ひとつのひ

綿入しずる

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折り重なって皺になる 四

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 他の人間に聞かれるとまずいだろうと思って、クノギは一日我慢した。仕事中もまったく集中できずただ立って歩いて訓練をして、の酷い有り様だったがどうにか一日を終えた。
 夜になってから書庫へと赴き、扉の前で立ち止まる。話し声など客の気配などがないのを少しの間探ってから、扉を叩いた。
「スイ、俺だ。居るか」
 小さな足音の後、書庫番が直接顔を出す。灯りを手にいつもと同じような格好で、クノギの顔を見て笑みを浮かべる。
「お疲れ様。この時間になるなんて珍しいな。今日は来ないと――」
「カナイ、もう帰ったよな」
「え、ああ、うん……?」
 夜遊びに来るときは非番や早番明けなど時間に余裕のあるときだ。使用人が帰る時間を過ぎるのも、それをわざわざ確認してくるのも珍しかった。スイは不思議そうにクノギの顔を見返しながらも、彼を招き入れる為に一歩二歩と中へと戻る。
 部屋へと続く廊下に踏み入れて、扉を閉め。そこでクノギは立ち止まって切り出した。
「なあ、結婚するってなんで俺に言わなかった」
 どうかしたのかと振り返り、聞こえた言葉の意味を辿って――スイは驚愕に目を見開いた。
「――は!? 言わないもなにも予定も無い! 何の話だ!」
 言葉の意味は分かったが、問いの意味は分からない。思わずと上がる大声に、クノギは眉を寄せた。
「兄弟が見合い話を持ってきたって」
「それもまだだ!」
「……他の奴に恋愛相談してるってのは?」
 妙な噂が立ったなとスイが察したところで、もう一つの問い。
 クノギはこのまま、一日の苦悩は杞憂であったと、全部根も葉もない噂だと言ってもらえるのではと期待しかけていたが。スイの否定はそこで止まってしまった。
「……それは、それだけ本当だけど」
「……なんだよ。俺には何も言ってないよな、……どうして」
 スイは蒼褪めて口籠った。たしかにいつもならば、真っ先にクノギに話をしていただろう。
 だが兄に問われたときに顔が浮かんでしまった。男は――彼は、どうだろう、クノギはなんだろう。と。
 スイはそのことで手一杯だったので、他者に聞いて回っているのをクノギに対して隠すことさえ特にしていなかった。本人には言わなかったというだけで誤魔化しがない。少し考えれば可能性には簡単に行き当たることではあるが、それがこんな形で返ってくるとはまったく思ってもいなかった。
 普段どおり馬鹿真面目に突き進んでいる、だけではなくて実は余裕がなかった。本人も気づかぬままに。
「寝てるから話しづらかったか? ただの友達じゃないから、変な遠慮でも出たか」
 つい批難するかの声が出て、しまったとクノギは思うが口から出てしまったものは止められない。
「……話しづらかったけど、遠慮じゃない。大体、そういう友人もあると言ったのは貴方じゃないか」
 スイの弱い否定の声と、跳ね返ってきた自分の都合のいい言い訳に胸が痛む。
 決意は直後。これ以上思ってもいないことを言って傷つけるくらいならとクノギは決め、その勢いのまま声を発した。
「すまん、言ったのは俺だよな。……でも……ああいうことはもう止めよう」
 落ち着いた声がいつものようにテーブルを挟んでではない半端な場所で詫びて言うのを聞いて、スイは呆然として向かい合う顔を見つめた。
 顔色は昨日よりも悪く、衛士にしては覇気に欠ける。隈が浮いているのも見えた。
「俺はお前を、ただの友人としては見ていない。恋愛の意味で好いている。ずっとそういう下心で抱いてきた。だが抱くほどむしろ、友人でもないものになっていくようで、もうきつい。俺はお前の一番の友人でいたくて、話はなんでも聞いてやりたいし、縁談だってなんだって困ったことがあるなら協力したいと思っていたのに、それだってできないなら」
「俺は嫌だ」
 勢いで続く言葉を無理に遮って、スイはクノギの腕を掴む。
 思わぬ反抗に俯いていたクノギの顔が上がった。見れば青い目がじんわりと滲んでいる。スイはわなと震える口を開いて、声を絞り出した。
「貴方は一番の友人だし――酒を飲みたいのも茶を飲みたいのも抱かれたいのも貴方だ。友人じゃなければいいのか? どうしたらいい」
 負けず劣らず。勢いづいて出た言葉は、そんなものだった。
「……何?」
「縁談での交際の申し込み方は知っているが、こういうときどうしたらいいのかは知らない」
「――ちょ、っと、離さないか」
「駄目だ、貴方逃げるかもしれないだろ、絶対いやだ」
「逃げない約束する」
 言いにきたつもりが何か言われてしまって完全に虚を突かれたクノギは、いつかとも似たやりとりをして自分で扉の鍵をかけてみせる。スイはそれでもまだ気を抜かず、連行するように強い力でクノギを部屋まで引っ張った。クノギも大人しくついていく。
 ――素面で来てよかった、こんがらがって頭痛がしそうだ。
 自分が座ることでスイも座らせて、クノギは言葉を探す。スイは灯りをテーブルに置いて空けた右手でもクノギを掴んだ。子供のような所作に尖っていた気分が急激に凪いでいくのを、クノギは感じていた。
「……俺はお前と恋人になりたいとか、そういう話をしたんだぞ?」
 確認の言葉は日頃の彼の調子になった。整理してみると一番言いたいことはそれだ。ただ、叶わないと思ってそういう言い方をしなかっただけで。
「俺は貴方がいい。友人でも恋人でも何でもいいけど、貴方と何もできないのだけは嫌だ」
「それは抱き締めたりキスしたりしてもいいってことか」
 スイは確かに頷いてはっきりと言い返したが。クノギはスイが結婚するだの何だののショックのあまり夢でも見ているのではと、スイではなく自分のことを信用できずにもう一つ訊いた。
 もう一度頷きが返る。
「何をしてもいい。貴方俺の嫌がることはしないだろ」
 信頼の言葉には体も頭も茹った。クノギは酷くうろたえて緊張しながら、スイの肩へと自由な手を伸ばした。
 そっと触れて、撫で、ゆっくりと抱き締めて力を込める。スイはようやく腕を掴んでいた手を放し控えめに腰へと回した。そうして早鐘を打つ心臓を重ねて、どちらからも腕を解かないのに安心して息を抜く。
 互いの体、温度も匂いもすぐそこにある。行為のときを除けば二人にとってはじめての距離だった。
「縁談はまだ来てない。来たら言うし。ただ向こう……家族が勝手に俺が一人なのを心配しているだけで。もし好きなひとがいるならそれでいいって言われた」
 肩口に顔を寄せたスイは、灯りがシーツに影を作るのを眺めながら改めて口を開いた。ぼそぼそと、小さな声をクノギの肩に零す。
「悪かった。勝手に思い込んだ」
「そのとき貴方の顔が浮かんだからちょっと困って……隠したかったわけじゃなく……いや隠してた、んだろうけど、ごめん」
 謝罪に謝罪が重なり、思わぬ告白の連続にクノギは呻いた。もしそのまま言ってくれていたなら、と思うが――言えない理由は彼自身がよく分かっている。
「……それは俺もずっと隠してたわけだし」
「……いつから?」
 すっかりといつもの調子で会話になる。相手が悪いとは微塵も思っていないスイだがそこは気になった。
 スイはずっと普通に友人をやってきたつもりでいたし、好意があると思ったら一月ほどでこのような事態になったのだ。そんなに長いこと隠し通せるものとは考えられなかった。
「四年」
「うそだろ」
 ところがクノギの恋慕はもっと長かった。信じられないと声が上がるのに彼は眉を下げた。
「いや本当に……ずっと好きだった、から、あのときつい」
 あのとき――が示すのは、クノギがひきだしを開けてしまって、体の関係が始まるに至った出来事だ。ひきだしを開けたのもつい、スイの好奇心十割の誘いに乗ってしまったのもつい、だ。
 スイは俯いて静かに悶絶した。当時のことを思い出したのと、いくらスイでもそういう相手に体の関係を持ちかけてしまうのがとんでもないことだというのは察しがついたのと。勢いで悪いことをしたと心底反省した。
 それでもスイはクノギに促されるより早く顔を上げた。少しだけ腕を緩めて顔を合わせる。大事な確認をしなければならない。
「……これでもういいのか? 今までどおりにやっていける?」
「ん、まあ、そうだな、お前がいいなら」
 幾分感覚のずれはあるのは本人たちも感じてはいたが、今はこれ以上はないとも思える。
「キスはしないのか? ……あ、そうだ、」
 少なくとも先程までのような不安や焦燥は失せていた。ふ、と笑って揶揄をするスイの声も日々酒や茶を飲み交わしていたときのようだ。
 やけに気軽な調子で言葉の続きがある。クノギの腰を手持無沙汰なように何気なく擦りながら、今ならよいのではとスイは思いつきを口に出した。
「今日はできれば帰らないで朝まで居てくれないか。……朝、忙しいとは思うけど勝手に出ていっていいから、とりあ」
「まずちょっと抱き締めさせてくれ、頼む」
 連ねる言葉があまりにも謙虚な響きで、けれど自分と同じ気持ちだったので。皆まで聞けずにクノギは再度、スイの体を抱き寄せた。苦しいと抗議の声を上げながらもスイもまた腕を回してぽんと軽く相手の背を叩いて応じた。
 触れ合う間に折よく雨が降ってきたので、クノギはそれを帰らぬ理由にしておいた。たっぷりと楽しんで、体を清めてからも戯れて二人で寝落ちて、ぐしゃぐしゃに乱れて皺になった寝床でそのまま眠った。久々にぐっすりとよく眠れた。
 朝方、使用人がやってきた物音に飛び起きたクノギは見事朝礼に遅刻する破目になり――勿論相当慌てはしたが、その日の彼にとっては些細なことだった。
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