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子供の頃ⅰ
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父さんに連れ出されたのは、もう日も暮れそうな時間だった。
それまで俺は暗い部屋で言いつけどおりに縫い物をしていた。思っていたよりもかなり早く父さんが帰ってきたのでちょっと、びっくりした。丁度落ち着かなくて縫いかけの襟を投げ出してしまったところだったから、なおさら。
窓は開けていたのに部屋は服を着ているのも嫌になるほど暑さが篭もっていて、俺はいらついていた。女の真似事、針仕事の進み具合は気温が上がるだけ遅くなる。寒さで指が固くなるよりはましかもしれなくても、集中なんてできやしない。それでも、翌朝までに襟を縫い終えなければならなくて気だけが急いでいた。
「おい、出るぞ」
ちゃんとやっていたよ、って、言い訳をする前に父さんは言った。扉からこっちに来る気はなさそうで、俺は時間が経ってから言葉の意味を理解して、慌てて椅子から降りて靴を履いた。それがまた暑い中では不愉快な感触だったけど、さすがに裸足で外に出る気にはならなかった。
「縫い物はいいの?」
「いい。ついて来い」
会話はそれだけだった。俺は頷きもしないで――だってどうせ見ていないから――足音が静かなくせに歩くのが早い父さんを追う。
階段を降りて玄関から出ると、湿っぽい風が吹きつけた。なんだ、外のほうが涼しいじゃないか。窓は向きが悪かったんだ。こんなことならいっそ外でやってればよかった。
そんなことを考えているうちにも、父さんはずんずんと路地を進んでいく。住んで一年ぐらい経つ町だけどまだ分からないところも多いし、行き先を知らない俺は急がなきゃいけなかった。この歳で親と逸れて迷子、なんて馬鹿げてる。
何度道を曲がっただろう。体が汗で濡れて靴が湿っぽい。段々壁が高くなってきて、辺りは見慣れない風景になった。人は少ない、と思ったけど、一度浮浪児っぽい姿が見えた。こっちを見てすぐに引っ込んだ。
この道は多分海のほうに向かう道だろうけど、波の音はまだ遠い。見上げないと見えない空は雲が増え始めていて、夜になると雨が降るんじゃないかと思う。……夜までは、歩かないと思うけど。どんだけ歩くのかな。
あるところで父さんは立ち止まってこっちを振り向いた。
「ひでぇな」
舌打ちが聞こえて目が合った。扉のとこで呼ばれたときと同じように、俺は暫く言っていることの意味がよく分からなかった。父さんがまた歩き出したのについて歩くうちに、今のは俺の顔とか、恰好のことを言ったのかな、と考えた。体も頭もべたべたするし、服も皺だらけで、なんていうか多分、みすぼらしいってやつなんだろう。靴をちゃんと履いてる以外は、さっき見た子供と大して変わらないのかもしれない。父さんは明るいところで改めて見て気づいたんだ。
門を潜ると気づいて顔を上げると、それまでと違って人がいっぱい居る気配があった。
きれいな場所だな、っていうのが第一印象だった。手入れされた庭があって、壁には彫刻があって、どこかからいい匂いがする。歌声が聞こえて、白い服を着た仕者の人たちが何人も行き来している。それで、ここは聖堂なんだと分かった。答えあわせをするように、奥に古いけどきれいな建物が見えた。
こんなところに父さんがなんの用だろう。それも俺を連れて。大人になるのはまだまだ先だから、儀式とかじゃないはずだけど。
父さんがまた立ち止まったのは聖堂自体の入り口のところで、俺のほうをちらと見たから、横に並んだ。でも何も言わない。中を見て何か待っているようだったから俺も黙って待った。ぼんやり眼を向けた柱にある花の彫刻がきれいで、その細かいでこぼこを撫でてみたかった。父さんが間に居なければ手を伸ばしてみたのに。ひんやりするかな。石だから固いはずだけど、柔らかそうだ。
父さんに背中を叩かれて、俺は縮みあがった。顔を真正面に戻すと誰かが歩いてくるところだった。その人は父さんの名前を呼んで、父さんはどうもと返した。
「ここの祭司補様だ。……挨拶ぐらいしろ」
父さんと同じぐらいの、男の人。白服の肩には帯がかかってるから、偉い人だ。緑の帯。見上げた俺がぽかんとしていたら、父さんがまた叩いた。痛くないけど体が揺れる。
「……こんにちは、はじめまして」
言ってから、もしかして今はこんばんはの時間だったかなと思った。男の人は黙って、笑って、俺を見ていた。どうしたらいいのか分からなくて父さんのほうを見上げ――ようとしたら、手が伸びてきた。
「どうです」
父さんはそう言ったんだと思う。俺は顎を掴んだ手の感触に固くなって、周りのことなんてまともに分からなくなっていた。
上を向かせる手は大きく感じられて、お香と、多分それだけじゃない、何か不思議な匂いがした。
「アンタの子供じゃないようだ」
「まあ、俺は女じゃありませんから、その可能性はありますね」
怖いことを言われたけど、冗談のようだった。父さんの声がそうだったから分かる。でも、冗談じゃないのかもしれない。俺には母さんが居ない。どんな人かも知らない。父さんに聞いても教えてくれない。もしかしたら俺は、この人の子供ではないのかも、と思ったことは、数えきれないほどある。髪の色だって、父さんは金色だけど俺は茶色だし。薄いから、金に見えないこともないけど、同じじゃない。
「菫だな。控えめな子供か?」
男の人は、襟の出来具合を見る婆さんのように俺を見ていた。目は灰色だった。優しい人なのか怖い人なのか、分からない目つき。俺はじっとしていた。動いていいのか分からなかった。
「何の話で?」
「目の話だ。菫色に見える」
「ああ」
手が離れた、と思ったのに、指は頬を伝って目の近くに来た。すみれと、ひかえめなのと、どういう繋がりがあるんだろう。この人の言葉は父さんの言葉より難しそうだ。
ああ、祭司さまなんだから、きっと頭がいいんだ。当然か。
手は、俺の頭を撫でてやっと離れた。父さんを見上げると笑っていた。
「今日からでいいのか」
男の人が唇を撫でながら何か確かめると、もっとはっきりとした笑い方になった。皺が見える。こんな風に父さんが笑っているのを見たのは、いつぶりだろう。
「構いませんよ」
何で父さんが笑うのか。俺はまた、男の人のほうを見た。父さんと話しているのだから父さんのほうを見ているんだろうという予想は外れた。盗み見のつもりだった目は、あの灰色の目と衝突してしまった。
咄嗟に逸らす。と、笑われた。
「――アリースティート、こっちへ来い」
笑った声が俺を呼ぶ。急に降ってきた自分の名前にびっくりして、体はまた竦んだ。呼んだのは父さんでは無くて、初めて会った人のほうだった。意味が分からなくて立ち尽くしていると、父さんがまた、背中を叩いた。
「ほら、行け。お前は今日からこっちに住むんだ」
「えっ……?」
前住んでた町で、聖堂で暮らしていた子供たちのことを思い出した。あの子らは、親が居ないかわいそうな子なんだって、皆言ってた。
俺も同じなのかな。俺は捨てられたの?
混乱する俺を父さんの手が押し出した。揺れてつんのめった体を、さっきの手が支えてくれる。軽く撫でて離れた。離れたけど、俺を父さんの横には戻してくれなかった。見上げると見下ろして来て、もう一度頭を撫でる。あんまり撫でられると、猫か犬みたいだ。
俺がかわいそうな子だからそういう風にするのか。
「何も説明しないで来たのか」
「仕事のことを言ってないもんですから、どう言ったらいいか。貴方のほうが説明はお上手でしょう?」
「……まあ、構わんが。こっちはちゃんとするから、そっちは頼んだぞ。こう見えて大事なんだ」
「勿論。お任せください。――おい、失礼の無いようにな」
心臓がばくばく言って、大人二人の話はよく聞こえなくなった。元々意味が分からなかったけど。何も分からなくて黙って固まっているうちに、父さんは軽く手を振ってどこかへ行ってしまった。いつもと同じだ。いつもそうやって居なくなって、一日で帰ってくる日もあれば、数日かかる日もある。大体、どれぐらい居ないか言ってから出ていく。こないだは四日居なかった。――でも今日は? もう帰ってこないんじゃないか。
想像したらなんだかぞっとしたけど、でも俺は追っかけたりできなかった。そんなことは、したことがない。
父さんが門ではなく何かの建物の中に消えると、知らない男の人は父さんに比べてかなり優しく、俺の背中を押した。歩けってことだろう。俺ははじめて歩くように、びくびくしながら足を前に出した。
何歩か歩いて、段差につまづくと手が差し出された。なんていう子供扱いだろう。俺が掴まないで黙っていると、顔を覗き込まれる。
「心配しなくても、親父さんは戻ってくるぞ。こっちが急な仕事を頼んだからすぐにとはいかないが。此処は彼の勤め先だ。預けられるんでも、他とはちょっと違う。孤児の扱いはしないさ」
考えてたことは全部知られているようだった。びっくりして、どう答えたらいいのか考えるうちに、手じゃなくて腕を掴まれた。ひっぱられて、建物の中に入って廊下を進む。聖堂の中に入ったのははじめてだった。家より音が響く。
「まずはもう少し綺麗にしてやろう。折角の器量よしが勿体無い」
男の人は呟いて、ミミル、と誰かを呼んだ。奥の部屋から返事が聞こえて、仕者の格好をした人が出てくる。
とってもきれいな人だった。金の髪がさらさらしてて、女の人みたいだ。でも俺を見て顔を顰めた。
「またですか。十人目ですよ」
「この前話してただろう。例の子だ」
十人。も、居るのかな、子供が。聖堂だから居るのかも。なんて、考えてたら、
「ああ、あの人の? ……似てませんね」
また俺が実の子供じゃないって言われてるみたいだった。父さんに似てない子供なんていっぱいいるのに。俺はきっと、母さんに似てるんだ。知らない人だけど。
……知らない人に似てんのって、なんかやだなあ。
「いや、鼻の形が同じだ。面影はあるな。全体的な造りは随分良いが」
「ええ?」
俺の腕を持ったままの人がさっきと違うことを言うから、今まで出てなかった声が出た。あんまり大きな声じゃなかったと思うけど、二人ともこっちを見た。黙っているわけにはいかなそうだった。
父さんは、失礼のないようにって言っていた、ような気がするし。
「さっきは、……似てないって、言って……」
「あれは褒めたんだ。親父さんよりお前のほうが数段男前だってな」
もごもご言うと、途端、腕を放した手が頭に乗った。撫でるっていうより置くって感じで、すぐにどいてもうどこも触らない。ミミルって人は肩を竦めていた。答え方、まずかったろうか。
しかたないじゃないか。俺はここのことも、この人たちのことも、こういうときどうしたらいいのかも、分からないんだ。
「俺は少し仕事をするから、その間に風呂に連れていけ。……腹は減ってるか?」
人に言うついでの問いかけには、迷ったけど頷いた。疲れてたし、お腹は確かに減っていた。父さんが戻って来るっていうなら、それまで待つしかない。何も食べずに三日は無理だ。
「それなら用意させよう。じゃあ、後でな」
頷き返して、父さんがやったように俺を置いて歩き出す。後でっていつだろう。
ここではこれからこうやって受け渡しされつづけるのかな、って思ったら嫌になったけど、とりあえず従った。俺はまた黙って人を見上げる。きれいな人は困ったような顔で俺を見つめ返した。背が低い。父さんや、あの人がでかいだけかも知れないけど。でも、やっぱり低いかな。
「名前は、なんて言ったっけ」
「アリースティート……です」
あの人は言わなくても知っていたけど、この人は知らないらしい。あんまり呼ばれないし言わない名前を呟く。
「そう。僕はエーミール。こっちへおいで」
ミミルはやっぱり、仇名みたい。俺はまた頷いて、歩き出した人の後をついて歩いた。
そうして俺は浴室に連れていかれて、盥の中で体を擦ることになった。薄暗くて窓のない部屋には盥一杯にきれいな水が用意されていて、海綿と石鹸もあった。
「早く脱いで」
「一人で入れる、けど」
「いいから」
急かされて、俺は仕方なくエーミールの横で服を脱いだ。エーミールがこっちを見ていないのは助かったけど、それでも恥ずかしかった。
それでも、水は冷たくて熱くなった体に気持ち良かった。石鹸は家にあるのよりいい匂いがして、さっきの人からした匂いはこれかなって思ったけどどうも違う気がした。エーミールはずっと横でなにかしていた。脱いだ服は片付けられて、別の服が置かれた。
人が横に居る落ち着かなさの中、急いで全身洗う。拭くのに渡された布で体を包んで着替えに手を伸ばすと止められる。
「待って、まだ着ないでくれ。座って」
椅子に座らされた。頭に別の布が被せられて、拭かれる。
「自分でできるって」
言っても、エーミールは黙って拭いていた。痛いくらいさっさとやって、櫛で梳かす。絡んだところが引っかかって痛い。そこで何かつけた。また、薄くだけどいい匂いがした。
でも、これもさっきのとは違うみたい。
「わっ」
考えていたらぬるりとしたものが肌に垂れてきて、浮いた体が押さえられる。そのまま首にぬるぬるが滑った。エーミールの手が何かを塗ってる。
匂いがするから髪につけたのと同じものだと思う。
「ただの油だよ。祭司補様のところに行くんだから、ちゃんとしないといけない」
聖堂に行くときは風呂に入るものだ、っていうのは、父さんが言ってたことだ。ここは聖堂の中で、偉い人に会うから、もっとちゃんとするってことだろう。さっきそのまま会ったことを思うと、恥ずかしくなった。どう思われただろう。他の人もいっぱい見てたのに。
ほら、と布を奪われてしまった。まだ暑いはずだけど、水を浴びたのと目の前に人が居るのとで、すーすーする。
背中にも胸にも、エーミールは手で揉んだ油を塗って擦った。なんか変な気がするし、くすぐったくて仕方ない。我慢したつもりだけど、あんまり身を捩るからか途中でやめになったみたいだった。自分で塗りなさい、って壷を渡された。まだ塗ってない足が指差される。
早く服が着たくて、急いで塗った。ぬるぬるする、と思ったけど、擦るうちにびっくりするほどつるつるになった。聖堂の人たちはいつもこんな風にしてるんだろうか。
「君、いくつ?」
「……十歳」
「ふん。それにしてはちょっと小さすぎるかな。それに痩せすぎだ」
この人はきれいで、優しそうに見えて嫌なことばかり言う。体が小さいことは気にしてるのに。
むっとして見上げると手が頬に触れた。さっきの人とは違う、細い指だった。
「でもあの人の好きな顔だ」
エーミールは溜息を吐きながら言う。俺はちょっと悩んだ。人の顔の好き嫌いって、よく分からない。きれいなのと変なのは、分かるけど。
「あの人って、さっきの人?」
「そうだよ。さあ、終わったら服を着ていい」
あの――灰色の目に黒い髪の、祭司補さまは、俺の顔が好きなの?
褒めたんだとは言ってたけど、俺はどういう顔をしているんだろう。父さんに似てないのは知ってる。
服は一枚だけで着るもので、なんか寝間着みたいだった。すこし小さい気がする。袖と裾が短い。でもさらりとして気持ちがよかった。
「……次からはもう少し大きいのにしよう。でも今日はそれで我慢して。あんまりお待たせするとよくない」
エーミールは俺を見て丈を確かめると、来た時と同じように急いだ感じで浴室から俺を連れ出した。ついておいで、と言って、廊下を歩く。色んな人とすれ違ったけど、誰とも挨拶しなかった。俺をじろじろ見る人も気にしない人もいたけど、俺もエーミールを真似して、ただまっすぐ前を見て歩いた。
――その夜、俺ははじめてあの人の部屋に入った。降り出した雨の音が聞こえる、あの不思議な匂いのする部屋だった。
それまで俺は暗い部屋で言いつけどおりに縫い物をしていた。思っていたよりもかなり早く父さんが帰ってきたのでちょっと、びっくりした。丁度落ち着かなくて縫いかけの襟を投げ出してしまったところだったから、なおさら。
窓は開けていたのに部屋は服を着ているのも嫌になるほど暑さが篭もっていて、俺はいらついていた。女の真似事、針仕事の進み具合は気温が上がるだけ遅くなる。寒さで指が固くなるよりはましかもしれなくても、集中なんてできやしない。それでも、翌朝までに襟を縫い終えなければならなくて気だけが急いでいた。
「おい、出るぞ」
ちゃんとやっていたよ、って、言い訳をする前に父さんは言った。扉からこっちに来る気はなさそうで、俺は時間が経ってから言葉の意味を理解して、慌てて椅子から降りて靴を履いた。それがまた暑い中では不愉快な感触だったけど、さすがに裸足で外に出る気にはならなかった。
「縫い物はいいの?」
「いい。ついて来い」
会話はそれだけだった。俺は頷きもしないで――だってどうせ見ていないから――足音が静かなくせに歩くのが早い父さんを追う。
階段を降りて玄関から出ると、湿っぽい風が吹きつけた。なんだ、外のほうが涼しいじゃないか。窓は向きが悪かったんだ。こんなことならいっそ外でやってればよかった。
そんなことを考えているうちにも、父さんはずんずんと路地を進んでいく。住んで一年ぐらい経つ町だけどまだ分からないところも多いし、行き先を知らない俺は急がなきゃいけなかった。この歳で親と逸れて迷子、なんて馬鹿げてる。
何度道を曲がっただろう。体が汗で濡れて靴が湿っぽい。段々壁が高くなってきて、辺りは見慣れない風景になった。人は少ない、と思ったけど、一度浮浪児っぽい姿が見えた。こっちを見てすぐに引っ込んだ。
この道は多分海のほうに向かう道だろうけど、波の音はまだ遠い。見上げないと見えない空は雲が増え始めていて、夜になると雨が降るんじゃないかと思う。……夜までは、歩かないと思うけど。どんだけ歩くのかな。
あるところで父さんは立ち止まってこっちを振り向いた。
「ひでぇな」
舌打ちが聞こえて目が合った。扉のとこで呼ばれたときと同じように、俺は暫く言っていることの意味がよく分からなかった。父さんがまた歩き出したのについて歩くうちに、今のは俺の顔とか、恰好のことを言ったのかな、と考えた。体も頭もべたべたするし、服も皺だらけで、なんていうか多分、みすぼらしいってやつなんだろう。靴をちゃんと履いてる以外は、さっき見た子供と大して変わらないのかもしれない。父さんは明るいところで改めて見て気づいたんだ。
門を潜ると気づいて顔を上げると、それまでと違って人がいっぱい居る気配があった。
きれいな場所だな、っていうのが第一印象だった。手入れされた庭があって、壁には彫刻があって、どこかからいい匂いがする。歌声が聞こえて、白い服を着た仕者の人たちが何人も行き来している。それで、ここは聖堂なんだと分かった。答えあわせをするように、奥に古いけどきれいな建物が見えた。
こんなところに父さんがなんの用だろう。それも俺を連れて。大人になるのはまだまだ先だから、儀式とかじゃないはずだけど。
父さんがまた立ち止まったのは聖堂自体の入り口のところで、俺のほうをちらと見たから、横に並んだ。でも何も言わない。中を見て何か待っているようだったから俺も黙って待った。ぼんやり眼を向けた柱にある花の彫刻がきれいで、その細かいでこぼこを撫でてみたかった。父さんが間に居なければ手を伸ばしてみたのに。ひんやりするかな。石だから固いはずだけど、柔らかそうだ。
父さんに背中を叩かれて、俺は縮みあがった。顔を真正面に戻すと誰かが歩いてくるところだった。その人は父さんの名前を呼んで、父さんはどうもと返した。
「ここの祭司補様だ。……挨拶ぐらいしろ」
父さんと同じぐらいの、男の人。白服の肩には帯がかかってるから、偉い人だ。緑の帯。見上げた俺がぽかんとしていたら、父さんがまた叩いた。痛くないけど体が揺れる。
「……こんにちは、はじめまして」
言ってから、もしかして今はこんばんはの時間だったかなと思った。男の人は黙って、笑って、俺を見ていた。どうしたらいいのか分からなくて父さんのほうを見上げ――ようとしたら、手が伸びてきた。
「どうです」
父さんはそう言ったんだと思う。俺は顎を掴んだ手の感触に固くなって、周りのことなんてまともに分からなくなっていた。
上を向かせる手は大きく感じられて、お香と、多分それだけじゃない、何か不思議な匂いがした。
「アンタの子供じゃないようだ」
「まあ、俺は女じゃありませんから、その可能性はありますね」
怖いことを言われたけど、冗談のようだった。父さんの声がそうだったから分かる。でも、冗談じゃないのかもしれない。俺には母さんが居ない。どんな人かも知らない。父さんに聞いても教えてくれない。もしかしたら俺は、この人の子供ではないのかも、と思ったことは、数えきれないほどある。髪の色だって、父さんは金色だけど俺は茶色だし。薄いから、金に見えないこともないけど、同じじゃない。
「菫だな。控えめな子供か?」
男の人は、襟の出来具合を見る婆さんのように俺を見ていた。目は灰色だった。優しい人なのか怖い人なのか、分からない目つき。俺はじっとしていた。動いていいのか分からなかった。
「何の話で?」
「目の話だ。菫色に見える」
「ああ」
手が離れた、と思ったのに、指は頬を伝って目の近くに来た。すみれと、ひかえめなのと、どういう繋がりがあるんだろう。この人の言葉は父さんの言葉より難しそうだ。
ああ、祭司さまなんだから、きっと頭がいいんだ。当然か。
手は、俺の頭を撫でてやっと離れた。父さんを見上げると笑っていた。
「今日からでいいのか」
男の人が唇を撫でながら何か確かめると、もっとはっきりとした笑い方になった。皺が見える。こんな風に父さんが笑っているのを見たのは、いつぶりだろう。
「構いませんよ」
何で父さんが笑うのか。俺はまた、男の人のほうを見た。父さんと話しているのだから父さんのほうを見ているんだろうという予想は外れた。盗み見のつもりだった目は、あの灰色の目と衝突してしまった。
咄嗟に逸らす。と、笑われた。
「――アリースティート、こっちへ来い」
笑った声が俺を呼ぶ。急に降ってきた自分の名前にびっくりして、体はまた竦んだ。呼んだのは父さんでは無くて、初めて会った人のほうだった。意味が分からなくて立ち尽くしていると、父さんがまた、背中を叩いた。
「ほら、行け。お前は今日からこっちに住むんだ」
「えっ……?」
前住んでた町で、聖堂で暮らしていた子供たちのことを思い出した。あの子らは、親が居ないかわいそうな子なんだって、皆言ってた。
俺も同じなのかな。俺は捨てられたの?
混乱する俺を父さんの手が押し出した。揺れてつんのめった体を、さっきの手が支えてくれる。軽く撫でて離れた。離れたけど、俺を父さんの横には戻してくれなかった。見上げると見下ろして来て、もう一度頭を撫でる。あんまり撫でられると、猫か犬みたいだ。
俺がかわいそうな子だからそういう風にするのか。
「何も説明しないで来たのか」
「仕事のことを言ってないもんですから、どう言ったらいいか。貴方のほうが説明はお上手でしょう?」
「……まあ、構わんが。こっちはちゃんとするから、そっちは頼んだぞ。こう見えて大事なんだ」
「勿論。お任せください。――おい、失礼の無いようにな」
心臓がばくばく言って、大人二人の話はよく聞こえなくなった。元々意味が分からなかったけど。何も分からなくて黙って固まっているうちに、父さんは軽く手を振ってどこかへ行ってしまった。いつもと同じだ。いつもそうやって居なくなって、一日で帰ってくる日もあれば、数日かかる日もある。大体、どれぐらい居ないか言ってから出ていく。こないだは四日居なかった。――でも今日は? もう帰ってこないんじゃないか。
想像したらなんだかぞっとしたけど、でも俺は追っかけたりできなかった。そんなことは、したことがない。
父さんが門ではなく何かの建物の中に消えると、知らない男の人は父さんに比べてかなり優しく、俺の背中を押した。歩けってことだろう。俺ははじめて歩くように、びくびくしながら足を前に出した。
何歩か歩いて、段差につまづくと手が差し出された。なんていう子供扱いだろう。俺が掴まないで黙っていると、顔を覗き込まれる。
「心配しなくても、親父さんは戻ってくるぞ。こっちが急な仕事を頼んだからすぐにとはいかないが。此処は彼の勤め先だ。預けられるんでも、他とはちょっと違う。孤児の扱いはしないさ」
考えてたことは全部知られているようだった。びっくりして、どう答えたらいいのか考えるうちに、手じゃなくて腕を掴まれた。ひっぱられて、建物の中に入って廊下を進む。聖堂の中に入ったのははじめてだった。家より音が響く。
「まずはもう少し綺麗にしてやろう。折角の器量よしが勿体無い」
男の人は呟いて、ミミル、と誰かを呼んだ。奥の部屋から返事が聞こえて、仕者の格好をした人が出てくる。
とってもきれいな人だった。金の髪がさらさらしてて、女の人みたいだ。でも俺を見て顔を顰めた。
「またですか。十人目ですよ」
「この前話してただろう。例の子だ」
十人。も、居るのかな、子供が。聖堂だから居るのかも。なんて、考えてたら、
「ああ、あの人の? ……似てませんね」
また俺が実の子供じゃないって言われてるみたいだった。父さんに似てない子供なんていっぱいいるのに。俺はきっと、母さんに似てるんだ。知らない人だけど。
……知らない人に似てんのって、なんかやだなあ。
「いや、鼻の形が同じだ。面影はあるな。全体的な造りは随分良いが」
「ええ?」
俺の腕を持ったままの人がさっきと違うことを言うから、今まで出てなかった声が出た。あんまり大きな声じゃなかったと思うけど、二人ともこっちを見た。黙っているわけにはいかなそうだった。
父さんは、失礼のないようにって言っていた、ような気がするし。
「さっきは、……似てないって、言って……」
「あれは褒めたんだ。親父さんよりお前のほうが数段男前だってな」
もごもご言うと、途端、腕を放した手が頭に乗った。撫でるっていうより置くって感じで、すぐにどいてもうどこも触らない。ミミルって人は肩を竦めていた。答え方、まずかったろうか。
しかたないじゃないか。俺はここのことも、この人たちのことも、こういうときどうしたらいいのかも、分からないんだ。
「俺は少し仕事をするから、その間に風呂に連れていけ。……腹は減ってるか?」
人に言うついでの問いかけには、迷ったけど頷いた。疲れてたし、お腹は確かに減っていた。父さんが戻って来るっていうなら、それまで待つしかない。何も食べずに三日は無理だ。
「それなら用意させよう。じゃあ、後でな」
頷き返して、父さんがやったように俺を置いて歩き出す。後でっていつだろう。
ここではこれからこうやって受け渡しされつづけるのかな、って思ったら嫌になったけど、とりあえず従った。俺はまた黙って人を見上げる。きれいな人は困ったような顔で俺を見つめ返した。背が低い。父さんや、あの人がでかいだけかも知れないけど。でも、やっぱり低いかな。
「名前は、なんて言ったっけ」
「アリースティート……です」
あの人は言わなくても知っていたけど、この人は知らないらしい。あんまり呼ばれないし言わない名前を呟く。
「そう。僕はエーミール。こっちへおいで」
ミミルはやっぱり、仇名みたい。俺はまた頷いて、歩き出した人の後をついて歩いた。
そうして俺は浴室に連れていかれて、盥の中で体を擦ることになった。薄暗くて窓のない部屋には盥一杯にきれいな水が用意されていて、海綿と石鹸もあった。
「早く脱いで」
「一人で入れる、けど」
「いいから」
急かされて、俺は仕方なくエーミールの横で服を脱いだ。エーミールがこっちを見ていないのは助かったけど、それでも恥ずかしかった。
それでも、水は冷たくて熱くなった体に気持ち良かった。石鹸は家にあるのよりいい匂いがして、さっきの人からした匂いはこれかなって思ったけどどうも違う気がした。エーミールはずっと横でなにかしていた。脱いだ服は片付けられて、別の服が置かれた。
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「待って、まだ着ないでくれ。座って」
椅子に座らされた。頭に別の布が被せられて、拭かれる。
「自分でできるって」
言っても、エーミールは黙って拭いていた。痛いくらいさっさとやって、櫛で梳かす。絡んだところが引っかかって痛い。そこで何かつけた。また、薄くだけどいい匂いがした。
でも、これもさっきのとは違うみたい。
「わっ」
考えていたらぬるりとしたものが肌に垂れてきて、浮いた体が押さえられる。そのまま首にぬるぬるが滑った。エーミールの手が何かを塗ってる。
匂いがするから髪につけたのと同じものだと思う。
「ただの油だよ。祭司補様のところに行くんだから、ちゃんとしないといけない」
聖堂に行くときは風呂に入るものだ、っていうのは、父さんが言ってたことだ。ここは聖堂の中で、偉い人に会うから、もっとちゃんとするってことだろう。さっきそのまま会ったことを思うと、恥ずかしくなった。どう思われただろう。他の人もいっぱい見てたのに。
ほら、と布を奪われてしまった。まだ暑いはずだけど、水を浴びたのと目の前に人が居るのとで、すーすーする。
背中にも胸にも、エーミールは手で揉んだ油を塗って擦った。なんか変な気がするし、くすぐったくて仕方ない。我慢したつもりだけど、あんまり身を捩るからか途中でやめになったみたいだった。自分で塗りなさい、って壷を渡された。まだ塗ってない足が指差される。
早く服が着たくて、急いで塗った。ぬるぬるする、と思ったけど、擦るうちにびっくりするほどつるつるになった。聖堂の人たちはいつもこんな風にしてるんだろうか。
「君、いくつ?」
「……十歳」
「ふん。それにしてはちょっと小さすぎるかな。それに痩せすぎだ」
この人はきれいで、優しそうに見えて嫌なことばかり言う。体が小さいことは気にしてるのに。
むっとして見上げると手が頬に触れた。さっきの人とは違う、細い指だった。
「でもあの人の好きな顔だ」
エーミールは溜息を吐きながら言う。俺はちょっと悩んだ。人の顔の好き嫌いって、よく分からない。きれいなのと変なのは、分かるけど。
「あの人って、さっきの人?」
「そうだよ。さあ、終わったら服を着ていい」
あの――灰色の目に黒い髪の、祭司補さまは、俺の顔が好きなの?
褒めたんだとは言ってたけど、俺はどういう顔をしているんだろう。父さんに似てないのは知ってる。
服は一枚だけで着るもので、なんか寝間着みたいだった。すこし小さい気がする。袖と裾が短い。でもさらりとして気持ちがよかった。
「……次からはもう少し大きいのにしよう。でも今日はそれで我慢して。あんまりお待たせするとよくない」
エーミールは俺を見て丈を確かめると、来た時と同じように急いだ感じで浴室から俺を連れ出した。ついておいで、と言って、廊下を歩く。色んな人とすれ違ったけど、誰とも挨拶しなかった。俺をじろじろ見る人も気にしない人もいたけど、俺もエーミールを真似して、ただまっすぐ前を見て歩いた。
――その夜、俺ははじめてあの人の部屋に入った。降り出した雨の音が聞こえる、あの不思議な匂いのする部屋だった。
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須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
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