緑を分けて

綿入しずる

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後日談 すべての花が君の為に咲く

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「あっちの橋のとこで黄色い花が咲いてたよ」
 温かく眩しい午前八時の光の中、芽吹いた梢の陰で目を細めながらセヴランは言った。採取で訪れた園丁官がいつもの流れで用意を始めてすぐ、一番目の話題だった。
「エニシダじゃないけど、木に咲くやつ」
「レンギョウだろう。黄金の鐘ゴルトグレックヒェン
 セヴランの草花の知識は曖昧で説明は端的に過ぎたが、専門家で愛好家であるカイが見当をつけるのは早い。春のはじまり、時期的に、エニシダも連想する雰囲気はきっとそうだろうと。
 名を聞けばいつものこと、ああ、とセヴランも得心がいった。そのままのタイトルの曲がこの国にはある。
「春が来たぞ、森に丘に町に来た、木漏れ日の降る、小人の遊び場を見やれ」
 口遊む歌声は麗らかに弾む。
 他にも多数、春の歌を歌えば何度も出てくるくらい、ありふれて愛された花だ。カーリンでは庭でも、自然にも植わっている。
「レンギョウも好き?」
 歌った唇を微笑みの形にしてセヴランが確かめるのに、思ったとおり頷きが返る。
「好きだ。春が来たって知らせる花だからな」
 カイはここ最近どの花にもそのようなこと言う。
 多くの人々は暖かく過ごしやすい春を喜ぶ。園芸趣味の人間はより一層、浮かれる季節だ。その到来を告げる花となれば好みとはまた別にも嬉しいものなのだった。花そのもの以前に、咲いたとの報が既に喜ばしく目元を和ませる。レンギョウはその代表格だ。
 話しながらも手は止めず前髪の根を探るのを受け入れて、セヴランは組んだ足の爪先を揺らした。
「帰る前に見てけば。今日はまっすぐだろ?」
 付き合いが長くなって、曜日ごと大体のスケジュールが分かるようになっていた。行き先によって違う通り道も把握した。今日はセヴランの採取が終わった後はすぐ本部に戻る日で、今言った橋に寄るなら少しだけ遠回りをすればよい。寄り道未満の気軽さだ。
 提案にカイは一度窓を見た。確かめるまでもなくよい天気、見事な快晴である。何もしないで帰るのは惜しい、というやつだった。
「そうしようかな。……貴方も、散歩に行かないか? 折角だから」
 咲いていたのを教えてくれたくらいだから多少の関心はあろうと、距離の分気軽な誘いにする。セヴランはゆっくりと瞬いて考えた。夜更かししたのでうっすら眠いが、健康の為に出歩けというありがたいご指導とはちょっと違う言葉は、確かに彼の心を揺らした。
「パンが無いから買いに行こうかな」
「パンは一応買っておけって言ってるだろうが」
 煩いお小言のほうははいはいと聞き流す。
 その後採取は滞りなく。観察――おしゃべりの時間を常よりは少し早く切り上げ、二人は共に外に出た。
 暖かくなった上すぐ近くを見に行くだけなので、セヴランは服装を少し整えただけの緩い格好で財布と鍵をポケットに捩じ込んだ。そんな体を春風が包む。家の中での日向ぼっことはまた違う心地よさに足取りは軽い。
 まずパン屋に寄ってパンを買う。セヴランはいつもの食べ慣れたものを、カイも昼食にとおすすめを買った。まだほんのりと温かい紙袋を抱えて歩いた。川に架かる橋を目指す。
「もう食うのか」
「焼きたてだし」
 途中、がさごそと鳴ったのにカイが横を見遣れば紙袋からパンの先端が突き出ている。普通ナイフで切り分けるサイズだが、セヴランは気にしない。
 空腹感に、香ばしい匂いに誘われるまま齧りつく。育ちのよいカイは少し窘めるような顔もしたが、こういうのが美味い、と手慣れた男の様子にはそんな気もしてきた。何せピクニック日和だ。外で飲み食いするのが楽しいのは彼もよく知るところだ。
 そうこうしているうちに住宅街の小さな橋は見える。その下の土手。
「ああ、すごい、満開だ」
 言っていたとおりに並ぶレンギョウの黄色がカイの声を弾ませた。
「綺麗だな」
 歩みをより緩慢にして、橋の上で立ち止まり隣り合って視界に収める。花を眺めるにはよい場所だったが、丁度人気はない。
 静かに流れる川の水面が眩く、立ち寄る水鳥も長閑さを演出するようで。見慣れた住宅街の只中は春と題して描いたように美しかった。
 どんな花も大体好きで春といえばと色々な花の名を挙げることのできる園丁官も、咲き誇るそのものが目の前にあればただ心奪われる。
 鮮やかに染まる花の黄色は巡ってきた季節の喜びの色だった。望む横顔も。その表情の柔らかなこと。
「カイ、」
 名を呼んだのは非常に短い歌のような声だった。なんとなく呼びかけてしまったのに顔が向く。花を見ていた瞳がセヴランを映して窺う。
 一呼吸置いて、セヴランは食べかけのパンを掲げた。
「……君も食べる? 反対の端っこあげるよ」
「じゃあ一口」
 一口、には大きく。雑にむしったのが手渡される。齧り、確かに美味いとしみじみ噛み締めながら、カイは再びレンギョウの黄色に見入った。枝が揺れないほどの柔らかな風が吹いて頬を撫でていく、その空気を小麦の風味と共に吸い込んで、石造りの手すりに凭れた。
「いい天気だな。このまま出掛けてしまいたくなる」
 零れる呟きにまたパンを咥えていたセヴランが瞬く。
「君でもそんなこと言うんだな」
「俺をなんだと思ってるんだ?」
「真面目、生真面目、馬鹿真面目」
「一つでいいだろそれは」
「でも仕事ほっぽって遊びにはいかないでしょ」
「当然だ」
「一回やってみようよ。癖になるかも」
「なったら困る」
 つれない返事にセヴランは芝居がかって肩を竦めて見せた。もし連れ出せたならいけないことをしている背徳感でさぞ楽しいだろうが、ここで絶対に頷かないところがカイの魅力である。全然期待していなかった。
 今、これはこれで最高に心地よく満たされた時間を損なうのは惜しく。無駄に駄々を捏ねるのはなしにして、彼も大人しく花を眺める。
 その白葡萄色の瞳は、最近外で花を見つけるのが得意になった。
 花を見かけるとすぐカイの顔が思い浮かぶ。咲いていたことを教えたくなる。すべての花が、彼の為に咲いたような気さえしてくる。
 証拠のように、一人通りすがりに見つけたときより花はずっと美しく見えた。
「……そろそろ行くよ」
 パンを食べ終え、もう暫らく。ある瞬きで切り上げて、カイは足元に置いていた鞄を持ち上げセヴランに向き直った。
「ありがとう、見れてよかった」
「誘ったのは君のほうだけど」
「そうだったか?」
 笑い合う。軽い言葉を重ねたその場で、じゃあと手を振って些細なデートは終わりだ。カイは仕事へ、セヴランは自宅へ。それぞれの一日に向かう。
 もう一度ちらとレンギョウを振り向き、セヴランは目を閉じる。ぽかぽかと温かいのは日差しだけではなかった。心の芯まで眩しい黄色に染まっている。
 ――ああ、
 春が来るのがこんなに幸福だとは、と歌の旋律を辿りながら石畳を蹴る。家に帰ったらたっぷりと水を飲んで、二度寝しようと思った。きっととても気持ちがよい。
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