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Ⅰ‐翡翠の環

文字

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「奴隷の格は主人の格とも申します。当家の奴隷であるからには、相応の振る舞いを。まして主人のお傍にとなれば一層に」
 夕食の席には従者の中で一番偉い――家令というのだと最初に説明してくれた――ヌハスという老人が現れて、主人に給仕をしながら俺についてあれこれと話し始めた。
 読み書き、計算、暦の知識、今の生活ややれることについてを細かく確認された。主人以外とこんなに喋ったのは久しぶりだ。
 一通り済んだところで俺も並んだ料理を食べるよう促されたが、彼はずっと目をこちらに向けて俺の動きを確かめたので、いつもよりさらにぎこちなく口に運んだ。食器の使い方は教えてもらったが、上手くできているかは自信がない。最近はようやく主人と変わりのない時間で食べきれるようになったが、急いでいるせいもあって皿の上はあまりきれいではないことも多い。初めて見る食べ物もまだ多くあった。
「ご要望の読み書きなどは徐々に。まず重点は作法と言葉づかいでしょうか。所作が整えば見違えましょう。ご寵愛のお陰で見目は随分よくなっていますが……ああ、身支度も自分でやってもらいますので今後手を出しませんように」
「……仕方がない。思ったより早かったな」
「甘やかすのと愛でるのは違います」
「知っているから暫く待てと言ったんだ」
「まあ飼い殺しにしなかっただけよしとは思っておりますがね。ハリュールは本当に気にしていましたよ。あまりに傾倒してらっしゃると。昨夜も何やら荒れてのご帰宅だったとか」
 どうも話しぶりからして、元から俺には色々と教える予定だったらしい。それなら早くしてくれればよかったし、早いほうがよかったんじゃないかとも思う。それこそ首輪を替えたりする前に。
 でも仕事の手順などはともかく、何か教えてもらうというのも奴隷には滅多にないことで。特に文字なんて一生読めずに終わると思っていたから興奮した。
 寒期バラドの仕事とかはいいのだろうかと思ったが、もしかしたらそれにも必要なのかもしれない。なにせこんなに大きな家だ。本来ならもっと高い奴隷を買ってるはずの。翡翠の環に釣り合う奴隷というのなら、それ以上に勉強しないといけないのだろう。本当に覚悟しないといけないのかも。
 不安もあるがそれ以上に期待があって、全然嫌ではないのが自分でも驚きだ。
 
「読み書きも教えてもらえるんですか」
 夜、寝間着に着替えたところで問う声は自分でも弾んだ響きに聞こえてちょっと恥ずかしい。
 あのあと家令と主人は難しいことを話していたのもあり、俺の頭はずっとそのことでいっぱいだった。
「なんだ、そんなに嬉しいのか」
「はい。数が読めて数えられればそれで十分だって言われて……教えてくれようとした人もいたんですが、すぐに別れてしまって」
 下等奴隷の中でも文字を読める人はいるにはいたが、主人の目を盗んで教えるのは難しい。特に奴隷が知恵をつけるのを好まない主人だと最悪で、死ぬほど鞭に打たれたりする。だからただ憧れるだけだった。
 こんな機会があるなんて。勇気を出して主人に言ってよかった。そう思って頬が緩むのが抑えきれない。
「では触りを教えてやろうか」
 主人は目を細めて言って立ち上がり、棚から文箱と紙を取りだして一枚、書きつけて持ってきた。渡される薄茶色の紙。まだ乾ききっていないインクの痕、沢山の文字だろうものが並んでいる。まだ何も分からない。
 主人はいつものように俺をベッドへと手招く。俺はそれを手にしたまま、靴を脱いで主人の横へと寝そべった。
「これはなんて書いてあるんですか」
「意味はない。一覧だ。……文字を……覚えるときに使う順番とでも言うか」
「そんなのがあるんですね」
 俺を横に抱えて涼みながら。いつもなら何か読み始めるところ、主人は奥の棚に置かれた巻物を手にすることはなく、俺が持っている紙へと手を持ち上げた。
「全部で二十九。音を表し、その組み合わせで単語になる」
 言って、並んだ順に一字ずつ指差して声にする。一巡では正直さっぱりだった。横から聞こえてくる主人の声も呪文のようで、響きだけ覚えることもできない。
 次に飛び飛びに四つを示して声を発し――し、ろ。
「これで白だ。……絵つきにでもしないと、これだけでは覚えられんな」
 瞬き、急いで指の動きを思い出して確かめ頭の中で文字を並べる。これで、しろ。白。そんな風にはまったく見えない。でも白になる。不思議なものだ。
「これ、あの……頂いていいですか?」
「……構わん。もっと分かりやすいのを誰かが持ってきてくれるだろうが」
 ああ、これは貰っていいんだ。俺の物なんだ。隠し持たなくても、こうやって、主人自ら教えてくれる。大事にしよう。早く全部覚えよう。
「ありがとうございます。頑張って覚えます」
 もう一回、二回。主人の手が動いて、声がして、すべての文字を音にする。その呪文は少し頭に入ってきた気がするが、まだ目の前のかたちとは結びつかない。
 そういえばと手に描かれた模様を見た。赤い線は文字として見えるところあるような気がする。今度は俺の手の上を主人の指が辿った。
「リーシャット、触れるべからず。お前は私のものだと書いてある」
 やっぱり文字だった。まだどこまでがどの音かも判然としないけれど、これが主人の、この家の名前の形。
「こっちは文字じゃないんですか」
「これはジャルサの羽。私の紋だ」
 羽のようなと思っていたのは本当に羽で、たしかに護符だった。俺と同じで見て分からない奴隷には効かなかったけれど、ただ綺麗なだけじゃなくてこっちにも意味があった。きっと文字と同じでそういうものが沢山あるんだろう。俺たちのような奴隷には分からないもの。それも、勉強すれば分かるようになるだろうか。
 手を見ながらリーシャットの文字を紙の中から探して、指差して一字ずつ確かめて。
 主人の指と声が教えてくれる。もう一度最初から。その後、俺の名前や色の名前も指が辿り、ゆっくりと声にする。世界のことすべて、今話していることもこれで表せるのだ。
「――そろそろ寝るぞ。お前も明日から扱かれるから寝ておいたほうがいい。今日のように居眠りをしたら鞭を打たれる」
 色の名前を十も並べたあたりで、主人が紙ではなく俺の頭に触れて言った。
 打たれるときの痛みを思い出してどきりとした。此処に来てからはそんな扱いを受けたことはないが、普通は仕事の覚えが悪いと叱られるし、居眠りも勿論殴られて飯抜きだ。
 物を覚えるのは大変だ。文字なんて、この紙を隠してしまったらすぐに思い出せなくなる。きっと怒られてしまうこともあるだろう。
 でも、楽しみだった。
 主人が紙を丸めて紐をかけ、巻物の上に置く。この部屋に俺の持ち物ができるなんて思いもよらなかった。今日はすごい日だ。
 主人の腕の中、なかなか寝つけなかったけれど、こんな風に浮き立った気持ちで寝られないというのは久しぶりで――今までだって贅沢に感じていたよい匂いのするふかふかの寝床が本当に嬉しくて心地良く、きっと俺は今幸せなんだなと思った。
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