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Ⅰ‐翡翠の環

市場

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「それはあくまでお前の飾りだが、今日は何か買ってやろう。折角の外出だ」
 つまり首輪とは別に何か与えると、主人はそう言って機嫌よく馬車へと戻った。俺も今度は自分で歩いて、やはり値踏み品定めするような術師の視線から逃げた。
「ディバに寄る」
「は。歩かれますか?」
「ああ。これも連れていくから支度をしてくれ」
 待っていたハリュールに言いつけている、ディバ通りは聞き覚えがある。こういうところではなく、もう少し庶民的な店が集まる屋根つき市場の大通りだ。貴族もそんなところで買い物をするのか、と思う間に、話が俺のほうへと飛んできた。
「分かりました、用意致します。お待ちください」
 言って、ハリュールは俺を車の中へと促した。主人は乗らずに、俺だけが押し込められて彼も乗ってくる。手際よく荷物置きから袋を出して広げるのは――どうやら薄い外套のようだ。
「あの、ハリュール、様」
 主人は外に居る。そんなに離れてはいないだろうがどうしても確認したくて、小さな声で秘書のほうに話しかけてみる。ぎょっとしていたが、構わず続けた。
「ご主人様は他の奴隷にもこんな首輪をつけているんですか」
 つけられたばかりの翡翠の環は、触れて示すとひんやりとした。鉄とは違うなめらかさが、まだ落ち着かない。
 ハリュールは数秒、首輪を見つめて息を吐いた。
「……そんなわけないだろう。普通の、家の印がついた首輪だけだ。お前は旦那様の特別だ」
 囁く程度の声には同じ声量で返事があった。怒られずに教えてもらえたことにほっとする反面、その中身には気が重くなった。普段俺などにはよく分からない難しい話をしている人はさすがだ。曖昧な質問にも的確に答えてくれた。
 そんな気はしていたが、やっぱり俺は普通の奴隷の扱いをされていない。性奴隷とかそういう話じゃなくて。
 この翡翠の環は、特別。俺が貰ったわけではないにしても。
 主人はこんなに俺に使って、、、どうしたいのだろう。
「あまり話しかけてくれるな、旦那様の機嫌を損ねたくない。ほら被れ」
「すみません」
 濃灰色の外套は被って着るかたちで大きく、頭を突っ込まれて整えると腰のあたりまですっぽりと入ってしまった。頭巾を被せてその下に面紗ベールも留められる。奴隷の姿を隠す為の物だ。これなら白い髪も、首輪も見えない。ついでに虫食い痕も。
 外から撫でつけ整えて、僅かな時間で俺の身支度を終えたハリュールはカーテンを開け外へと出た。入れ替わりに主人が乗って、すぐに馬車が動き出す。
「市場に行ったことはあるのか」
 さっきの会話は聞こえていなかったのか特に叱られるようなこともなく訊ねられて、少し考えた。
「働いたことがあります。店とか、外出の付き添いも何度か」
 水や商品を冷やしたりしたことも、今日のように金持ちの外出に付き添ったことも、もっと若い頃にはあった。多少街の様子などが見られるので楽しかったような気もする。
「物を買うなどしたことは?」
「小さい頃に、菓子を買ってもらったことはあります」
「……主人に?」
「はい。子供だとけっこう、そういうことがあります」
 そういうことも時折あった。主人の気まぐれで菓子や食事を貰えるのは、大体子供だ。
「そうか。今日は菓子でも酒でも……お前、酒は飲めたか?」
「いえ、飲んだことないです」
「では酒も帰ったら飲ませてやろう」
 この主人は、菓子も酒も、子供でなくとも俺に与えて――いや、使うという。俺を肥えさせて食うわけでもないだろうに。肉をつけさせるにしても、こんなにいい餌でなくてもいいはずだ。
 今度はそんな短い会話の内に馬車が止まって、扉が開けられた。雑踏の気配。スパイスの匂いが鼻に触れた。
 青いタイルで飾られた大きな壁、門のような市場の入り口に着いていた。俺にはろくに見分けがつかないけど、ディバ通りだろう。巨大な氷室の入り口のようにアーチが口を開けている。その奥に、ずらりと商店が立ち並んでいる。この街でも大きな固定市だ。
 ハリュールと馭者の横に、いつの間にか従者が二人も増えていて驚いた。目立つところに剣を差しているから護衛だろうか。多分気づかなかっただけで馬車の陰に居たんだろう。
「今度は自分で歩けよ。欲しい物を見つけたら声をかけろ」
 主人はからかう言葉だけ紡いで腕をとらなかったが、俺は大体いつもと同じ左後ろについた。護衛の一人が先に歩き出し道を作るが、屋敷の中と違って誰も端にまでは避けないで近くを擦れ違っていくので、歩調はいつもよりのんびりとしていた。
 スパイス、果物、パン、漬物。食べ物を扱う店が多く、その間に食器や小さな玩具の店も見えた。柱の下では露天商が煙管や装飾品を並べている。
 目に入る景色は鮮やかで色々と気になる物はあっても、自分の手に入るという目で見たことがなかったから、どれか欲しいとかは分からなかった。子供の頃は何かあった気がするが、今は。
 まだ腹だって空いていない。以前は日に一食あればよく、多くても二食という生活をしていたが、主人が朝夕、間に休憩や午後の軽食も挟むので食べる量や回数はとても増えていて、今日も朝たっぷりと食べさせてもらっている。
 今の俺は何が欲しいだろう。衣食住足りて、かつて願っていたものは全部ある。これ以上に何を?
「ハリュール、お前も何か買っていいぞ。土産の一つや二つ、偶にはいいだろう」
「では酒をいくらかよろしいですか。皆で飲みます」
 主人の逆側を歩くハリュールが嬉しそうに、いつものはきはきとした調子で答えるので少し焦った。もしかして早く何か決めなければいけないだろうか。それならなんでもいいが、咄嗟に見た先は肉を吊って売っていたり鍋を積んでいたりで、さすがにあれをと言うのは違うだろう。
 焦っても決めかねて人混みでよく見えなかったりもして、俺は声を発せないまま。人の話し声や呼びこみが聞こえる中をゆっくりと進んで、光が落ちる窓の下をいくつも通り過ぎる。
 甕を積んだ酒屋に寄って酒を買うのを眺めた。まるで宴会の買い物だった。アザラン酒を甕ごと、屋敷に届けるように。ハリュールとヌハス――ハリュールの先輩らしい人の分には別に高い葡萄酒を一瓶ずつ。隣の店でチーズも一つを丸ごと買って包ませた。
 チーズは何度か食べたが種類によって味が様々で、あまり好きではない物もあった。店で並んでいると尚更に見分けがつかなくて、あれを、とは言い出せない。
 欲しい物。欲しい物。悩んでいると主人の手が肩に乗って身を竦めた。
「何かあったか」
「いいえ……申し訳ありません」
 まずいだろうかと思いながらもどうしようもなく、素直に白状して目を逸らした。やはり丁度よさそうな物――それが何かも分からないが――を置いた店では無く、籠の上には干し草のようなものが並んでいる。
 主人がじっと見下ろしてくる。いっそ目まで隠れていればよかったのに視界ばかりはすっきりとしているので逃げきれない。そうして見つめられると、欲しい物なんて余計に分からなくなる。
 やがて主人は目を細めて、ふと息を零した。
「困っているな。ではそれは取っておくといい」
「とって……?」
「今日でなくともいい。今後、何か欲しいものができたら言え。一つくらいお前自身の財があってもいいだろう。よく考えて使うことだ」
 聞き返すと首輪についてを言ったときのようにはっきりと言われた。
 俺の財。迷っていたら大層な物を与えられてしまった気がするが、とりあえず今決めなくてもいいようだし、主人の機嫌は損ねなかったようだ。悩みが消えてほっとした。
「女たちには菓子を買っていこう」
「では西側の菓子舗に寄って戻りましょうか」
 主人はすぐにハリュールに向き直って買い物を再開した。何も、何処も、迷うことなく市場を進んでいく。
「全部三十ずつくれ。足りん物があれば適当に数を合わせて」
 酒も凄かったが、菓子の買い方も凄かった。蜜や花と粉の甘い匂いが漂っている大きな店の中で、ずらと並べ積まれたいくつもの菓子を、どれと選ぶこともなく、三十ずつ。
「お前はどれがいい」
 白、茶色、黄色、緑。丸、ひし形、捩じった形、何層かに重なった物や粉塗れの物。様々な色形をした菓子と大忙しで動き始めた店員を眺めていたら、訊かれて驚いた。さっき今度でいいと言われて完全に気を抜いていたのに、菓子は別に買うのか。
「どっどれでも……うれしいです……」
 甘い物なんて贅沢なんだからなんでも美味しい。咄嗟に答えると、主人は緩慢に瞬きもう一度並んだ菓子を眺めて言った。
「では一つずつ詰めた箱も作ってくれ」
 もう十分だろうと思うのに、主人からやってくる物は尽きない。持たされた箱は中身が菓子とは思えないほどずしりと重かった。
 帰った後には茶の時間が設けられ、菓子は順に食べさせられて、味の感想を言わされた。
 とても全部は食べきれなかった。食感や風味は色々あったが大体全部甘い。最初は美味しかったが、食べすぎると最後のほうはあまり美味しく感じられないのだということを知ったので、もし今度があるならばそのときは必ず一つを選ぼうと思って菓子の名前を聞いた。主人は終始楽しそうに笑っていた。
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