32 / 46
袁氏の没落
しおりを挟む
曹操とは何者なのか。
彼の事績を追っていると、後漢末期最高の偉人か、希代の悪漢かわからなくなってくる。
綺羅星のごとき人材を集め、皇帝を招き、袁紹を倒して、ついに天下第一の人物となった。
しかし、徐州で大虐殺をし、官渡で捕虜を穴埋めにするなど、非人道的な大量虐殺を行っている。
まるで二重人格者のようである。
小説の主人公としては、まことに捉えがたいキャラクター。
チンギスカンは世界史の英雄であるが、征服行の過程で、族滅、都市皆殺しなどの無数の虐殺をした。
一時期ドイツの英雄であったアドルフ・ヒトラーは語るまでもない。
英雄とは、二面性を持つものなのかもしれない。
さて、袁紹は官渡で大敗し、鄴へ撤退したが、まだ余力を保っている。
曹操は彼を司隷から追い返したにすぎず、華北四州はいまだに袁紹のものである。
しかし帰還早々、失策をした。
投獄していた田豊を殺してしまったのである。
「やつは獄中で、殿の敗北を笑っています」という逢紀の讒言を真に受けた。
逢紀もすぐれた頭脳を持つ参謀だが、田豊とは不仲だった。優秀な人物が内部を攻撃すると、悲劇が生まれる。
沮授と田豊という珠玉のような人が死んだ。
袁紹や郭図、逢紀らのことを考えると、人間とはなんと嫌なものかと憂鬱になる。
讒言を嘘と見抜けず、田豊を処刑する袁紹には、さわやかさの欠片もない。
「彼に笑われても仕方がない。急いで戦った私がまちがっていたのだ。獄から出してやらなくては」
そう言える大器なら、人生大逆転も可能であっただろうが……。
曹操は多忙である。
官渡から許都へ帰ってきて休む間もなく、汝南へ進軍した。劉備を討つためである。
曹仁とは戦った劉備だが、曹操との直接対決に勝ち目はないと見て、さっさと荊州へ遁走し、劉表のもとに身を寄せた。
201年には、袁紹軍が再起をかけて南下し、倉亭の戦いが勃発した。
三十万の大軍を率い、戦いを主導したのは、袁紹の三男、袁尚。彼は緒戦で曹操軍の先鋒、史渙を戦死させた。
程昱が十面埋伏の計を起案し、反撃する。曹操は黄河の前に背水の陣を敷いて敵軍を誘引し、高覧、于禁、徐晃、張郃、曹洪、夏侯淵、楽進、李典、張遼、夏候惇が伏兵となって戦った。
十将の波状攻撃にさらされて、袁紹はまたしても敗れた。202年、失意のうちに病死する。
晩年の袁紹には冴えがまったくない。後継者を決めていなかった。
長男の袁譚と末子の袁尚の間で、跡目争いが起こった。前者を郭図、辛評らが推し、後者には審配、逢紀らが付いた。
袁紹の本拠地だった鄴は袁尚が受け継いだ。袁譚は青州から冀州へ進軍し、鄴の南方、黎陽に駐屯した。
両者は戦端を発し、袁譚軍は袁尚派の逢紀を殺した。
この混乱に乗じて、曹操は黎陽を攻撃する。袁氏の仇敵を前にして、袁譚軍と袁尚軍は連合して戦った。
曹操が一気に袁兄弟を葬り去ったなら、話はわかりやすいが、そこまで単純ではない。
兄と弟は敵対したり結びついたりしながら、曹操に抵抗をつづけた。
203年、曹操は魏郡南部の黎陽県、陰安村などを占領し、鄴へ進軍したが、袁尚軍はこれを撃退し、許都へ退却させている。歴史は直線的に進むものではない。紆余曲折する。
袁紹の次男、袁煕は袁尚に味方して、鄴に住んでいた。
彼には玉肌花貌と言われた美しい妻がいた。後に魏の皇后となる甄氏である。
204年の鄴攻撃には、曹操の息子、曹丕が参戦していた。鄴城が陥落したとき、彼は城内で甄氏を見初め、許都へ連れ帰って妻にした。
この経緯から、袁煕が魏の二代皇帝曹叡の実父ではないかという説がある。
曹叡には祖父の曹操に似た軍事の才能があったから、真実ではないであろう。
袁譚は205年に戦死した。
その年、冀州勃海郡南皮県で曹操軍にいったんは勝利したが、その後大敗し、曹仁の弟、曹純に斬首された。
袁譚が曹操や袁尚とそれなりに戦えたのは、郭図が補佐していたからである。沮授や田豊などへの敵愾心に囚われていなければ、本当に優秀だった。彼は袁譚とともに死んだ。妻子も一緒に捕らえられ、処刑されたという。
袁尚と袁煕は逃げに逃げた。
北方異民族の烏桓王蹋頓を頼り、幽州遼西郡へ逃亡。ここで白狼山の戦いを起こした。
このときの曹操の軍師は郭嘉であった。
「軍事は神速を尊びます」と助言し、強行軍を押し通して、蹋頓軍を奇襲し、烏桓王を敗死させた。
過酷な行軍で、郭嘉は健康を損なった。
袁兄弟はさらに逃げ、遼東郡太守の公孫康のもとへ落ち延びた。
ここで命運が尽きる。曹操と対立することを怖れた公孫康は、袁尚と袁煕の首を斬り、許都へ送った。207年のことである。
同年、郭嘉が病死した。享年三十八。
曹操の参謀の中では一番若く、将来を期待されていた。
「奉孝の死が哀しい、奉孝の死が痛ましい、奉孝の命が惜しい」と曹操は嘆き悲しんだ。
葬儀のとき、荀攸らに向かって「諸君はみな、私と同年代だ。郭嘉ひとりが若かった。私の死後、彼に後事を託すつもりだった」とも語った。
郭嘉は「華北四州の名士を集め、重く遇してください」と占領政策の指針を言い残している。
曹操は兗州牧の地位を返上し、冀州牧に転じた。華北統治を重視していた証拠である。
彼の事績を追っていると、後漢末期最高の偉人か、希代の悪漢かわからなくなってくる。
綺羅星のごとき人材を集め、皇帝を招き、袁紹を倒して、ついに天下第一の人物となった。
しかし、徐州で大虐殺をし、官渡で捕虜を穴埋めにするなど、非人道的な大量虐殺を行っている。
まるで二重人格者のようである。
小説の主人公としては、まことに捉えがたいキャラクター。
チンギスカンは世界史の英雄であるが、征服行の過程で、族滅、都市皆殺しなどの無数の虐殺をした。
一時期ドイツの英雄であったアドルフ・ヒトラーは語るまでもない。
英雄とは、二面性を持つものなのかもしれない。
さて、袁紹は官渡で大敗し、鄴へ撤退したが、まだ余力を保っている。
曹操は彼を司隷から追い返したにすぎず、華北四州はいまだに袁紹のものである。
しかし帰還早々、失策をした。
投獄していた田豊を殺してしまったのである。
「やつは獄中で、殿の敗北を笑っています」という逢紀の讒言を真に受けた。
逢紀もすぐれた頭脳を持つ参謀だが、田豊とは不仲だった。優秀な人物が内部を攻撃すると、悲劇が生まれる。
沮授と田豊という珠玉のような人が死んだ。
袁紹や郭図、逢紀らのことを考えると、人間とはなんと嫌なものかと憂鬱になる。
讒言を嘘と見抜けず、田豊を処刑する袁紹には、さわやかさの欠片もない。
「彼に笑われても仕方がない。急いで戦った私がまちがっていたのだ。獄から出してやらなくては」
そう言える大器なら、人生大逆転も可能であっただろうが……。
曹操は多忙である。
官渡から許都へ帰ってきて休む間もなく、汝南へ進軍した。劉備を討つためである。
曹仁とは戦った劉備だが、曹操との直接対決に勝ち目はないと見て、さっさと荊州へ遁走し、劉表のもとに身を寄せた。
201年には、袁紹軍が再起をかけて南下し、倉亭の戦いが勃発した。
三十万の大軍を率い、戦いを主導したのは、袁紹の三男、袁尚。彼は緒戦で曹操軍の先鋒、史渙を戦死させた。
程昱が十面埋伏の計を起案し、反撃する。曹操は黄河の前に背水の陣を敷いて敵軍を誘引し、高覧、于禁、徐晃、張郃、曹洪、夏侯淵、楽進、李典、張遼、夏候惇が伏兵となって戦った。
十将の波状攻撃にさらされて、袁紹はまたしても敗れた。202年、失意のうちに病死する。
晩年の袁紹には冴えがまったくない。後継者を決めていなかった。
長男の袁譚と末子の袁尚の間で、跡目争いが起こった。前者を郭図、辛評らが推し、後者には審配、逢紀らが付いた。
袁紹の本拠地だった鄴は袁尚が受け継いだ。袁譚は青州から冀州へ進軍し、鄴の南方、黎陽に駐屯した。
両者は戦端を発し、袁譚軍は袁尚派の逢紀を殺した。
この混乱に乗じて、曹操は黎陽を攻撃する。袁氏の仇敵を前にして、袁譚軍と袁尚軍は連合して戦った。
曹操が一気に袁兄弟を葬り去ったなら、話はわかりやすいが、そこまで単純ではない。
兄と弟は敵対したり結びついたりしながら、曹操に抵抗をつづけた。
203年、曹操は魏郡南部の黎陽県、陰安村などを占領し、鄴へ進軍したが、袁尚軍はこれを撃退し、許都へ退却させている。歴史は直線的に進むものではない。紆余曲折する。
袁紹の次男、袁煕は袁尚に味方して、鄴に住んでいた。
彼には玉肌花貌と言われた美しい妻がいた。後に魏の皇后となる甄氏である。
204年の鄴攻撃には、曹操の息子、曹丕が参戦していた。鄴城が陥落したとき、彼は城内で甄氏を見初め、許都へ連れ帰って妻にした。
この経緯から、袁煕が魏の二代皇帝曹叡の実父ではないかという説がある。
曹叡には祖父の曹操に似た軍事の才能があったから、真実ではないであろう。
袁譚は205年に戦死した。
その年、冀州勃海郡南皮県で曹操軍にいったんは勝利したが、その後大敗し、曹仁の弟、曹純に斬首された。
袁譚が曹操や袁尚とそれなりに戦えたのは、郭図が補佐していたからである。沮授や田豊などへの敵愾心に囚われていなければ、本当に優秀だった。彼は袁譚とともに死んだ。妻子も一緒に捕らえられ、処刑されたという。
袁尚と袁煕は逃げに逃げた。
北方異民族の烏桓王蹋頓を頼り、幽州遼西郡へ逃亡。ここで白狼山の戦いを起こした。
このときの曹操の軍師は郭嘉であった。
「軍事は神速を尊びます」と助言し、強行軍を押し通して、蹋頓軍を奇襲し、烏桓王を敗死させた。
過酷な行軍で、郭嘉は健康を損なった。
袁兄弟はさらに逃げ、遼東郡太守の公孫康のもとへ落ち延びた。
ここで命運が尽きる。曹操と対立することを怖れた公孫康は、袁尚と袁煕の首を斬り、許都へ送った。207年のことである。
同年、郭嘉が病死した。享年三十八。
曹操の参謀の中では一番若く、将来を期待されていた。
「奉孝の死が哀しい、奉孝の死が痛ましい、奉孝の命が惜しい」と曹操は嘆き悲しんだ。
葬儀のとき、荀攸らに向かって「諸君はみな、私と同年代だ。郭嘉ひとりが若かった。私の死後、彼に後事を託すつもりだった」とも語った。
郭嘉は「華北四州の名士を集め、重く遇してください」と占領政策の指針を言い残している。
曹操は兗州牧の地位を返上し、冀州牧に転じた。華北統治を重視していた証拠である。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
西涼女侠伝
水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超
舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。
役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。
家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。
ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。
荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。
主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。
三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)
涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。
劉禅が勝つ三国志
みらいつりびと
歴史・時代
中国の三国時代、炎興元年(263年)、蜀の第二代皇帝、劉禅は魏の大軍に首府成都を攻められ、降伏する。
蜀は滅亡し、劉禅は幽州の安楽県で安楽公に封じられる。
私は道を誤ったのだろうか、と後悔しながら、泰始七年(271年)、劉禅は六十五歳で生涯を終える。
ところが、劉禅は前世の記憶を持ったまま、再び劉禅として誕生する。
ときは建安十二年(207年)。
蜀による三国統一をめざし、劉禅のやり直し三国志が始まる。
第1部は劉禅が魏滅の戦略を立てるまでです。全8回。
第2部は劉禅が成都を落とすまでです。全12回。
第3部は劉禅が夏候淵軍に勝つまでです。全11回。
第4部は劉禅が曹操を倒し、新秩序を打ち立てるまで。全8回。第39話が全4部の最終回です。
劉備が勝つ三国志
みらいつりびと
歴史・時代
劉備とは楽団のような人である。
優秀な指揮者と演奏者たちがいるとき、素晴らしい音色を奏でた。
初期の劉備楽団には、指揮者がいなかった。
関羽と張飛という有能な演奏者はいたが、彼らだけではよい演奏にはならなかった。
諸葛亮という優秀なコンダクターを得て、中国史に残る名演を奏でることができた。
劉備楽団の演奏の数々と終演を描きたいと思う。史実とは異なる演奏を……。
劉備が主人公の架空戦記です。全61話。
前半は史実寄りですが、徐々に架空の物語へとシフトしていきます。
幕府海軍戦艦大和
みらいつりびと
歴史・時代
IF歴史SF短編です。全3話。
ときに西暦1853年、江戸湾にぽんぽんぽんと蒸気機関を響かせて黒船が来航したが、徳川幕府はそんなものへっちゃらだった。征夷大将軍徳川家定は余裕綽々としていた。
「大和に迎撃させよ!」と命令した。
戦艦大和が横須賀基地から出撃し、46センチ三連装砲を黒船に向けた……。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる