ご主人様の枕ちゃん

綿入しずる

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Ⅰ‐翡翠の環

夜会ⅰ

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 きっかけは秘書が持ってきた手紙だったのだと思う。主人の元には毎日何通も手紙が届いていて、書斎に入って初めに解いて読んではあれこれと言いつけたり眉間に皺を寄せたりする様を俺もカーテン越しによく見ていた。
 ただその日は、最後の手紙のときに金の目が俺のほうを見た。目が合ってカーテンの中で固まる俺に気づいたのかどうか。主人は秘書に言いつけた。
「アダーブ殿の夜会に行く。明後日だ。あれを連れていく」
「……今回は急ですね」
「服と……装飾品も用意するか。服は黒にしろ」
「手配いたします」
 夜会と聞こえた。貴族の集まりだろうとは思うが一体何をするのか。そして、あれを、とは、俺をだろう。服と装飾品を用意して、白奴隷アラグラルを。単に暑いからだとは思えない。
 俺には何の説明もないまま、主人たちのいつもの仕事は始まってしまった。一度ハリュールは出ていったが主人は机で書き物をしていたので声はかけられず、俺は夜会という言葉だけを何度も胸の内で繰り返すことになった。
 ここまで休憩の時間を望んで待ったのは初めてだろう。部屋を涼しく保ちながら、俺は主人や秘書が物を取りに動くたびに、仕事に区切りがついたのではないかと窺った。なかなか、いつものように落ち着いて目を閉じることはできなかった。
 ようやく休憩と聞こえたときも、そわそわとカーテンの中で主人が向かってくるのを窺ってしまった。開けられるのを待って立ち、外に出る。長椅子まで引いていかれて、座ると膝に主人の頭が載る。
「あの……先程の、夜会というのは」
 膝枕をして手を差し出したところでそっと問うてみると主人の口角が上がった。
「財政大臣の催しだ。奴隷を使って遊ぶ。お前はそういう宴に覚えはないか」
「ありません……」
 いつもどおりの明瞭な声での説明。ざいせいだいじんという耳に馴染みのない響きも何か御大層なことしか察しがつかないが、何よりその後が問題だ。
 奴隷を使って遊ぶ、なら、白奴隷ではなく性奴隷では。宴会で飲み物を冷やしたりするのはともかく、そんなのは俺に縁があるわけなかった。
 そんなところに連れていかれて、俺はどうなるんだろう。それは訊いてもいいんだろうか。なんて、惑っていた俺の沈黙は次の主人の言葉で破られた。
「大方お前の顔を確かめたいのだろう」
「なんで俺の」
 思わずと口を突いた言葉は乱暴な響きになって慌てるが、主人が気にした様子はない。ただ、目の上に置いた手がずらされて、顔が見える。俺に向けて手が伸びてくる。
 手は顔ではなくその下の、翡翠の環に触れた。
「首輪をつけに行ったから噂が立ったらしいな」
 主人が目を細める。俺は、睨みつけているのではないだろうか。主人に向けて大丈夫な顔をしているだろうか。
 あの店の術師たちと同じだ。こんな首輪をつけられたのがどんな奴隷か、値踏みしようってわけだろう。主人がそんなに――可愛がっている奴隷は、一体どれほどよいものなのか。
 どんな美しい、上等な奴隷だと思われているだろう。どれだけじろじろ見られて、悪いほうに驚かれるのだろう。そしてどんなことをする場なのか、されてしまうのか。
 行きたくない。でも。
「どうせ一度くらいは行かねばならん。今のうちに腹を括ったほうが楽だ」
 主人の言葉は諭すようだが、元より俺に拒否権なんて存在しない。奴隷が主人に逆らえるわけなどないのだ。

 その日は風呂に入ってもただ洗われるだけで、浴室を出た先にはいつもより多くの人たちが待っていた。ハリュールまで居る。
 いつもなら主人か自分でやるところ、召使に拭かれて、体中に花水を塗られ、服を着せられた。主人より手早く嫌がる暇さえない。
 それまで着ていた白っぽい服ではなく、黒地に銀で刺繍があるより高そうな、でも薄っぺらな肩のところがない服だった。薄いと言っても肌触りはすごくよいが、なんていうか心許ない薄さで肌が透けそうで、俺が痩せぎすなのがよく分かる。脇のところも広く開いていて着ている癖にどうもすかすかする。此処に買われて、しっかりした服を着せてもらえる生活に大分慣れていたと気づいた。
 主人は主人で、離れたところで髪を乾かして外出着を着付けさせている。待つつもりでそちらを窺っていたら引っ張られて、椅子に座らされた。三人もの女に囲まれて縮む腕を伸ばされる。
 髪の水気をまた入念に拭きとり、丁寧に梳いて香油をつけられる。と同時に、手に細い筆が向けられた。薄墨で何か模様なのか文字なのか、鳥の羽のようなものを、両手の甲から肘のあたりに向かって描かれた。擦らないようにと言いつけられ、大人しく手を伸ばしたまま乾くのを待つ。
 そのうちに、顔に粉をはたかれた。香りはいいが煙たくて、胸の辺りまで筆が滑るのでくすぐったい。目を開けると、虫食い痕が少し薄くなっている。手に引かれた線も赤っぽく変わり始めていた。
「飾りはこちらに」
 ハリュールの声にはたとする。こっちに向かってくる主人はすっかり着替え終えていて、刺繍で襟に飾りのついたシャツの上に黒衣を羽織り、深い青に銀の帯を締めていた。丁寧に撫でつけた髪を纏めて、指輪や髪留めにも宝石が見えて、いつもよりさらに立派に見える。立ち上がろうとすると横に居残っていた召使にまだだと止められた。
 主人に向かって、ハリュールが手にしていた箱の蓋を開ける。中は玻璃ガラス……ではなく宝石だろうか。透明な物と、緑の物。青っぽいのから草色まで色々あったので一種類ではないのかもしれない。つやつやきらきらとしていて、まさしく宝石箱だった。
 その中から透明な、水晶か何かの連なった物を主人が取り上げた。ハリュールが受け取ろうとしたのを制して主人が近づいてくる。俺の前で屈みこむ。
 左足を掬って足首に宝石の鎖が留められる。近くで見るとそれには少し、緑の石も混ざっていた。色が違うので翡翠ではなさそうだが勿論自信はない。
 きらきらと、窓から差し込む光を反射している。とても高そうで綺麗だったが――こちらを見た主人の目のほうが、光が強い。
「……枷ではない。まあ模した物ではあるが、最近の流行でな。ただの飾りだ。……これもな」
 再び立ち上がった主人は鎖で繋がった銀の環を俺の手に付けた。
 動くのに邪魔くさいだけの細い細い鎖が繋ぐ、細い綺麗な環。両手に嵌めるとたしかに華奢ながら枷のようで、でもやはり飾りだろう。首輪と違って何の拘束力もない。長さがあるから手はほとんど自由に動かせるし、俺でも千切れそうだった。
 それがどうやら仕上げだった。靴はなし。俺は立つことを許され、帯に剣を差し帽子を被った正装の主人に導かれて外へと向かった。馬車に乗り込み、召使たちに見送られる。
 色々なものが押し寄せてくる身支度の時間が過ぎて、不安と憂鬱さが戻ってきた。これから行く先で何があるだろう。首輪を替えたときよりも断然、恐ろしかった。
 動き始めた馬車の座席で、主人が俺の体を引き寄せる。着込んでいるから暑いのだろう。いつものように冷やすのに意識を注いで気を逸らそうとするが、夜会とやらだからか使っている香水がいつもと違って、違う匂いがするのにまた気が散った。
「……着いたら、俺は何をするんですか」
 やはり確かめずにはいられなかった。酒でも冷やしていろと言ってほしいと思って訊いたが、主人の答えは意外なものだった。
「何もしなくていい」
 ぽかんとする。
 何もしなくていい、なら、連れていかれる意味は何だろう。結局主人を冷やしているだけでいいなら気楽でいいが。
「出される食べ物や酒は口にするな。煙管パイプも吸うな。声をかけられたらその手を見せろ。けっしてついていくな」
「はい……」
 続く言葉は何をするではなくしてはいけない尽くし。決まりを破ったら帰れなくなる魔法の国の話でもされているようだった。
 よく分からないが返事をして、声に出さずに繰り返す。飲み食いしない、煙管にも触らない。手を――描かれたものを、だろう――見せる。手の他はいつもと変わらない。勝手にできる身分ではないのだから。
 視線を落とす。赤く残った羽のような模様は綺麗で、自分の手ではないようだった。祭や祝い事のときにこういう風に肌を飾るのを見たことがあるが、こんなに近くでまじまじと見るのは初めてだ。
 視界に現れた主人の手が模様の一部を撫でる。乾いた線は擦っても消えなかった。溜息が聞こえて慌てて顔を上げた。
「差し出すつもりもないし、手出しもさせんが。味方だけというわけでもないしな。趣味の悪いのもいる」
 主人は俺と同じように、手に描かれたものを眺めていた。
 手を握られるが、言葉には逆に不安が増した。この主人が言うほど趣味が悪いというのはどんなものだろうか。
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