ご主人様の枕ちゃん

綿入しずる

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Ⅰ‐翡翠の環

仕事

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 俺の生活は激変した。次の朝からもそんな調子で、起きたら主人の手で着替えさせられて、主人の隣に座って朝食を食べた。着替えの場にも使用人が、朝食にはあれこれ用意したり切ったりする召使がいたが、主人は気にせず俺に触れた。そいつらも何も言わなかったが視線は感じた。
 朝食は主人より先に、テーブルに並べられた料理をすべて一口ずつ食べてみるよう指示され、感想を言わされた。大体全部、味がしておいしいです、だが。たっぷりと用意された乳は甘く、薄焼きのパンは柔らかく温かく香りがして、野菜を刻んだソースと混ぜた卵はとろとろとしてとても味が濃い。卵ってこんな味だったんだと思った。肉は俺には何の肉かも定かじゃない。どれもこれも、今まで食べた覚えなどない物ばかりだ。
 一周した後は見真似でちぎって食べたパンの残りを目の前の皿に載せられて、次は好きに、適当に食べろと命じられた。もう他の皿に手を伸ばす気にはなれなかったし、パンとミルクで腹いっぱいだった。
 仕事は此処の冷房だけだと思っていたのだが、食事を終えると主人は買い上げた日と同じように俺の手を引いて屋敷の中を歩いた。擦れ違う人が口々に挨拶して頭を垂れる。皆の目が俺を見るので、俺は足元を見て歩いた。つるりとした白い床にはゴミ一つない。
「おはようございます」
 いくらか進んだところで、覚えのある声がしてちらと顔を上げた。俺を買ったときにも居た男だ。応じた主人の横に並んで歩きながら話を始める。主人より若くて、肌が焼けていて、たとえば奴隷だったらさぞ高値がつくだろう整った顔。目が合った。
「余る白はとりあえず厨房へと回しましたが……その新しい奴隷には輪番は無しでよろしいですか」
 白奴隷アラグラルの話だ。
 気配の感じだと多分屋敷の中に七人か八人居る。余る――のは、俺が買われたからか。どうやら厨房とか誰かの部屋とか、本当なら回り番で仕事をするらしいが。
「ああ。傍に置く。私用の者は今後不要だ。暑い日にはお前たちが使うといい」
「分かりました、ありがとうございます」
 俺はずっとここらしい。他にも何か言わないかとつい聞き耳を立てたが、その後の話は主人のほうの仕事の話に変わったみたいで俺の頭では足りない。取引の税がどうの、なんとかの森林の運営がどうの。宮廷への出仕が、とも聞こえたので、主人は本当に大層偉い人らしい。
 連れていかれた先は仕事部屋という感じだった。他の場所と同じく広いが棚と物も多くて、閉め切っていたせいでむっと暑くインクの臭いがする。
「少し冷やせ」
「はい」
 不意に飛んできた短い命令だったが、慣れたタイミングと響きでもあった。返事をして冷気を生む。空気が流れて熱気を部屋の外へと吐き出す。鍵を開けたさっきの男――やっぱり従者、秘書、とかになるんだろう――が瞬いてこっちを凝視したので何かまずかったかと不安になったが、主人は特に何も言わず、俺の手を引いたまま部屋に入った。数歩進んだところでようやく手が離れる。
「白の椅子はそれだ。座っていろ」
「……はい」
 離した手が指差したのは部屋の隅で安心したが。入って左の部屋の角、天井から吊った砂色の薄いカーテンに囲われた椅子と小さなテーブルは部屋の他の家具とも揃いで、尻に敷くクッションも置かれていた。奴隷の椅子にしては綺麗で座り心地がよさそうで、返事が遅れた。
 確認に主人を見たが目で促されて急いで椅子に座る。秘書がカーテンを閉じに来る。なんとなく向こう、大きな机へ向かって座る主人や秘書の背が見えるが、それでも一人の空間になって少し安心した。椅子の座り心地はやっぱりいい。ベッドほどではないが、ずっと居ても尻が擦り剥けることは無さそうだ。
 主人と秘書はもう俺には構わず、誰々様からの手紙、と話し始めた。あとは黙って部屋の温度を保つだけだと思う。ああ、今日は普通の仕事だ。ほっとする。
 俺はいつものように目を閉じて、よく分からぬ難しいことを話して読み書きする主人とその秘書の気配をなんとなく感じながら、緩く冷気を弄び続けた。

「――ハツカ」
 小さな声は自分の名を呼ぶものだと気がつくのは遅れた。声の小ささよりも、自分の名前が呼ばれ慣れなかった。
 どれくらい時間が経ったか、カーテンを開けたのは秘書の男ではなく主人だった。金の目は唐突に差しこまれた光のようで、俺はびくりと身を跳ねさせて背筋を伸ばし座る姿勢を整える。
「そちらに座れ。休憩する」
「はいっ」
 促されて立ち上がり――俺はまた、今朝この椅子に座ったときのようにうろたえた。示された籠のような素材のしなやかな長椅子には、ふかふかの敷物とクッションが用意されている。言うとおりの休憩用と見えた。
 今この部屋に居るのは主人と俺だけになっていたが、まさか此処でも寝室でそうしたように抱える気なのだろうか。勿論、拒否できる立場ではないので、主人が先に座って軽く叩いた横に結局は座るのだが。
 今日は引っぱられなかった。と思ったら、そっと腰掛けたところでもっと深く座るようにと腹を押しつけられた。背凭れに凭れて、そして。
 主人の体が倒れてくる。足の上に頭が載った。
 俺は手の当たっていたクッションを握りしめた。
「……やはり固いな」
 親子がするような姿勢に硬直する。文句が聞こえたのでクッションを差し出すべきかと思ったが、そんな気を使うより先に命令が聞こえた。
「手を貸せ」
 言って、反射的に浮かせた右手を掴まれる。強張った手は主人の顔、閉じた目の上へと置かれた。
 手を重ねて、ふう、と息を抜く音が聞こえてそれっきり。冷やせとか、風を送れとか、そういう言葉はなかった。そうしなくても俺の手は冷たいだろうが。
 そのまま主人の頭を膝に乗せ目に手を宛がって時間が過ぎた。静かで壁越しの物音まで聞こえた。
 主人は眠ってはいないようだったが、目を閉じているとこんなに近くでもちょっと居やすい。俺の手に重なった大きな手には力が入っていなくて、寛いだ様子だ。人の頭って結構重たいんだな。
「……許可していなかったな。他に誰もいないときは話していい」
 半分隠れた主人の顔を見ていた為か、不意に唇が動いて声がしたのも案外驚かなかったが。そう言われても主人との会話など何を話したらよいのかわからず、困った。
「聞きたいことでもあるだろう」
 主人が続ける。聞きたいこと。聞きたいこと。
「……どうして俺を他の奴隷と一緒にしないんですか」
「使い続けているのに一々部屋に戻すこともないだろう。仲間が恋しいならそのうち会わせてやるが、交代はないぞ」
 絞り出した問いにはすぐに、きっぱりとした答えが返ってくる。交代はなし。さっきも似たようなことを聞いたので落胆はしなかった。
 むしろ、奴隷仲間に会えると言われて少し気が楽になった。一人でいるより何人かでいるほうが、やっぱりましな気がする。
 俺はまた何も言えなくなって、部屋は静かになってしまった。話したほうがいいのだろうか。でも何を。そんな仕事はしたことがない。
「お前が一番心地よい。よい買い物をした」
「……ありがとうございます」
 もう一度話せと促されることはなく、動いた唇が発した言葉は独り言だと思う。とりあえず、褒められたようなので礼を言っておいた。また静かになる。
 それから僅かな時間だけあって、手にぎゅっと力が入ってどきりとした。剥がされて、こちらを見る金の瞳が露わになる。
 あ、と思う。そうだ、これを聞いてみればよかった。
「――仕事の再開だ。戻れ」
 ようやく話すことを思いついたところで、主人は起き上がり命じた。秘書の男が召使を連れて戻ってくる。今まで見たどの女より年嵩の召使は大きなトレイに茶と菓子を載せていた。
 椅子に戻って今度は自分でカーテンを閉めようとすると、トレイを置いた召使が歩いてきて陶器のカップをひとつ、俺の横のテーブルへと静かに置いた。ミントの葉を入れた湯が湯気を立てている。
「貴方の分ですよ」
 ぽかんとしているとこちらを見た召使の口が動く。主人と、秘書の男もこちらを見ていたが、咎めないので普通に貰っていいものらしい。俺は小さく礼を言って頭を下げた。俺が掴むより手早く、召使がカーテンを閉めてくれた。
 此処の奴隷は仕事中にこんなものまでもらえるのか。しかもただの水じゃなく手をかけたものを。
 座って、そっと手を伸ばしてみると熱かったので少し冷ました。口に含むと香りがよくてすーっとする。
「侍女長が茶を運んでくるとは。見物か?」
「若い娘たちが騒がしくて仕方がないのです。新入りの確認なら、私にも権利があるでしょう? お呼びいただけないものだから来てしまいましたわ。いつもに増して華奢な子ですこと」
 主人の声が聞こえてくる。今の人が、侍女長。召使たちのまとめ役、っぽい。細身の女だが主人にもはっきりと言葉を返して深々礼をして出ていく。秘書の男が肩を竦めるのが見えた。
「……いや敵いません。申し訳ありません、押しきられて」
「お前にはまだ荷が重い。それより伐採の件だが、」
「はい――」
 ようやく此処のことが少しだけ分かってきた。気がする。
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