とは何者なのか。
彼の事績を追っていると、後漢末期最高の偉人か、希代の悪漢かわからなくなってくる。
綺羅星のごとき人材を集め、皇帝を招き、袁紹を倒して、ついに天下第一の人物となった。
しかし、徐州で大虐殺をし、官渡で捕虜を穴埋めにするなど、非人道的な大量虐殺を行っている。
まるで二重人格者のようである。
小説の主人公としては、まことに捉えがたいキャラクター。
チンギスカンは世界史の英雄であるが、征服行の過程で、族滅、都市皆殺しなどの無数の虐殺をした。
一時期ドイツの英雄であったアドルフ・ヒトラーは語るまでもない。
英雄とは、二面性を持つものなのかもしれない。
さて、袁紹は官渡で大敗し、鄴へ撤退したが、まだ余力を保っている。
曹操は彼を司隷から追い返したにすぎず、華北四州はいまだに袁紹のものである。
しかし帰還早々、失策をした。
投獄していた田豊を殺してしまったのである。
「やつは獄中で、殿の敗北を笑っています」という逢紀の讒言を真に受けた。
逢紀もすぐれた頭脳を持つ参謀だが、田豊とは不仲だった。優秀な人物が内部を攻撃すると、悲劇が生まれる。
沮授と田豊という珠玉のような人が死んだ。
袁紹や郭図、逢紀らのことを考えると、人間とはなんと嫌なものかと憂鬱になる。
讒言を嘘と見抜けず、田豊を処刑する袁紹には、さわやかさの欠片もない。
「彼に笑われても仕方がない。急いで戦った私がまちがっていたのだ。獄から出してやらなくては」
そう言える大器なら、人生大逆転も可能であっただろうが……。
曹操は多忙である。
官渡から許都へ帰ってきて休む間もなく、汝南へ進軍した。劉備を討つためである。
曹仁とは戦った劉備だが、曹操との直接対決に勝ち目はないと見て、さっさと荊州へ遁走し、劉表のもとに身を寄せた。
201年には、袁紹軍が再起をかけて南下し、倉亭の戦いが勃発した。
三十万の大軍を率い、戦いを主導したのは、袁紹の三男、袁尚。彼は緒戦で曹操軍の先鋒、史渙を戦死させた。
程昱が十面埋伏の計を起案し、反撃する。曹操は黄河の前に背水の陣を敷いて敵軍を誘引し、高覧、于禁、徐晃、張郃、曹洪、夏侯淵、楽進、李典、張遼、夏候惇が伏兵となって戦った。
十将の波状攻撃にさらされて、袁紹はまたしても敗れた。202年、失意のうちに病死する。
晩年の袁紹には冴えがまったくない。後継者を決めていなかった。
長男の袁譚と末子の袁尚の間で、跡目争いが起こった。前者を郭図、辛評らが推し、後者には審配、逢紀らが付いた。
袁紹の本拠地だった鄴は袁尚が受け継いだ。袁譚は青州から冀州へ進軍し、鄴の南方、黎陽に駐屯した。
両者は戦端を発し、袁譚軍は袁尚派の逢紀を殺した。
この混乱に乗じて、曹操は黎陽を攻撃する。袁氏の仇敵を前にして、袁譚軍と袁尚軍は連合して戦った。
曹操が一気に袁兄弟を葬り去ったなら、話はわかりやすいが、そこまで単純ではない。
兄と弟は敵対したり結びついたりしながら、曹操に抵抗をつづけた。
203年、曹操は魏郡南部の黎陽県、陰安村などを占領し、鄴へ進軍したが、袁尚軍はこれを撃退し、許都へ退却させている。歴史は直線的に進むものではない。紆余曲折する。
袁紹の次男、袁煕は袁尚に味方して、鄴に住んでいた。
彼には玉肌花貌と言われた美しい妻がいた。後に魏の皇后となる甄氏である。
204年の鄴攻撃には、曹操の息子、曹丕が参戦していた。鄴城が陥落したとき、彼は城内で甄氏を見初め、許都へ連れ帰って妻にした。
この経緯から、袁煕が魏の二代皇帝曹叡の実父ではないかという説がある。
曹叡には祖父の曹操に似た軍事の才能があったから、真実ではないであろう。
袁譚は205年に戦死した。
その年、冀州勃海郡南皮県で曹操軍にいったんは勝利したが、その後大敗し、曹仁の弟、曹純に斬首された。
袁譚が曹操や袁尚とそれなりに戦えたのは、郭図が補佐していたからである。沮授や田豊などへの敵愾心に囚われていなければ、本当に優秀だった。彼は袁譚とともに死んだ。妻子も一緒に捕らえられ、処刑されたという。
袁尚と袁煕は逃げに逃げた。
北方異民族の烏桓王蹋頓を頼り、幽州遼西郡へ逃亡。ここで白狼山の戦いを起こした。
このときの曹操の軍師は郭嘉であった。
「軍事は神速を尊びます」と助言し、強行軍を押し通して、蹋頓軍を奇襲し、烏桓王を敗死させた。
過酷な行軍で、郭嘉は健康を損なった。
袁兄弟はさらに逃げ、遼東郡太守の公孫康のもとへ落ち延びた。
ここで命運が尽きる。曹操と対立することを怖れた公孫康は、袁尚と袁煕の首を斬り、許都へ送った。207年のことである。
同年、郭嘉が病死した。享年三十八。
曹操の参謀の中では一番若く、将来を期待されていた。
「奉孝の死が哀しい、奉孝の死が痛ましい、奉孝の命が惜しい」と曹操は嘆き悲しんだ。
葬儀のとき、荀攸らに向かって「諸君はみな、私と同年代だ。郭嘉ひとりが若かった。私の死後、彼に後事を託すつもりだった」とも語った。
郭嘉は「華北四州の名士を集め、重く遇してください」と占領政策の指針を言い残している。
曹操は兗州牧の地位を返上し、冀州牧に転じた。華北統治を重視していた証拠である。
彼の事績を追っていると、後漢末期最高の偉人か、希代の悪漢かわからなくなってくる。
綺羅星のごとき人材を集め、皇帝を招き、袁紹を倒して、ついに天下第一の人物となった。
しかし、徐州で大虐殺をし、官渡で捕虜を穴埋めにするなど、非人道的な大量虐殺を行っている。
まるで二重人格者のようである。
小説の主人公としては、まことに捉えがたいキャラクター。
チンギスカンは世界史の英雄であるが、征服行の過程で、族滅、都市皆殺しなどの無数の虐殺をした。
一時期ドイツの英雄であったアドルフ・ヒトラーは語るまでもない。
英雄とは、二面性を持つものなのかもしれない。
さて、袁紹は官渡で大敗し、鄴へ撤退したが、まだ余力を保っている。
曹操は彼を司隷から追い返したにすぎず、華北四州はいまだに袁紹のものである。
しかし帰還早々、失策をした。
投獄していた田豊を殺してしまったのである。
「やつは獄中で、殿の敗北を笑っています」という逢紀の讒言を真に受けた。
逢紀もすぐれた頭脳を持つ参謀だが、田豊とは不仲だった。優秀な人物が内部を攻撃すると、悲劇が生まれる。
沮授と田豊という珠玉のような人が死んだ。
袁紹や郭図、逢紀らのことを考えると、人間とはなんと嫌なものかと憂鬱になる。
讒言を嘘と見抜けず、田豊を処刑する袁紹には、さわやかさの欠片もない。
「彼に笑われても仕方がない。急いで戦った私がまちがっていたのだ。獄から出してやらなくては」
そう言える大器なら、人生大逆転も可能であっただろうが……。
曹操は多忙である。
官渡から許都へ帰ってきて休む間もなく、汝南へ進軍した。劉備を討つためである。
曹仁とは戦った劉備だが、曹操との直接対決に勝ち目はないと見て、さっさと荊州へ遁走し、劉表のもとに身を寄せた。
201年には、袁紹軍が再起をかけて南下し、倉亭の戦いが勃発した。
三十万の大軍を率い、戦いを主導したのは、袁紹の三男、袁尚。彼は緒戦で曹操軍の先鋒、史渙を戦死させた。
程昱が十面埋伏の計を起案し、反撃する。曹操は黄河の前に背水の陣を敷いて敵軍を誘引し、高覧、于禁、徐晃、張郃、曹洪、夏侯淵、楽進、李典、張遼、夏候惇が伏兵となって戦った。
十将の波状攻撃にさらされて、袁紹はまたしても敗れた。202年、失意のうちに病死する。
晩年の袁紹には冴えがまったくない。後継者を決めていなかった。
長男の袁譚と末子の袁尚の間で、跡目争いが起こった。前者を郭図、辛評らが推し、後者には審配、逢紀らが付いた。
袁紹の本拠地だった鄴は袁尚が受け継いだ。袁譚は青州から冀州へ進軍し、鄴の南方、黎陽に駐屯した。
両者は戦端を発し、袁譚軍は袁尚派の逢紀を殺した。
この混乱に乗じて、曹操は黎陽を攻撃する。袁氏の仇敵を前にして、袁譚軍と袁尚軍は連合して戦った。
曹操が一気に袁兄弟を葬り去ったなら、話はわかりやすいが、そこまで単純ではない。
兄と弟は敵対したり結びついたりしながら、曹操に抵抗をつづけた。
203年、曹操は魏郡南部の黎陽県、陰安村などを占領し、鄴へ進軍したが、袁尚軍はこれを撃退し、許都へ退却させている。歴史は直線的に進むものではない。紆余曲折する。
袁紹の次男、袁煕は袁尚に味方して、鄴に住んでいた。
彼には玉肌花貌と言われた美しい妻がいた。後に魏の皇后となる甄氏である。
204年の鄴攻撃には、曹操の息子、曹丕が参戦していた。鄴城が陥落したとき、彼は城内で甄氏を見初め、許都へ連れ帰って妻にした。
この経緯から、袁煕が魏の二代皇帝曹叡の実父ではないかという説がある。
曹叡には祖父の曹操に似た軍事の才能があったから、真実ではないであろう。
袁譚は205年に戦死した。
その年、冀州勃海郡南皮県で曹操軍にいったんは勝利したが、その後大敗し、曹仁の弟、曹純に斬首された。
袁譚が曹操や袁尚とそれなりに戦えたのは、郭図が補佐していたからである。沮授や田豊などへの敵愾心に囚われていなければ、本当に優秀だった。彼は袁譚とともに死んだ。妻子も一緒に捕らえられ、処刑されたという。
袁尚と袁煕は逃げに逃げた。
北方異民族の烏桓王蹋頓を頼り、幽州遼西郡へ逃亡。ここで白狼山の戦いを起こした。
このときの曹操の軍師は郭嘉であった。
「軍事は神速を尊びます」と助言し、強行軍を押し通して、蹋頓軍を奇襲し、烏桓王を敗死させた。
過酷な行軍で、郭嘉は健康を損なった。
袁兄弟はさらに逃げ、遼東郡太守の公孫康のもとへ落ち延びた。
ここで命運が尽きる。曹操と対立することを怖れた公孫康は、袁尚と袁煕の首を斬り、許都へ送った。207年のことである。
同年、郭嘉が病死した。享年三十八。
曹操の参謀の中では一番若く、将来を期待されていた。
「奉孝の死が哀しい、奉孝の死が痛ましい、奉孝の命が惜しい」と曹操は嘆き悲しんだ。
葬儀のとき、荀攸らに向かって「諸君はみな、私と同年代だ。郭嘉ひとりが若かった。私の死後、彼に後事を託すつもりだった」とも語った。
郭嘉は「華北四州の名士を集め、重く遇してください」と占領政策の指針を言い残している。
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