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反董卓連合軍
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董卓が洛陽で権力を握ったとき、曹操は故郷の沛国譙県に脱出した。
そこで私財を投じ、兵を集めた。
彼は汚職をしたことがなく、さほど多くの財産はなかった。この頃、徐州琅邪郡へ避難していた父曹嵩の経済的援助があって、曹操の挙兵は可能になった。
「助かるぜ、親父。おれはいつか必ず、親孝行をするから……」
曹操は誓った。
曹操と曹嵩には深い結びつきがあり、父は息子を後々まで援助しつづけたと考えられる。
でなければ、曹嵩が徐州牧の陶謙に殺されたとき、曹操が激怒し、徐州で大虐殺を行った理由の説明がまったくできない。
190年の曹操の挙兵のとき、彼の有力な武将となる三人が馳せ参じた。
曹洪子廉。
曹操の従弟で、生年は不詳。当初から曹操を押し立てようとする意志が強く、命懸けで主君を守ろうとした。
夏侯惇元譲。
同じく従弟で、生年不詳。激情の人。彼は隻眼の武将として有名だが、左目を失ったのは呂布軍との戦いにおいてであり、このときはまだ両眼を持っている。晩年、魏の大将軍となる。
夏侯淵妙才。
曹操の遠縁で、やはり生年は不明。迅速な行軍による奇襲を得意とし、「三日で五百里、六日で千里」と言われた。兵糧運搬などの後方支援もそつなくこなした。
この三人の良将を初期から持っていたのは、曹操の好運である。劉備が関羽、張飛を得ていたのに匹敵する。
「頼むぞ、洪、惇、淵。力を合わせて、世の中を良くしていこう」
このときはまだ、天下統一などといった大それたことは考えていない。
曹操にはごく自然な正義の志があり、挙兵の最大の理由は、董卓の悪政を止めたいということだった。
ちなみに、従弟の曹仁子孝はこのとき曹操に従わず、独自の勢力になろうとした。彼が曹操配下になるのは、191年、兗州東郡における黒山軍との戦いからである。
曹操は沛国から兗州陳留郡に移動しながら兵を集めた。
陳留郡で曹操は衛茲と面会した。衛茲は富豪で、陳留郡太守張邈から孝廉に推挙されたほどの人物だが、俗世での名誉を求めず、任官していなかった。
「洛陽は乱れ切って、董卓は悪逆非道の行いをしています。私はそれを正したい」
曹操の志を聞き、じっくりと話をして、衛茲は、この人になら仕えたい、と思った。
「天下を平定するのは、あなたでしょう」
衛茲は曹操軍の将校になり、徴兵の協力までした。曹操は五千の兵を得た。
曹操の配下に優秀な人物が集まった理由は?
彼がここまで無難に職務をこなしてきただけの人だったら、血縁者でも部下にはならなかっただろう。
洛陽北部尉のとき、権力者の親戚を怖れずに罰した。済南の相のときは、汚濁県令を罷免した。世を正そうという気概に満ちている。
騎都尉時代には、波才率いる黄巾軍を敗走させるに至る攻撃を行った。
曹操が明るい志向を持ち、実行力も兼ね備えていたから、乱れた世の秩序を回復したいと憂いていた有能な士が、彼のもとに集まったのであろう。
曹操はこの頃まだ、人材を積極的に集めたいという異様なほどの欲は持っていなかった。
曹洪、夏侯惇、夏侯淵、衛茲の働きを見て、初めて人材の有為さを知り、それなくして天下を平穏にすることはできないと気づいた。
以降、能動的に人材集めを行うようになった。
曹操とて最初から人材コレクターだったわけではない。彼は挫折を経験しながら成長し、ライバルたちと天下の覇を競う人物になった。
さて、視点を洛陽に転じて、董卓の専横ぶりを見てみよう。
彼は三公のひとつ、大尉に任じられるとともに、領前将軍事となって、節を与えられた。
節とは、斧とまさかりのこと。同時に、独自の判断で兵を処罰できる軍権を意味した。
董卓は虎賁兵と呼ばれる皇帝直属部隊の指揮を任されたが、節を持っているので、この部隊は彼の私兵同然であった。
彼は軍事力を握ったまま、大尉から相国に昇進した。相国とは、三公を超える臨時の役職で、政務を総攬する国家元首にも等しい存在である。
日本でこれに比肩する職を挙げると、摂政、関白、征夷大将軍。
実質的に献帝は親政できない状態だったが、これで完全に董卓独裁の形式が整った。
「この国はわしのものだ……」と彼はつぶやいた。
董卓はいくらか権威が残っていた何太后を永安宮に幽閉し、ほどなくして殺害した。
少帝弁は廃され、弘農王となっていたが、彼も毒殺した。
村祭りに参加していた農民を皆殺しにするという無慈悲無意味な殺戮もした。
暴虐の権化、董卓。
財を集めることにも熱心であった。
兵を使って洛陽の富豪たちを脅し、金品を巻きあげた。
皇帝の墓をあばき、財宝を入手した。
やりたい放題とはこのことである。
配下の兵も傍若無人に振る舞い、毎夜女官を凌辱した。
董卓は暴君であると言うほかない。
もちろん反発はあった。
兗州刺史、東郡太守などを歴任した橋瑁が、打倒董卓を呼びかける檄文を各地に送った。
これに呼応して立ったのが、袁紹、袁術、韓馥、孔伷、劉岱、王匡、張邈、袁遺、鮑信、張超、許瑒、李旻、崔鈞らである。彼らはそれぞれ万を超える兵を率いていた。
曹操も五千の兵を率いて、檄に応じた。
反董卓連合軍の首脳たちは、洛陽を東から睨む陳留郡酸棗県で会議を開いた。
名門中の名門出身である袁紹を、盟主として立てることになった。
この会議で、曹操は行奮武将軍に推挙されたが、任命権は董卓が専横する政府にあり、正式に任じられることはなかった。
反董卓連合はなかなか機能しなかった。
袁紹は司隷河内郡に布陣し、袁術は荊州南陽郡、孔伷は豫洲潁川郡、韓馥は冀州魏郡、張邈、劉岱、橋瑁、袁遺、鮑信、曹操らは酸棗県で滞陣していた。
誰も戦端を開こうとはしなかった。
酸棗で諸将は愚にもつかない会議を開き、酒ばかり飲んでいた。
「なんなのだ、この状況は。挙兵した意味がないではないか」
曹操は危機感を覚えた。
董卓を打倒できる十数万の兵力があるというのに、それがまったく動かない。兵糧が消費されていくばかりである。
「諸兄らは大軍を持っているのに、なぜ兵を動かさないのか」
たまりかねて、曹操は叫んだ。
誰も答えない。
「戦おう。軍を洛陽に向けようではないか」
沈黙がつづく。
「我らは顔を見合わせて酒を飲むために集まったわけではない。暴虐の限りを尽くす董卓を討つためであろう」
曹操の声は悲愴さを帯びた。
それでも応える者はいなかった。
曹操は立ちあがった。
「私だけでも戦う」
曹操は彼の天幕に衛茲、曹洪、夏侯惇、夏侯淵を集めた。
「誰も動こうとしない。形だけ整えて、互いに牽制し合っているだけだ。本気で董卓と戦おうとする者は、天下に私だけである」
「殿……」
「私はゆくぞ。戦わなければ、世の中は動かせない。先陣を切り、わが志を天下に示す。誰かつづく者が出るであろう」
衛茲たちは蒼ざめた。曹操軍はわずか五千。汴水を渡れば洛陽に迫ることができるが、そこには董卓配下の徐栄の軍五万がいることがわかっている。
五千対五万では戦いにならない。死ににいくようなものである。
そこへ、鮑信がやってきた。さきほど曹操に問われて、重苦しく黙っていた将のひとり。
彼は人が変わったような笑顔を見せた。
「曹操殿、あなたが言われるとおりだ。私は董卓を倒すために来た。酒は飲み飽きた。ともに戦わせてほしい」
彼は一万五千の兵を従えている。合わせると二万になる。
「鮑信殿、ありがとう」
曹操と鮑信は手を握り合った。
衛茲たちの顔に赤みが戻った。
翌日、曹操軍と鮑信軍は洛陽方面へ向かった。
汴水の戦いが始まろうとしている。
そこで私財を投じ、兵を集めた。
彼は汚職をしたことがなく、さほど多くの財産はなかった。この頃、徐州琅邪郡へ避難していた父曹嵩の経済的援助があって、曹操の挙兵は可能になった。
「助かるぜ、親父。おれはいつか必ず、親孝行をするから……」
曹操は誓った。
曹操と曹嵩には深い結びつきがあり、父は息子を後々まで援助しつづけたと考えられる。
でなければ、曹嵩が徐州牧の陶謙に殺されたとき、曹操が激怒し、徐州で大虐殺を行った理由の説明がまったくできない。
190年の曹操の挙兵のとき、彼の有力な武将となる三人が馳せ参じた。
曹洪子廉。
曹操の従弟で、生年は不詳。当初から曹操を押し立てようとする意志が強く、命懸けで主君を守ろうとした。
夏侯惇元譲。
同じく従弟で、生年不詳。激情の人。彼は隻眼の武将として有名だが、左目を失ったのは呂布軍との戦いにおいてであり、このときはまだ両眼を持っている。晩年、魏の大将軍となる。
夏侯淵妙才。
曹操の遠縁で、やはり生年は不明。迅速な行軍による奇襲を得意とし、「三日で五百里、六日で千里」と言われた。兵糧運搬などの後方支援もそつなくこなした。
この三人の良将を初期から持っていたのは、曹操の好運である。劉備が関羽、張飛を得ていたのに匹敵する。
「頼むぞ、洪、惇、淵。力を合わせて、世の中を良くしていこう」
このときはまだ、天下統一などといった大それたことは考えていない。
曹操にはごく自然な正義の志があり、挙兵の最大の理由は、董卓の悪政を止めたいということだった。
ちなみに、従弟の曹仁子孝はこのとき曹操に従わず、独自の勢力になろうとした。彼が曹操配下になるのは、191年、兗州東郡における黒山軍との戦いからである。
曹操は沛国から兗州陳留郡に移動しながら兵を集めた。
陳留郡で曹操は衛茲と面会した。衛茲は富豪で、陳留郡太守張邈から孝廉に推挙されたほどの人物だが、俗世での名誉を求めず、任官していなかった。
「洛陽は乱れ切って、董卓は悪逆非道の行いをしています。私はそれを正したい」
曹操の志を聞き、じっくりと話をして、衛茲は、この人になら仕えたい、と思った。
「天下を平定するのは、あなたでしょう」
衛茲は曹操軍の将校になり、徴兵の協力までした。曹操は五千の兵を得た。
曹操の配下に優秀な人物が集まった理由は?
彼がここまで無難に職務をこなしてきただけの人だったら、血縁者でも部下にはならなかっただろう。
洛陽北部尉のとき、権力者の親戚を怖れずに罰した。済南の相のときは、汚濁県令を罷免した。世を正そうという気概に満ちている。
騎都尉時代には、波才率いる黄巾軍を敗走させるに至る攻撃を行った。
曹操が明るい志向を持ち、実行力も兼ね備えていたから、乱れた世の秩序を回復したいと憂いていた有能な士が、彼のもとに集まったのであろう。
曹操はこの頃まだ、人材を積極的に集めたいという異様なほどの欲は持っていなかった。
曹洪、夏侯惇、夏侯淵、衛茲の働きを見て、初めて人材の有為さを知り、それなくして天下を平穏にすることはできないと気づいた。
以降、能動的に人材集めを行うようになった。
曹操とて最初から人材コレクターだったわけではない。彼は挫折を経験しながら成長し、ライバルたちと天下の覇を競う人物になった。
さて、視点を洛陽に転じて、董卓の専横ぶりを見てみよう。
彼は三公のひとつ、大尉に任じられるとともに、領前将軍事となって、節を与えられた。
節とは、斧とまさかりのこと。同時に、独自の判断で兵を処罰できる軍権を意味した。
董卓は虎賁兵と呼ばれる皇帝直属部隊の指揮を任されたが、節を持っているので、この部隊は彼の私兵同然であった。
彼は軍事力を握ったまま、大尉から相国に昇進した。相国とは、三公を超える臨時の役職で、政務を総攬する国家元首にも等しい存在である。
日本でこれに比肩する職を挙げると、摂政、関白、征夷大将軍。
実質的に献帝は親政できない状態だったが、これで完全に董卓独裁の形式が整った。
「この国はわしのものだ……」と彼はつぶやいた。
董卓はいくらか権威が残っていた何太后を永安宮に幽閉し、ほどなくして殺害した。
少帝弁は廃され、弘農王となっていたが、彼も毒殺した。
村祭りに参加していた農民を皆殺しにするという無慈悲無意味な殺戮もした。
暴虐の権化、董卓。
財を集めることにも熱心であった。
兵を使って洛陽の富豪たちを脅し、金品を巻きあげた。
皇帝の墓をあばき、財宝を入手した。
やりたい放題とはこのことである。
配下の兵も傍若無人に振る舞い、毎夜女官を凌辱した。
董卓は暴君であると言うほかない。
もちろん反発はあった。
兗州刺史、東郡太守などを歴任した橋瑁が、打倒董卓を呼びかける檄文を各地に送った。
これに呼応して立ったのが、袁紹、袁術、韓馥、孔伷、劉岱、王匡、張邈、袁遺、鮑信、張超、許瑒、李旻、崔鈞らである。彼らはそれぞれ万を超える兵を率いていた。
曹操も五千の兵を率いて、檄に応じた。
反董卓連合軍の首脳たちは、洛陽を東から睨む陳留郡酸棗県で会議を開いた。
名門中の名門出身である袁紹を、盟主として立てることになった。
この会議で、曹操は行奮武将軍に推挙されたが、任命権は董卓が専横する政府にあり、正式に任じられることはなかった。
反董卓連合はなかなか機能しなかった。
袁紹は司隷河内郡に布陣し、袁術は荊州南陽郡、孔伷は豫洲潁川郡、韓馥は冀州魏郡、張邈、劉岱、橋瑁、袁遺、鮑信、曹操らは酸棗県で滞陣していた。
誰も戦端を開こうとはしなかった。
酸棗で諸将は愚にもつかない会議を開き、酒ばかり飲んでいた。
「なんなのだ、この状況は。挙兵した意味がないではないか」
曹操は危機感を覚えた。
董卓を打倒できる十数万の兵力があるというのに、それがまったく動かない。兵糧が消費されていくばかりである。
「諸兄らは大軍を持っているのに、なぜ兵を動かさないのか」
たまりかねて、曹操は叫んだ。
誰も答えない。
「戦おう。軍を洛陽に向けようではないか」
沈黙がつづく。
「我らは顔を見合わせて酒を飲むために集まったわけではない。暴虐の限りを尽くす董卓を討つためであろう」
曹操の声は悲愴さを帯びた。
それでも応える者はいなかった。
曹操は立ちあがった。
「私だけでも戦う」
曹操は彼の天幕に衛茲、曹洪、夏侯惇、夏侯淵を集めた。
「誰も動こうとしない。形だけ整えて、互いに牽制し合っているだけだ。本気で董卓と戦おうとする者は、天下に私だけである」
「殿……」
「私はゆくぞ。戦わなければ、世の中は動かせない。先陣を切り、わが志を天下に示す。誰かつづく者が出るであろう」
衛茲たちは蒼ざめた。曹操軍はわずか五千。汴水を渡れば洛陽に迫ることができるが、そこには董卓配下の徐栄の軍五万がいることがわかっている。
五千対五万では戦いにならない。死ににいくようなものである。
そこへ、鮑信がやってきた。さきほど曹操に問われて、重苦しく黙っていた将のひとり。
彼は人が変わったような笑顔を見せた。
「曹操殿、あなたが言われるとおりだ。私は董卓を倒すために来た。酒は飲み飽きた。ともに戦わせてほしい」
彼は一万五千の兵を従えている。合わせると二万になる。
「鮑信殿、ありがとう」
曹操と鮑信は手を握り合った。
衛茲たちの顔に赤みが戻った。
翌日、曹操軍と鮑信軍は洛陽方面へ向かった。
汴水の戦いが始まろうとしている。
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