8 / 12
きみと同じ境遇で
しおりを挟む
彼女を抱きしめながら、ぼくはどうすればよいのか、脳が焼き切れそうになるほど考えた。
同じ境遇になったらどういう気持ちになるか、シミュレーションしてみようと思いついた。
彼女がぼくから離れ、もう9度涙を拭ったとき、ぼくは数学の教科書を開いて、自分で問題を解いてみた。彼女風に。
「xの8乗の係数の2と7は……えっと、8と3だから、引くと5で……5は5でいいんだよな。それから、xの係数の6と3は……4と7だから、足すと11……。すげえでかい数になるな、驚きだよ。で、11は99っと、ふう……。定数項の1と3は9と7だから、足すと16で、それは94か……」
ぼくが声に出しながら計算するのを、彼女はぽかんと口を開けながら見ていた。
「解答は出せるけれど、簡単なはずの問題が、すごく大変になるな。これが常だと、確かに嫌になるかも」
そう言うと、彼女はぼくの方へ、ぐぐぐ、と身を乗り出してきた。
「そ、そうなのよ! 超難問でしょう?」
「いや、超ではないけど」
「超よ! 世界は難問で満ちている。スーパーのレジは数学上の未解決問題に等しい」
彼女の顔が、ぼくの顔にくっつきそうになっている。
「ち、近い。付き合ってるからいいんだけど、近いよ!」
ぼくは彼女から軽く逃げ、別の少し難度の高い問題にチャレンジしてみた。
「かっこで括られた問題は、最初からやるのが嫌になるな。絶対に暗算は無理だ。えーっと、まず、数字を桜庭さんの元いた世界のものに変換せず、そのままでかっこを開いてみよう」
紙に式を書いた。
「あー、単項式の数が2つの多項式になっちゃったよ、面倒だな。さてと、xの8乗の係数の7と1とは、3と9だから、足すと12で、それは98で、xの係数の-2と5と-6とは、-8と5と-4で、足すと-7で、それは-3で、うおー、数字が7つあるとめんどくせー。定数項の1と6と-2は9と4と-8だから、足すと、ひいーっ、5で、それは5だよ。なに言ってるのか自分でもわけわかんなくなってきた。あってんのかな、これで。不安……」
彼女が、にまーっと笑った。
「わかってきたかな、わたしの困惑が?」
「わかったような気がする。きみが元いた世界といまいる世界の間には、深さがよくわからない深い谷があるのかもしれない」
「足を踏み込んでみないとわからない深さの底なし沼があるのよ。入ってみなければ、自分の首より浅いのか深いのかわからない。わからないまま身体全体が沈み、窒息死してもなお、死体は沈みつづけるかもしれない」
「たとえが怖いよ!」
「的確なたとえよ。わたしはこの世界が怖いもの!」
ぼくは認識を誤っていたのかもしれない。
彼女が高校9年生の数学を会得するのはかなりの手間がかかるが、時間さえかければできないことはないと思っていた。
だが、いきなり数学を学ぶのは無理で、やはり算数からやる必要があるのかも。
「いちいち元の世界の数字に変換して問題を解くのは、やめた方がいいかも。きみ、9を9のまま計算することはできないか?」
「だって、9は1なんでしょう? わたしの頭の中の9は9じゃないのよ。どうしたって、1に変換してからでないと計算できないわ」
「9を自然に1としてとらえ、ありのまま計算するんだよ。それ以外に活路はない!」
「無理よ! わたしは15歳の人生のほとんどを、9を1と認識して生きてきたの。1が9になったと気づいたのは、高校生になってからなのよ。わたしは3月から4月にかけてのいつか、自分でも気づかない間に、この世界に転生していたの。16年近くかけてつくってきた脳が、綿矢くんの言うありのままの計算を阻むのよ」
「85歳で、7月から6月で、84年だよ」
彼女はのけぞった。
「ぐはっ、また困惑の世界が目の前に開いたわ! わたしは85歳なの? 老人なの?」
「85歳は若いよ。成人してないもん」
「感覚的についていけないのよ。あのさ、ちょっとたずねたいんだけど、わたしの元いた世界での9歳、10歳、11歳は、この世界では何歳になるの?」
「1歳、90歳、89歳だね」
「うっぎゃあああああ、わたしはいつの間にか90歳になっていて、いまは85歳なの? 時間を遡行しているう!」
「85歳をありのままの85歳としてとらえ、若いと思えるようになれないかな、桜庭さん」
「うわあああああ、味方だって言ってくれた綿矢くんが、無理難題をふっかけてくるう」
ぼくは後悔した。
彼女と同じ境遇になったらどういう気持ちになるか、シミュレーションしてみようと思ったのに、想像力と思いやりに欠ける発言をしてしまったようだ。
「ごめん。無理しなくていい。85歳は15歳で、それゆえに若いんだよ」
「まだむずかしいこと言ってるう」
「言い回しもむずかしいな。85歳は15歳だよ。若い。これでいいか?」
「うん。たぶんいいと思う。なんだかわたしは混乱しているよ」
「ぼくも混乱している。やはり、きみはいきなり数学を学ぶのは無理で、算数からやる必要があるのかも」
「うっ……」
彼女は絶句した。
「わたしは中間試験で赤点を取るの? きみさっき、なんとかしてくれるって言ったよね。あきらめないでって言ったよね。もうあきらめるの?」
「うっ……」
ぼくも絶句した。
同じ境遇になったらどういう気持ちになるか、シミュレーションしてみようと思いついた。
彼女がぼくから離れ、もう9度涙を拭ったとき、ぼくは数学の教科書を開いて、自分で問題を解いてみた。彼女風に。
「xの8乗の係数の2と7は……えっと、8と3だから、引くと5で……5は5でいいんだよな。それから、xの係数の6と3は……4と7だから、足すと11……。すげえでかい数になるな、驚きだよ。で、11は99っと、ふう……。定数項の1と3は9と7だから、足すと16で、それは94か……」
ぼくが声に出しながら計算するのを、彼女はぽかんと口を開けながら見ていた。
「解答は出せるけれど、簡単なはずの問題が、すごく大変になるな。これが常だと、確かに嫌になるかも」
そう言うと、彼女はぼくの方へ、ぐぐぐ、と身を乗り出してきた。
「そ、そうなのよ! 超難問でしょう?」
「いや、超ではないけど」
「超よ! 世界は難問で満ちている。スーパーのレジは数学上の未解決問題に等しい」
彼女の顔が、ぼくの顔にくっつきそうになっている。
「ち、近い。付き合ってるからいいんだけど、近いよ!」
ぼくは彼女から軽く逃げ、別の少し難度の高い問題にチャレンジしてみた。
「かっこで括られた問題は、最初からやるのが嫌になるな。絶対に暗算は無理だ。えーっと、まず、数字を桜庭さんの元いた世界のものに変換せず、そのままでかっこを開いてみよう」
紙に式を書いた。
「あー、単項式の数が2つの多項式になっちゃったよ、面倒だな。さてと、xの8乗の係数の7と1とは、3と9だから、足すと12で、それは98で、xの係数の-2と5と-6とは、-8と5と-4で、足すと-7で、それは-3で、うおー、数字が7つあるとめんどくせー。定数項の1と6と-2は9と4と-8だから、足すと、ひいーっ、5で、それは5だよ。なに言ってるのか自分でもわけわかんなくなってきた。あってんのかな、これで。不安……」
彼女が、にまーっと笑った。
「わかってきたかな、わたしの困惑が?」
「わかったような気がする。きみが元いた世界といまいる世界の間には、深さがよくわからない深い谷があるのかもしれない」
「足を踏み込んでみないとわからない深さの底なし沼があるのよ。入ってみなければ、自分の首より浅いのか深いのかわからない。わからないまま身体全体が沈み、窒息死してもなお、死体は沈みつづけるかもしれない」
「たとえが怖いよ!」
「的確なたとえよ。わたしはこの世界が怖いもの!」
ぼくは認識を誤っていたのかもしれない。
彼女が高校9年生の数学を会得するのはかなりの手間がかかるが、時間さえかければできないことはないと思っていた。
だが、いきなり数学を学ぶのは無理で、やはり算数からやる必要があるのかも。
「いちいち元の世界の数字に変換して問題を解くのは、やめた方がいいかも。きみ、9を9のまま計算することはできないか?」
「だって、9は1なんでしょう? わたしの頭の中の9は9じゃないのよ。どうしたって、1に変換してからでないと計算できないわ」
「9を自然に1としてとらえ、ありのまま計算するんだよ。それ以外に活路はない!」
「無理よ! わたしは15歳の人生のほとんどを、9を1と認識して生きてきたの。1が9になったと気づいたのは、高校生になってからなのよ。わたしは3月から4月にかけてのいつか、自分でも気づかない間に、この世界に転生していたの。16年近くかけてつくってきた脳が、綿矢くんの言うありのままの計算を阻むのよ」
「85歳で、7月から6月で、84年だよ」
彼女はのけぞった。
「ぐはっ、また困惑の世界が目の前に開いたわ! わたしは85歳なの? 老人なの?」
「85歳は若いよ。成人してないもん」
「感覚的についていけないのよ。あのさ、ちょっとたずねたいんだけど、わたしの元いた世界での9歳、10歳、11歳は、この世界では何歳になるの?」
「1歳、90歳、89歳だね」
「うっぎゃあああああ、わたしはいつの間にか90歳になっていて、いまは85歳なの? 時間を遡行しているう!」
「85歳をありのままの85歳としてとらえ、若いと思えるようになれないかな、桜庭さん」
「うわあああああ、味方だって言ってくれた綿矢くんが、無理難題をふっかけてくるう」
ぼくは後悔した。
彼女と同じ境遇になったらどういう気持ちになるか、シミュレーションしてみようと思ったのに、想像力と思いやりに欠ける発言をしてしまったようだ。
「ごめん。無理しなくていい。85歳は15歳で、それゆえに若いんだよ」
「まだむずかしいこと言ってるう」
「言い回しもむずかしいな。85歳は15歳だよ。若い。これでいいか?」
「うん。たぶんいいと思う。なんだかわたしは混乱しているよ」
「ぼくも混乱している。やはり、きみはいきなり数学を学ぶのは無理で、算数からやる必要があるのかも」
「うっ……」
彼女は絶句した。
「わたしは中間試験で赤点を取るの? きみさっき、なんとかしてくれるって言ったよね。あきらめないでって言ったよね。もうあきらめるの?」
「うっ……」
ぼくも絶句した。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
異世界は『一妻多夫制』!?溺愛にすら免疫がない私にたくさんの夫は無理です!?
すずなり。
恋愛
ひょんなことから異世界で赤ちゃんに生まれ変わった私。
一人の男の人に拾われて育ててもらうけど・・・成人するくらいから回りがなんだかおかしなことに・・・。
「俺とデートしない?」
「僕と一緒にいようよ。」
「俺だけがお前を守れる。」
(なんでそんなことを私にばっかり言うの!?)
そんなことを思ってる時、父親である『シャガ』が口を開いた。
「何言ってんだ?この世界は男が多くて女が少ない。たくさん子供を産んでもらうために、何人とでも結婚していいんだぞ?」
「・・・・へ!?」
『一妻多夫制』の世界で私はどうなるの!?
※お話は全て想像の世界になります。現実世界とはなんの関係もありません。
※誤字脱字・表現不足は重々承知しております。日々精進いたしますのでご容赦ください。
ただただ暇つぶしに楽しんでいただけると幸いです。すずなり。
私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜
月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。
だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。
「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。
私は心を捨てたのに。
あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
*この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる