翡翠の環−ご主人様の枕ちゃん

綿入しずる

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Ⅱ‐回青の園

二人ⅱ

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 ビリムの顔は聞いていたとおり痣とかはできていなくて、少なくとも見える範囲、腕や足も大丈夫そうだ。俺を見ていた薄青の目を主人へと向け直して姿勢を整える。
「……お待たせいたしました。御用はなんでしょうか」
 彼は言葉遣いはともかく、俺が知っているのとあまり変わらないぶっきらぼうな響きで言う。また心臓が早くなってきてうるさい。それでも、近くの主人の声はよりはっきりと聞こえた。
「なに、いつもと変わらん。久しぶりにお前の声を聞こうと思ってな。……その前にこちらへ来い」
「はい……?」
 さらに近くへとビリムを呼び寄せる。ビリムも奴隷がもう一人いることに嫌な予感があるのかも知れない。どこか訝しげに俺のほうも窺ってそれでも抗えずに数歩、また数歩と踏み出す。
 手の届く距離、招いていた手がビリムの顔へと伸びた。
 ――ああ、嫌だな。
「っ――」
 途端、ビリムが一歩下がる。素早い動きだった。手が触れる前に怯んで退いた。踏み出したのではなく逆に足を下げた、半端な姿勢で固まっている。
 意外なことに、俺はぽかんとした。
「顔は華やかだが。馴れない犬猫のようだな」
 主人が評するとおりだ。綺麗な猫あたりが寛いでいたところ、触ろうとしたら警戒して立ち上がったみたいな。
「急に、なんですか。俺にまでそういうことさせる気ですか」
 ビリムが唸るように低く小さな声で問うのに、あれ、と思う。そういうと言われているのは俺だろう。
「お前も来るか? まだ隣が空いているぞ」
「無理です!」
「こらお前」
 主人が俺が居るのと逆側の布団を叩いて呼ぶのには咆えた。ハリュールの嗜める声が飛んでくる。ハリュールは鞭を持っていないが、タラブ様なら叩いていただろう。なにせ主人の前で、主人に対してこんな口のきき方。
「ハリュール、お前はどうだ」
「遠慮致します。自分にも荷が重い」
 だがハリュールも大概だった。主人の冗談――だと思う――に普段の間合いと調子でさらりと応じてしまう。
「こんなところに来てくれるのはお前だけらしいぞ」
 主人が笑うと体の揺れが伝わってくる。二人が拒否して辞するそんな距離にいることが、なんだかとんでもないことのような気がしてきた。
 いや俺だって前は、最初は確かにそう思っていたんだけど、今は慣れてしまったのだ。ここが俺の場所。主人の横や上。それは、こうして他の人に見られるとたまにちょっと恥ずかしいけど、主人が求めるのだから仕方がないと。
「ではそれを除けていつものとおりに。お前も聞いていけ」
「はい、ありがとうございます」
 ハリュールが主人の指示を受けてついたてをずらすと、ベッドの上に居てもテーブルや部屋の景色が見えるようになって部屋が更に広々と感じられる。そうして場所を空けた人が今度は断らずに椅子のひとつにすっと腰掛けて、さりげなく主人に触れられる距離から逃げていったビリムだけが立って取り残される。
 俺ならきっともっと所在なさそうに落ち着かなくしているだろうに、少し不満そうな顔のビリムは堂々と立っていた。ハリュールが座るのを待って、主人を見て、主人が頷くともっと見事に姿勢を正す。縮こまるのではなく、足を少し開いて前で手を組む。目を閉じた。
 これから何が始まるのかと俺が再び身構える前に、深く息を吸い――吐くのはのびやかな声になって部屋に響いた。突然のことに驚き瞬く間に、歌になる。
 ビリムが歌っている。
 そうびのつゆをつらねおとめのかみかざり……俺は歌や楽なんて全然知らないけど、声が音を辿るのはそこらの宴会で聞こえていた歌よりずっと上手いんじゃないだろうか。響く声が気持ちよい。惚れ惚れする。
 こいつ顔もいいけど、声もよくて歌も上手いんだ。声を聞くってもしかして、本当に声を――歌を聞くと言う意味か? それだけの?
 主人がとんと調子をとるように俺を抱えた手を動かした。窺うと、ビリムを眺める横顔が見えた。
「以前に隠れて歌っているところを見つけてから、たまに歌わせている。それだけだ。まあ愛でているといえば愛でているのだろうが」
 奴隷は大っぴらに歌なんて歌えない。遊んだりできない。けど、目を盗んで遊ぶことはある。ビリムもそうだったんだろう。もしかしたら仕事中の暇に、奴隷部屋の奥で、こっそり歌っていたのかも知れない。そこを主人か誰かに見つけられた。
「……伽はしていないんですか?」
 歌の最中にも淡々と説明する主人に、俺は迷ってこそと小さな声で訊ねた。金の目がこちらへ降りてきて、ふと笑う。
「さっきの様を見ただろう。尻に触れたら引っ掻かれそうだな」
 正直、主人がそれくらいで手を引っ込めるとは思えないけれど。確かにあれ以上したら逃げたり暴れたりしそうな雰囲気だった。勿論命じれば首輪が従えるだろうが――
 なんだ。俺やファロの勘違いだったのか。なんだ、そうか。
 思う間に、また唇が額へと降ってくる。柔らかく優しい接吻と、声。
「お前とは違う。――そういう顔のほうが好みだ。あまり不安がるな」
 俺は今どんな顔をしているのだろう。さっきと違うことだけは分かる。気が抜けた。
 もっと喜んでみせるべきなのかどうか、ちょっと悩んだけど。主人の唇が虫食い痕を辿り始めて、手も服の上から腿を撫でてきたので考えられなくなってしまった。咄嗟に手が出て主人の手を押し留める。
「ご、しゅじんさま、」
「なんだ、覚悟したのではなかったのか」
 していたけど、実際やられるとやっぱり。
「仲間に見られるのは嫌か」
「当たり前じゃないですか……」
 というか普段は言えないけれど、人前では嫌だ。誰かが隣の部屋に居るのも、本当は嫌だ。声とか……聞かれたりとか、後で考えると眩暈がする。
 しかし今のところ、集中しているのかそうして無視しているのか、目を閉じたままのビリムは歌い続けている。貴族や富豪が聞く物語りのような歌は長いのだと聞いたことがある。どれほど長いのかは知らないけど――ビリムは詰まることがないので驚くばかりだ。
「拒むお前も楽しいが、歌の最中だ。今日は勘弁してやろう。――折角だから酒でもやるか、ハリュール」
 主人の振る舞いに慣れたハリュールもまたこちらのことなど気にせず歌を聞いているように見えたが、呼ばれるとすぐに立ち上がった。部屋の隅、壁の棚に置かれている丸い瓶とグラスを取りに行くのは他の使用人たちと同じ慣れた所作だった。
 ハリュールはちらと俺を見て、目が合うと口の端を上げた。高い酒の相手をできて嬉しそうだ。
 葡萄酒は俺たちにも分けられて、歌三つ分、小さな宴会のような催しは続いた。本当にそれだけでビリムはハリュールに連れていかれて部屋を後にし、俺も特に何もされなかった。
 主人は、俺が思っていることはすぐに見通して、奴隷の悩みなど些細なことは簡単に取り除いてしまうのだ。この人の傍なら本当に何も悩まず、不安に思うことなど無いのかもしれない。
 午睡に微睡む主人の胸に頭を載せ、やっぱりここで落ち着いてしまう変わりきった自分はビリムとは逆に慣れた猫のようだったりするんだろうかと考えながら、俺は数日ぶりの軽い心で主人の寝顔を眺めて過ごした。
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