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Ⅱ‐回青の園
薬
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書斎の冷房役が要らなくなったので、俺は昼まで皆と同じ仕事に回されることになった。どこかに人手として呼ばれない分には広めの部屋に他の奴隷たちと一緒に詰められて、縄を作ったり裁縫をしたり、暑期のうちに習ったああいう仕事をする。呼ばれたら行って言いつけられた仕事をする。つまりは雑用だ。俺は主人が風呂を使うときに呼び出されて、その後はその日次第。そのまま風呂に入って使われることが多かった。
力を使わなくていい分、白奴隷はなんとなく持て余している。そしてちまちました仕事に飽きてくる。そうすると、代わり番の仕事が待ち遠しくなった。
寒期になると本当に一気に涼しく寒くなるので、基本的にはどこの冷房も要らなくなるのだが、例外が一か所ある。火を使う厨房と傷みやすい物もある食料庫の区画だ。そこには俺たちの誰かが交替で行かされた。一人のときも、二人のときもある。今日は俺とアスルさんだった。
「そういえば、今年は雪が積もるかもしれないらしいですよ」
「そんなの前もって分かるのか?」
「偉い神官様が調べて王宮とかに伝えるんだそうです。あのほら、雨が少なそうだとか、豊作になるんだ、っていうのと一緒に」
「へえ。……前の日くらいになると俺たちも分かるけどな」
「アスルさんもやっぱり雪好きですか」
「調子が全然違うからな。空から力が降ってくるみたいな」
「ですよね。大きい脈の根元に居るみたいな。降るといいなあ。……あ、でももしかして雪払いとか、俺たちがやるんですか?」
「そうだ。外から何か持ってくるとかも、言いつけられるのが増える」
「そっか……――じゃあ程々がいいですかね、あれ、大変そうだから……」
「此処は広いしな。俺たちだけでとはいかないくらい」
二人だと、話し相手がいるからいい。声の大きさに気を使えば怒られることもない。
「おい、白いの、ちょっと運ぶの手伝ってくれ」
「はい」
厨房からかかる声に二人で返事をして立ち上がる。言いつけられたのは袋に入った粉の運搬だった。少し重い、程度の布の袋を、煮炊きする竈のある側から食料庫へ運び入れる。中身は小麦粉とかではなく、スパイスのようだ。匂いがする。いい香り、というよりは、ちょっと辛いような鼻のむずつく匂い。腕に乗せて胸の前で抱え、鼻で息をするとくしゃみが出そうだった。
何の料理で使うものだろう。昔は全然想像もつかなかったが、今はちょっと分かる。あのスープは辛くて、あの粥は甘くて、そしてすっとする。ほんのちょっと、詳しいことは何も分からないが手掛かりはある。そんなことを考えていたら、入り口のところで引っかかったような感触がして腕に何か触れた。
粉。――袋が破けて、ざばと中の粉が流れ落ちて床に撒かれる。濛々と茶色い煙のようになった。
「っえ、わ」
急いで目を閉じる――よりも先に開けていられなくなった。入ったかもしれない。痛くてじわと涙が滲んでくる。息をしたら噎せた。くしゃみだか咳だかが出て、喉も痛くて、洟と涙が出てくる。
「――ハツカ?」
袋が腕から滑り落ちて床に落ちて、また粉が舞いあがったようだ。咳が止まらないし、目が痛い。アスルさんの声にも返事も説明もできない。
壁に擦ってしまったか、釘でも出ていてそれに袋を引っかけたのか、そもそも袋が駄目だったのか。分からないけど、起きた事ばかりは確かだ。粉を全部撒いてしまった。急いで片付けないと、でも。
「いっつ……」
「ハツカ、擦るな――すみません!」
ずきんとした。アスルさんの声が言うのは分かるが堪らなくて、手を顔の間でさまよわせた。手もざらついているから擦っても悪化するだけだ。どうしよう、痛い。目が開かない。
「何した! おい、洗い場、こっちだ」
「もうしわけ、ありません、」
何も、してない。はずだけど。
知らない声――さっき呼びつけた男だと思う――に呼ばれて掴まれ引っ張られ、つんのめるように足を前に出して少し歩く。行った先で屈まされて手を前に出すと、手が冷たい水に触れた。急いで目元にかけて拭ってみる。顔を洗う。ひんやりとした感触が心地いいけれど――
「う……駄目、開けてられない」
やっぱり駄目だ。まだ痛い。水に混じって涙が溢れてくる。ごしごしと色んな所を拭われたが、駄目だった。
「――どうした」
また新しい声がする。硬い声、多分、タラブ様の声だ。そう思った途端、体が竦んだ。
――怒られる。打たれる。
やっとそれに思い至った。何もしてないけど、俺が壊したんじゃなくても関係ない。奴隷が持っていた物が壊れたなら、それは奴隷が、俺が悪いんだ。
横に来る気配に身が軋む。ちかちかする視界に鈍色の軌跡が見えて、体の髄まで苛む痛みを思い出した。どっと心臓が打って嫌な汗が噴き出すのを感じた。
「香辛料の袋が破けて、被ってしまったようで……」
「……痛むのか。洗っても駄目か」
アスルさんとタラブ様の声が重なる中、ただ鞭の衝撃を待って身構えた。舌打ちが前触れのように響く。
「連れていく。お前は厨房の指示に従っていろ」
「はい」
「――ひ」
肩を掴んで立たされて、腹を打たれて跳ねあがったが、痛くなかった。今のは誰かの掌だ。打ったと言うより、はたいた。粉をはらう手つきだ。何度か続くうちに、そう正気に返る。
そうだ、此処は違う。
「お前、他にもどこか痛むのか」
「……いいえ、大丈夫です、目だけ……」
「……歩くぞ、いいな」
「はい」
此処では多分、打たれない。怒るにしても、タラブ様はそんなに鞭を使わない。それに――怖かったのはこの鞭じゃない。昔に打たれた記憶が恐ろしかっただけ。
まだ心臓がうるさい。喉や鼻はちょっとムズムズするくらいで収まっても目の痛みと動揺は引かなくて、無理に開ける視界は霞んで何度も瞬きをした。俺は何故かそこに怖いものが見えないか、目を開ける度に探していた。見えるのは、もう見慣れてきた屋敷の景色なのに。
ぼろぼろと涙が溢れてくる目元を拭って、ほとんど瞑って、俺はどこかもよく知らない場所をついていく。曲がって、一度外に出て、入って曲がって、多分全然知らない場所。タラブ様が失礼しますと声をかけて入った先は、スパイスとも違う妙な臭いがした。
何が起きるのかと身構えていると部屋の奥から見知らぬ爺さんが寄ってくる。顔をよく見る余裕もなかったが、それでも一目で分かる、歳をとった男だった。緑の帽子は、医者の証。
「おや、……あれですか、旦那様のお召の?」
「そうです。目に香辛料が入って痛むと」
「それはそれは。目を腫らしてはおけんでしょうな。――来なさい」
こんなに大きい屋敷だと、屋敷の中に医者を雇っているようだ。
医者先生に見てもらうのなんて勿論初めてで、顔を引っ掴まれて瞼を弄くられても固まっているしかない。目を開けてみろと言われるがなかなか開かない。そうこうするうちにどうするべきか分かったようで、医者の先生は棚から何か用意する。
小さな壷を棒切れで掻き回して、黄色の練り薬を掬いとるのが見えた。構えて、顔に近づけられる。……。
「……それ、目に入れるんですか」
「目の薬ですからね。目を開いてなさいよ」
怖い予感に聞くと事も無げに告げられる。おっとりした声の割に強い感じがして、でもはいと頷くには心の準備ができていないくて、俺は狼狽えた。
「待っ、ちょっと待ってください、怖い」
薬を使うなんて大層なことだし、沁みて痛いし、こんなところに何か塗るというのは怖いし、第一目は上手く開かない。
「目を開けてろと言ってる」
「む、無理……」
タラブ様も苛立ったように言い聞かせてくるが――その声が今日は妙に怖い――棒を目に入れるのはやっぱりちょっと待ってほしい。我慢するから、するけど。
「どうした」
背後で扉の開く音。主人の声がして、皺だらけの手を擦りぬけて振り向くがやっぱり上手く目が開かない。霞む視界に見えたこの屋敷で一番綺麗な格好をしている男の姿は間違いなく主人だと思うが。
医者の声が主人に説明する。目にカラシが入ったようだ、と。
「なんでまたそんな」
聞こえたのはハリュールの声だ。彼までいる。主人についてきたのか。
「運んでいた袋が破けて……」
小さく説明すると聞こえた溜息は、誰のものだろう。それ以上言うこともなかったし、細った声は続きが出てこなかった。やっぱり叱られるだろうか。
ちらりと、閉じた視界の端に鈍色が揺らいで体が硬くなった。
「……貸してください、先生」
謝ろうとしてもう一度口を開きかけたところ、がっちり顎と頬を掴まれて上を向かされた。背筋まで伸びた。
「目を開けろ。瞬きするな。私を見ていろ」
「は、い……」
主人の手、そして主人の声だった。目を開けなくては、と思う前に命令に反応して瞼が動く。無理矢理開いた目の霞んだ視界に鋭く差し込む金の光に息が詰まる。
心臓の音が聞こえる。主人が棒――ではなく棒から薬を移した指先を近づけてくる。棒よりは怖くない。いややっぱり怖いか。瞼も怯えたように震える。でも、目は閉じれない。指が近づく。涙が滲む。
「っう――」
主人の指と黄色い薬が目玉を撫でる感触に体を揺らしそうになるのを拳を作って耐えた。
左目、右目。異物感があって視界が更に曇るが、案外痛かったりはしなかった。ちょっとしみる感じがするが、カラシだかなんだかの粉のせいか薬のほうかは分からない。でも、少し楽になった気がする。それになんだか、落ち着いたような気が。
「今度は閉じていろ。……包帯でも当てるか」
言われて目を閉じると同時にぱっと主人の手が離れたが、俺はしばらく上を向いたままだった。
金の光の残像が見える。まだつんと痛む感じはあるが、それを眺めていると気が散ってよかった。
「いや、先に風呂だな。――先生、用意だけしておいてください、次は自分でやらせます」
「はい、準備いたします」
「タラブは戻って……これはそのまま風呂に連れていく」
「はい」
「ハリュール、床の掃除を言いつけておけ」
「承知いたしました」
医者と監督役と秘書と、それぞれに淀みなく命じた主人の手が俺の腕を掴むのには驚かなかった。多分こうなるだろうなと思っていて――いつかのように引かれて歩くうちに妙な不安も薄れていった。
どうやら浴室も書斎も近い場所だったらしく、少し歩いただけで慣れた水の気配がした。時間的にもそろそろ風呂に呼ばれる頃合いだったので、準備は整っていたようだ。もしかしたら主人も浴室に向かう途中でこっちに来たのかも知れない。
「誰かに嫌がらせでもされたのか」
「えっ……いえ、いいえ!」
主人が立ち止まり、腕を放して帯に手をかける。服を脱がせながらの不意の問いかけには驚いて首を振る。あれは事故だ。意地悪で細工した袋を持たされたとも思えない。
「なんだ、では本当に医者に竦んでいただけか? まったく臆病だなお前は」
「俺、そんなにびくびくしてましたか」
「今度こそ殴られでもしてきたかと思ったくらいだ。それが胡椒だか辛子だか……どうしたら自分で被れるんだ」
降ってくる呆れた声音に恥ずかしくなる。許可されていないので目が開かないが、きっと顔も呆れた雰囲気だろう。
だって、まあ薬を目につけるのも怖かったけど、何か――……
あれ。何、だったかな。
「……いえその、本当に、袋が破けてしまって」
あんなに怖い感じがしたのに、何に怯えたんだったか思い出せなくて、俺はそれきりの説明を繰り返して大人しく服を脱がされた。命じられるままに浴槽に浸かって、湯を冷ます。
髪や体にもついたらしいスパイスの粉を柔らかな手つきで洗い流されるうちに、何かは綺麗に流されてしまって、清潔な着替えを身に着ける頃にはもう、思い出すこともなかった。
力を使わなくていい分、白奴隷はなんとなく持て余している。そしてちまちました仕事に飽きてくる。そうすると、代わり番の仕事が待ち遠しくなった。
寒期になると本当に一気に涼しく寒くなるので、基本的にはどこの冷房も要らなくなるのだが、例外が一か所ある。火を使う厨房と傷みやすい物もある食料庫の区画だ。そこには俺たちの誰かが交替で行かされた。一人のときも、二人のときもある。今日は俺とアスルさんだった。
「そういえば、今年は雪が積もるかもしれないらしいですよ」
「そんなの前もって分かるのか?」
「偉い神官様が調べて王宮とかに伝えるんだそうです。あのほら、雨が少なそうだとか、豊作になるんだ、っていうのと一緒に」
「へえ。……前の日くらいになると俺たちも分かるけどな」
「アスルさんもやっぱり雪好きですか」
「調子が全然違うからな。空から力が降ってくるみたいな」
「ですよね。大きい脈の根元に居るみたいな。降るといいなあ。……あ、でももしかして雪払いとか、俺たちがやるんですか?」
「そうだ。外から何か持ってくるとかも、言いつけられるのが増える」
「そっか……――じゃあ程々がいいですかね、あれ、大変そうだから……」
「此処は広いしな。俺たちだけでとはいかないくらい」
二人だと、話し相手がいるからいい。声の大きさに気を使えば怒られることもない。
「おい、白いの、ちょっと運ぶの手伝ってくれ」
「はい」
厨房からかかる声に二人で返事をして立ち上がる。言いつけられたのは袋に入った粉の運搬だった。少し重い、程度の布の袋を、煮炊きする竈のある側から食料庫へ運び入れる。中身は小麦粉とかではなく、スパイスのようだ。匂いがする。いい香り、というよりは、ちょっと辛いような鼻のむずつく匂い。腕に乗せて胸の前で抱え、鼻で息をするとくしゃみが出そうだった。
何の料理で使うものだろう。昔は全然想像もつかなかったが、今はちょっと分かる。あのスープは辛くて、あの粥は甘くて、そしてすっとする。ほんのちょっと、詳しいことは何も分からないが手掛かりはある。そんなことを考えていたら、入り口のところで引っかかったような感触がして腕に何か触れた。
粉。――袋が破けて、ざばと中の粉が流れ落ちて床に撒かれる。濛々と茶色い煙のようになった。
「っえ、わ」
急いで目を閉じる――よりも先に開けていられなくなった。入ったかもしれない。痛くてじわと涙が滲んでくる。息をしたら噎せた。くしゃみだか咳だかが出て、喉も痛くて、洟と涙が出てくる。
「――ハツカ?」
袋が腕から滑り落ちて床に落ちて、また粉が舞いあがったようだ。咳が止まらないし、目が痛い。アスルさんの声にも返事も説明もできない。
壁に擦ってしまったか、釘でも出ていてそれに袋を引っかけたのか、そもそも袋が駄目だったのか。分からないけど、起きた事ばかりは確かだ。粉を全部撒いてしまった。急いで片付けないと、でも。
「いっつ……」
「ハツカ、擦るな――すみません!」
ずきんとした。アスルさんの声が言うのは分かるが堪らなくて、手を顔の間でさまよわせた。手もざらついているから擦っても悪化するだけだ。どうしよう、痛い。目が開かない。
「何した! おい、洗い場、こっちだ」
「もうしわけ、ありません、」
何も、してない。はずだけど。
知らない声――さっき呼びつけた男だと思う――に呼ばれて掴まれ引っ張られ、つんのめるように足を前に出して少し歩く。行った先で屈まされて手を前に出すと、手が冷たい水に触れた。急いで目元にかけて拭ってみる。顔を洗う。ひんやりとした感触が心地いいけれど――
「う……駄目、開けてられない」
やっぱり駄目だ。まだ痛い。水に混じって涙が溢れてくる。ごしごしと色んな所を拭われたが、駄目だった。
「――どうした」
また新しい声がする。硬い声、多分、タラブ様の声だ。そう思った途端、体が竦んだ。
――怒られる。打たれる。
やっとそれに思い至った。何もしてないけど、俺が壊したんじゃなくても関係ない。奴隷が持っていた物が壊れたなら、それは奴隷が、俺が悪いんだ。
横に来る気配に身が軋む。ちかちかする視界に鈍色の軌跡が見えて、体の髄まで苛む痛みを思い出した。どっと心臓が打って嫌な汗が噴き出すのを感じた。
「香辛料の袋が破けて、被ってしまったようで……」
「……痛むのか。洗っても駄目か」
アスルさんとタラブ様の声が重なる中、ただ鞭の衝撃を待って身構えた。舌打ちが前触れのように響く。
「連れていく。お前は厨房の指示に従っていろ」
「はい」
「――ひ」
肩を掴んで立たされて、腹を打たれて跳ねあがったが、痛くなかった。今のは誰かの掌だ。打ったと言うより、はたいた。粉をはらう手つきだ。何度か続くうちに、そう正気に返る。
そうだ、此処は違う。
「お前、他にもどこか痛むのか」
「……いいえ、大丈夫です、目だけ……」
「……歩くぞ、いいな」
「はい」
此処では多分、打たれない。怒るにしても、タラブ様はそんなに鞭を使わない。それに――怖かったのはこの鞭じゃない。昔に打たれた記憶が恐ろしかっただけ。
まだ心臓がうるさい。喉や鼻はちょっとムズムズするくらいで収まっても目の痛みと動揺は引かなくて、無理に開ける視界は霞んで何度も瞬きをした。俺は何故かそこに怖いものが見えないか、目を開ける度に探していた。見えるのは、もう見慣れてきた屋敷の景色なのに。
ぼろぼろと涙が溢れてくる目元を拭って、ほとんど瞑って、俺はどこかもよく知らない場所をついていく。曲がって、一度外に出て、入って曲がって、多分全然知らない場所。タラブ様が失礼しますと声をかけて入った先は、スパイスとも違う妙な臭いがした。
何が起きるのかと身構えていると部屋の奥から見知らぬ爺さんが寄ってくる。顔をよく見る余裕もなかったが、それでも一目で分かる、歳をとった男だった。緑の帽子は、医者の証。
「おや、……あれですか、旦那様のお召の?」
「そうです。目に香辛料が入って痛むと」
「それはそれは。目を腫らしてはおけんでしょうな。――来なさい」
こんなに大きい屋敷だと、屋敷の中に医者を雇っているようだ。
医者先生に見てもらうのなんて勿論初めてで、顔を引っ掴まれて瞼を弄くられても固まっているしかない。目を開けてみろと言われるがなかなか開かない。そうこうするうちにどうするべきか分かったようで、医者の先生は棚から何か用意する。
小さな壷を棒切れで掻き回して、黄色の練り薬を掬いとるのが見えた。構えて、顔に近づけられる。……。
「……それ、目に入れるんですか」
「目の薬ですからね。目を開いてなさいよ」
怖い予感に聞くと事も無げに告げられる。おっとりした声の割に強い感じがして、でもはいと頷くには心の準備ができていないくて、俺は狼狽えた。
「待っ、ちょっと待ってください、怖い」
薬を使うなんて大層なことだし、沁みて痛いし、こんなところに何か塗るというのは怖いし、第一目は上手く開かない。
「目を開けてろと言ってる」
「む、無理……」
タラブ様も苛立ったように言い聞かせてくるが――その声が今日は妙に怖い――棒を目に入れるのはやっぱりちょっと待ってほしい。我慢するから、するけど。
「どうした」
背後で扉の開く音。主人の声がして、皺だらけの手を擦りぬけて振り向くがやっぱり上手く目が開かない。霞む視界に見えたこの屋敷で一番綺麗な格好をしている男の姿は間違いなく主人だと思うが。
医者の声が主人に説明する。目にカラシが入ったようだ、と。
「なんでまたそんな」
聞こえたのはハリュールの声だ。彼までいる。主人についてきたのか。
「運んでいた袋が破けて……」
小さく説明すると聞こえた溜息は、誰のものだろう。それ以上言うこともなかったし、細った声は続きが出てこなかった。やっぱり叱られるだろうか。
ちらりと、閉じた視界の端に鈍色が揺らいで体が硬くなった。
「……貸してください、先生」
謝ろうとしてもう一度口を開きかけたところ、がっちり顎と頬を掴まれて上を向かされた。背筋まで伸びた。
「目を開けろ。瞬きするな。私を見ていろ」
「は、い……」
主人の手、そして主人の声だった。目を開けなくては、と思う前に命令に反応して瞼が動く。無理矢理開いた目の霞んだ視界に鋭く差し込む金の光に息が詰まる。
心臓の音が聞こえる。主人が棒――ではなく棒から薬を移した指先を近づけてくる。棒よりは怖くない。いややっぱり怖いか。瞼も怯えたように震える。でも、目は閉じれない。指が近づく。涙が滲む。
「っう――」
主人の指と黄色い薬が目玉を撫でる感触に体を揺らしそうになるのを拳を作って耐えた。
左目、右目。異物感があって視界が更に曇るが、案外痛かったりはしなかった。ちょっとしみる感じがするが、カラシだかなんだかの粉のせいか薬のほうかは分からない。でも、少し楽になった気がする。それになんだか、落ち着いたような気が。
「今度は閉じていろ。……包帯でも当てるか」
言われて目を閉じると同時にぱっと主人の手が離れたが、俺はしばらく上を向いたままだった。
金の光の残像が見える。まだつんと痛む感じはあるが、それを眺めていると気が散ってよかった。
「いや、先に風呂だな。――先生、用意だけしておいてください、次は自分でやらせます」
「はい、準備いたします」
「タラブは戻って……これはそのまま風呂に連れていく」
「はい」
「ハリュール、床の掃除を言いつけておけ」
「承知いたしました」
医者と監督役と秘書と、それぞれに淀みなく命じた主人の手が俺の腕を掴むのには驚かなかった。多分こうなるだろうなと思っていて――いつかのように引かれて歩くうちに妙な不安も薄れていった。
どうやら浴室も書斎も近い場所だったらしく、少し歩いただけで慣れた水の気配がした。時間的にもそろそろ風呂に呼ばれる頃合いだったので、準備は整っていたようだ。もしかしたら主人も浴室に向かう途中でこっちに来たのかも知れない。
「誰かに嫌がらせでもされたのか」
「えっ……いえ、いいえ!」
主人が立ち止まり、腕を放して帯に手をかける。服を脱がせながらの不意の問いかけには驚いて首を振る。あれは事故だ。意地悪で細工した袋を持たされたとも思えない。
「なんだ、では本当に医者に竦んでいただけか? まったく臆病だなお前は」
「俺、そんなにびくびくしてましたか」
「今度こそ殴られでもしてきたかと思ったくらいだ。それが胡椒だか辛子だか……どうしたら自分で被れるんだ」
降ってくる呆れた声音に恥ずかしくなる。許可されていないので目が開かないが、きっと顔も呆れた雰囲気だろう。
だって、まあ薬を目につけるのも怖かったけど、何か――……
あれ。何、だったかな。
「……いえその、本当に、袋が破けてしまって」
あんなに怖い感じがしたのに、何に怯えたんだったか思い出せなくて、俺はそれきりの説明を繰り返して大人しく服を脱がされた。命じられるままに浴槽に浸かって、湯を冷ます。
髪や体にもついたらしいスパイスの粉を柔らかな手つきで洗い流されるうちに、何かは綺麗に流されてしまって、清潔な着替えを身に着ける頃にはもう、思い出すこともなかった。
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