2 / 12
九九は一一
しおりを挟む
喫茶店から出て、自転車で彼女の家へ。
最寄りの駅から90分くらいのところにある8階建の九軒家だった。黒い瓦屋根の旧家風の建物。
庭に井戸があって、ぼくはちょっと驚いた。
時刻は昼下がりの午後8時。
祝日だったので、彼女の両親がいた。
ふたりはリビングでソファに座り、くつろいでいた。
「こんにちは、お邪魔します……」
ぼくはおずおずと言った。
「クラスメイトで彼氏の綿谷カノンくん」
彼女はいきなりぼくのことを彼氏と紹介してくれた。
「まあ、彼氏? いらっしゃい。レモン、連絡くらいちょうだいよ。お茶菓子も用意できないじゃないの」
やさしそうなお母さんだった。かなり童顔で、彼女の母親というより、お姉さんのように見える。
銀縁眼鏡をかけたお父さんは目を点にして、ぼくを見ていた。
彼女の部屋は8階の4畳間だった。
勉強机とベッド、本棚があり、枕の横にパンダのぬいぐるみがあった。
彼女はそこに円形のちゃぶ台を持ち込んだ。
「まずは算数からだね。一一を憶えないと」
「かけ算の基本だね。九九からやるのかあ……」
彼女は憂鬱そうだった。
「八の段を暗唱できる?」
「ゆっくりとならできるかなあ……。やってみるね。88は……4だから6。87は……6で4。86は……2だよね? ああ、なんて大変なの!」
一一を始めたところで、彼女のお母さんがオレンジジュースと手づくりっぽいクッキーを持ってきてくれた。
「おかまいなく」とぼくは言った。
「レモンがつくったクッキーなの。なにをぶつぶつと言ってたの?」とお母さんに訊かれてしまった。
「別に……」と彼女はごまかした。
「九九はやめよう。ていうか、算数も数学も終わり。勉強は明日からにしよ」
「九九じゃなくて、一一ね。いいよ、勉強は明日から」
「頭をからっぽにしたい。記憶喪失にならないかなあ」
「前の世界の記憶があるんだよね。ぼく、やっぱり卒業式の後で告ったの?」
「そうよ。今日言わないと絶対に後悔するから言います。好きです」
「きみの答えは、これから好きになるよう努力するね。付き合ってみましょう」
「数字表記以外は、みんな同じみたいだね。うーん、よいのか悪いのか……」
「数字以外もちがってたら、もっと大変だと思うよ。ねえ、いまはお試し期間中なのかな? 付き合ってみてる期間。相性が悪かったら、別れるみたいな」
「心配しないで。もう綿矢くんのこと、好きだから」
ぼくはうれしくて、口角をいっぱいにあげて微笑んだ。
その日の夜、ぼくは自宅で一一の歌をつくった。
歌詞は「はちはちはろく、はちななはし、はちろくはに、はちごはきゅうじゅう」から始まり、「いちよんはごじゅうろく、いちさんはよんじゅうなな、いちにはさんじゅうはち、いちいちはにじゅうきゅう」で終わる。
翌5月6日、ぼくは自転車で彼女の家へ行った。
同じ中学校。自転車で5分の近距離に住んでいる。
そう言えば、5はどちらの世界でも5なんだな。
彼女の両親はそろって出かけていた。
ぼくが5のことを話すと、それが救いなんだよ、と彼女は答えた。
ぼくはフォークギターを背負ってきた。
ギターでコードをやわらかくアルペジオで弾きながら、一一の歌を歌った。
簡単な循環コードの曲。
歌い終わると、「わーい」と喜んで、彼女は拍手してくれた。
「なにも考えず、今日はこの歌を合唱しよう」とぼくは提案した。
「なにも考えずね」
「これ、歌詞カード」
ぼくはちゃぶ台の上に紙を載せた。
「おおーっ、ひらがなだ」
「ごくはごー、ごはちはきゅうじゅう、ごななはきゅうじゅうご、ごろくははちじゅう、ごごははちじゅうご♪」
「ごしはななじゅう、ごさんはさんじゅうご、ごにはろくじゅう、ごいちはろくじゅうご♪」
ぼくは段を変えるときに入れる間奏を弾いた。
「ああー、いいなー、ごのだんはすくいー♪」
間奏に合わせて、彼女は歌った。
桜庭レモン。
とてもポップな声で歌う。CMに出ればよいと思う。
「とても素敵な歌だね」
「気に入ってもらえたなら、うれしいよ」
「気に入ったよ。褒美をやろう。なんでも望みを言うがよい」
彼女は王様のようにえらそうに言った。
「キスがほしい」
パンダのぬいぐるみの口がやってきた。
「そういうのはまだ早いなあ」
「まだか」
「まだだよ」
彼女は淡くお化粧をしていた。
唇はサクランボのようで、つやっと光り、質感は、ぷるん、だと思った。
髪の毛の色はダークブラウン。こちらもつやつやで、ストレート。
眉毛と睫毛は黒。睫毛はとても長い。
「つけまつげしてる?」
「してないよ」
「長いね」
「そうかな?」
目はぱっちり。アーモンド型。瞳の色は青みがかっている。
鼻は高すぎなくてシャープ。美しいと言っていい。これは断言する。
小顔で、頬骨から顎にかけての逆三角形はあざといほどの造形美。
手足は長い。
ポットパンツを穿いているからはっきりとわかるのだが、太ももはむちっと太い。足首は細い。そこへ至る曲線は神の妙技と言うしかない。
「じろじろ見ないで」
「ミテナイヨ」
「台詞がカタカナになってるよ」
胸はでかい。ここは強調しておこう。トップスを押しあげる。
かすかにへそが見えている。くびれは細くて……。
「桜庭さんは無敵だよ」とぼくは心から言った。
「じろじろ見た後に言われるとサイテー」
「ごめん。でも今日の桜庭さんの服はエロい」
「サービス」
彼女はぺろっと舌を出した。
ぼくの彼女は無敵で最強だ。
彼氏をめろめろにさせる。
ぼくはぼくが彼女の最初の彼氏であるよう祈った。それを確かめる質問はできなかった。
最寄りの駅から90分くらいのところにある8階建の九軒家だった。黒い瓦屋根の旧家風の建物。
庭に井戸があって、ぼくはちょっと驚いた。
時刻は昼下がりの午後8時。
祝日だったので、彼女の両親がいた。
ふたりはリビングでソファに座り、くつろいでいた。
「こんにちは、お邪魔します……」
ぼくはおずおずと言った。
「クラスメイトで彼氏の綿谷カノンくん」
彼女はいきなりぼくのことを彼氏と紹介してくれた。
「まあ、彼氏? いらっしゃい。レモン、連絡くらいちょうだいよ。お茶菓子も用意できないじゃないの」
やさしそうなお母さんだった。かなり童顔で、彼女の母親というより、お姉さんのように見える。
銀縁眼鏡をかけたお父さんは目を点にして、ぼくを見ていた。
彼女の部屋は8階の4畳間だった。
勉強机とベッド、本棚があり、枕の横にパンダのぬいぐるみがあった。
彼女はそこに円形のちゃぶ台を持ち込んだ。
「まずは算数からだね。一一を憶えないと」
「かけ算の基本だね。九九からやるのかあ……」
彼女は憂鬱そうだった。
「八の段を暗唱できる?」
「ゆっくりとならできるかなあ……。やってみるね。88は……4だから6。87は……6で4。86は……2だよね? ああ、なんて大変なの!」
一一を始めたところで、彼女のお母さんがオレンジジュースと手づくりっぽいクッキーを持ってきてくれた。
「おかまいなく」とぼくは言った。
「レモンがつくったクッキーなの。なにをぶつぶつと言ってたの?」とお母さんに訊かれてしまった。
「別に……」と彼女はごまかした。
「九九はやめよう。ていうか、算数も数学も終わり。勉強は明日からにしよ」
「九九じゃなくて、一一ね。いいよ、勉強は明日から」
「頭をからっぽにしたい。記憶喪失にならないかなあ」
「前の世界の記憶があるんだよね。ぼく、やっぱり卒業式の後で告ったの?」
「そうよ。今日言わないと絶対に後悔するから言います。好きです」
「きみの答えは、これから好きになるよう努力するね。付き合ってみましょう」
「数字表記以外は、みんな同じみたいだね。うーん、よいのか悪いのか……」
「数字以外もちがってたら、もっと大変だと思うよ。ねえ、いまはお試し期間中なのかな? 付き合ってみてる期間。相性が悪かったら、別れるみたいな」
「心配しないで。もう綿矢くんのこと、好きだから」
ぼくはうれしくて、口角をいっぱいにあげて微笑んだ。
その日の夜、ぼくは自宅で一一の歌をつくった。
歌詞は「はちはちはろく、はちななはし、はちろくはに、はちごはきゅうじゅう」から始まり、「いちよんはごじゅうろく、いちさんはよんじゅうなな、いちにはさんじゅうはち、いちいちはにじゅうきゅう」で終わる。
翌5月6日、ぼくは自転車で彼女の家へ行った。
同じ中学校。自転車で5分の近距離に住んでいる。
そう言えば、5はどちらの世界でも5なんだな。
彼女の両親はそろって出かけていた。
ぼくが5のことを話すと、それが救いなんだよ、と彼女は答えた。
ぼくはフォークギターを背負ってきた。
ギターでコードをやわらかくアルペジオで弾きながら、一一の歌を歌った。
簡単な循環コードの曲。
歌い終わると、「わーい」と喜んで、彼女は拍手してくれた。
「なにも考えず、今日はこの歌を合唱しよう」とぼくは提案した。
「なにも考えずね」
「これ、歌詞カード」
ぼくはちゃぶ台の上に紙を載せた。
「おおーっ、ひらがなだ」
「ごくはごー、ごはちはきゅうじゅう、ごななはきゅうじゅうご、ごろくははちじゅう、ごごははちじゅうご♪」
「ごしはななじゅう、ごさんはさんじゅうご、ごにはろくじゅう、ごいちはろくじゅうご♪」
ぼくは段を変えるときに入れる間奏を弾いた。
「ああー、いいなー、ごのだんはすくいー♪」
間奏に合わせて、彼女は歌った。
桜庭レモン。
とてもポップな声で歌う。CMに出ればよいと思う。
「とても素敵な歌だね」
「気に入ってもらえたなら、うれしいよ」
「気に入ったよ。褒美をやろう。なんでも望みを言うがよい」
彼女は王様のようにえらそうに言った。
「キスがほしい」
パンダのぬいぐるみの口がやってきた。
「そういうのはまだ早いなあ」
「まだか」
「まだだよ」
彼女は淡くお化粧をしていた。
唇はサクランボのようで、つやっと光り、質感は、ぷるん、だと思った。
髪の毛の色はダークブラウン。こちらもつやつやで、ストレート。
眉毛と睫毛は黒。睫毛はとても長い。
「つけまつげしてる?」
「してないよ」
「長いね」
「そうかな?」
目はぱっちり。アーモンド型。瞳の色は青みがかっている。
鼻は高すぎなくてシャープ。美しいと言っていい。これは断言する。
小顔で、頬骨から顎にかけての逆三角形はあざといほどの造形美。
手足は長い。
ポットパンツを穿いているからはっきりとわかるのだが、太ももはむちっと太い。足首は細い。そこへ至る曲線は神の妙技と言うしかない。
「じろじろ見ないで」
「ミテナイヨ」
「台詞がカタカナになってるよ」
胸はでかい。ここは強調しておこう。トップスを押しあげる。
かすかにへそが見えている。くびれは細くて……。
「桜庭さんは無敵だよ」とぼくは心から言った。
「じろじろ見た後に言われるとサイテー」
「ごめん。でも今日の桜庭さんの服はエロい」
「サービス」
彼女はぺろっと舌を出した。
ぼくの彼女は無敵で最強だ。
彼氏をめろめろにさせる。
ぼくはぼくが彼女の最初の彼氏であるよう祈った。それを確かめる質問はできなかった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
男女比がおかしい世界の貴族に転生してしまった件
美鈴
ファンタジー
転生したのは男性が少ない世界!?貴族に生まれたのはいいけど、どういう風に生きていこう…?
最新章の第五章も夕方18時に更新予定です!
☆の話は苦手な人は飛ばしても問題無い様に物語を紡いでおります。
※ホットランキング1位、ファンタジーランキング3位ありがとうございます!
※カクヨム様にも投稿しております。内容が大幅に異なり改稿しております。
※各種ランキング1位を頂いた事がある作品です!
魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる