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緑の導
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セヴランの部屋にひとつ、物が増えた。
彼が身に宿すものにも似た、星のような形をした葉を連ねる蔦の一種だった。冬場でも温かい室内でなら青い色を保って育つ。
この家は殺風景で寂しいから置いてみないかとカイが提案した。時期柄花を摘むことはできなかったが、こういうとき蔦が扱いやすく育てやすいのを彼はよく知っていた。花瓶など大仰なものは要らない。自室の鉢から少し切り取ったものを酒の空瓶に挿して窓辺に置いた。それだけでも彩りになる。
「飾るのいいけどさ、すぐ枯れちゃうよね」
置いた端から惜しむ、微妙な顔でぼやくセヴランにカイは首を振ってやった。
「これは適当に水さえ替えれていれば根が出ると思う。まあちょっと時期が遅いが、多分」
「――土無くてもいいの?」
「根が出てきたら植えるやりかたもあるけど、水だけでも」
教えられ、まるで知識のないセヴランは半信半疑ながら言われたとおり毎日水替えをした。それで本当に萎れることなく葉がぴんとしたまま、下からひょろりと根が出てきたのを見て、感心した。根が出たと朝一で報告すれば、毎日世話と観察をしているのだと知れたカイが喜んだので、自分の手柄のように誇らしくなった。
それから思ったよりも逞しい草が一層気になり始め、何気なく眺める時間ができた。艶やかな葉が日に透ける様は綺麗で、これは確かに悪くないなと思った。そういう感想を抱くとまた、カイの考えを知り近づいた気がして、悪くない。
日々、生い茂っては手入れされる庭であるのはセヴランのほうだが。その一枝は彼に色々と与えてくれる人の象徴のようだった。日差しは足りる部屋をさらに照らす灯りのように緑が差す。
次第に、その傍に物が集まるようになった。特に財布や鍵、大事なものは窓辺の中でも横に置いておくことになっていった。先日押しつけられたサックなど突っ込んだ小物入れも横に並んだ。
「玄関のエニシダを剪定してもいいかな」
そんな新たな習慣が根づいた頃に、カイは切り出した。採取作業を終え紅茶を淹れたところで、セヴランは朝食のパンを齧っていた。
神秘の庭の話ではなく、この家の話だった。セヴランはそこに思い至るまで一つ瞬きをして、口の中のものを飲み込んだ。
「ああ、横の木? 邪魔か」
「まあそれもあるんだけど、今手入れしておけば来年にいいから」
別に彼は頓着しなかった。むしろ、確かに扉の前に出てきて邪魔臭いので、切ってもらえるなら普通に有難い話だと思う。しかしカイは曖昧な頷きでどこかそわついた雰囲気だった。
「ついでに草むしりとかもしておくし……」
話は玄関の枝では済まない。それでセヴランはやっと分かった。呆れ交じりに笑う。
「ていうか、やりたいんでしょ。好きだな本当に。なんか植えたい?」
草むしりなど面倒臭いに決まっているが、窓の外で荒れた庭を見ると、カイはうずうずするのだ。それでも人の家だからと遠慮をしている。押しが強いのだか弱いのだか分からない庭好きに手入れ以上のことを問うてみて、セヴランは首を傾いだ。
「……春になったら」
もしもの話ではなく、一段現実的にしてみる。そんな先のことを考えられたのはいつぶりだろう。などと感傷に浸る暇もなく。カイが見るからに明るい顔をした。
「いいのか」
――春も、まあ一緒に居るんだろうな。カイも当然そのつもりでいる。
その幸福感に、セヴランは一気に機嫌がよくなった。今訊かれたらなんでも頷いてしまいそうだ。放置して荒れた庭くらい勿論、全然構わなかった。
「いいよ、種でもなんでも蒔いたら」
「何がいい。貴方、好きな花とかあるか」
「えー君ほど詳しくないよ。好きにしなよ」
「好きにしていいのか」
セヴランにはただの空き地でも、カイにとっては夢のある空間だ。自宅の庭もほぼ任されている状態だがおおよそ形が決まって毎年育てるものを取捨選択しているところ、もう一つ好きに楽しめるなんて。いずれ一人暮らしをしても鉢植えからかなと考えていただけに。
それは少し、荒れているなら綺麗にしておけないかと考えたとき、ついで何か一つくらい植えておけば見栄えもするし花瓶に挿せるとも思ったりはしたのだが。丸ごととは。大変に嬉しくわくわくした。
「なんか大事なものとか植わってないか」
「覚えてるようなもんないから本当に好きにしていいよ」
興奮が過ぎて逆に臆する様子に笑い、セヴランは繰り返した。パンの残りを口に詰め込んで噛みながらちらと窓のほうを見る。庭も昔はよく遊んでいたが、この家と一緒に与えられただけのもので母もそこまで熱心に何かしていた覚えはない。たまに庭師を呼んで手入れしてもらっていたくらいだ。
それなら今は断然、カイの作る庭を見てみたかった。そこまでの作業を仕事ついでにはしないだろうから、また休みの日にも会えるということでもある。カイは楽しい、セヴランも嬉しい。よいこと尽くめだ。
「……でも俺の庭忘れないでよ」
「それは勿論、一番優先だ」
外の庭と過ごす時間はきっと素敵だろうけれど。先程柳の枝を切り終えた腕を撫でて揶揄うと、カイは瞬き、舞い上がっていた自分への照れに苦笑してはっきり答えた。
その答え方は満点で、セヴランの胸が満ちる。それが任務だからだとしてもよい響きだ。一番、自分が一番。実に、歌い出したい気分だった。
――春かあ、と暖炉頼みの寒さを越えた季節を思いつつ、セヴランは竪琴を抱えた。春待ちの調べを奏でながら、二人で過ごす時間を想像した。
そうして一つ、決心をした。
「よかったらまた弾かせてほしいんだけど」
セヴランはその日少し着込んで小奇麗な格好をし、久々に竪琴を抱えて家を出た。かつての日常の仕草でしっくりとは来るのに、同時に不安だった。それでも床屋で整えてもらった髪を掻きまわし――開店したばかりの酒場の中央を突っ切って店主に声をかけた。
顔を上げた髭面の店主は彼が子供の頃から付き合いのある男だった。母が死んで大いに荒れもう竪琴は弾けないと言って泣いたとき、早々に励ますのを止めにして、たまに飯でも食いに来い、とだけ言った。飲んだくれるセヴランを止めなかった。何も余計な口は出さないで、ただ密やかに酒を薄めたりはしていた。その程度の距離で四年過ごした。その程度の距離であったからどうにか、セヴランも此処に顔を出せていた。
今日この日も、選んだ。広場でも何処でも弾けばよいとカイは言ったし、そうしてやってみようと思ったが、まず此処に来た。
報告かも知れない。また弾くことにしたと、知らせたいと思った。たとえもう此処では雇わないと言われても、伝えるだけはしておきたかったのだ。
「流行りの曲もちょっと覚えてきたから」
ただ、できる努力はしておいた。他の酒場も巡って誰かが弾いているのを聞き覚えてからやってきた。年単位の空白を埋めるにはまるで足りないが、意欲があればレパートリーを増やすことは彼には然程難しくない。他は大体駄目だが、音楽だけは耳から指先まで恵まれていた。
「弾けるのか?」
「うん、一曲、やろうか」
短く問う店主にセヴランははっきり応じた。竪琴を掲げて胸を張る。いつか、少年の頃もそうして見せたように。
「いつもの」
雑に、弾いてみろと促される。店主のリクエストはいつも決まっていた。随分前、セヴランが生まれた頃の流行歌だ。海辺の景色を綴る長閑な歌。冬には似合わないと言われてもとにかくそれだった。セヴランも何度も奏でて手に馴染んだ一曲だ。母と共に弾いて、これで一杯飲ませてもらったものだ。
思い出が甦る。つんと目の奥が騒ぐ。それは海の潮だと思うことにする。
泣き出すより先に吸った息を吐く。ら、ら、ら。音を掴み。弦を弾く。
広々とした海の景色を、踏み出した足に触れる砂粒の細かさを、波打ち際で遊ぶ乙女を、遠くに浮かぶ舟を、眩い夕暮れを、海鳥の声を、響き続ける波の音を、紡ぐ。
歌ううちにちらほらと常連がやってきた。皆一瞬酷く驚いた顔をして、それでもいつもの席に座っていく。女将や店員にいつもの注文をして、今日も楽しい夜を始めるのだ。
その日常を飾るのが彼ら町楽師の調べだ。聞き入りついつい長居をさせる、気分をよくして一杯多く呷らせる。明るく、面白く、ときに切なく寄り添う音色、物語り。
凍える冬を越しまた春が来て――この歌が似合いの季節も来る。その景色を思い浮かべ恋いながら、セヴランは歌った。数年の不在を感じさせない堂々とした振る舞いで響かせた。
やがて麗らかな竪琴が締め括る。その余韻まで聞き届け、それから店主は動いた。
「……場所代は前と同じだ。稼げよ」
拍手の代わりにぶっきらぼうに寄越される一言に、セヴランは破顔する。用意された酒を気つけのように呷り、さあと振り向く。少し老けた馴染みの顔ぶれが待っていた。
「坊主、またやるのか」
「坊主って歳じゃないだろ。もう名前忘れた?」
「セヴランだろ、覚えてるよ」
お互い、以前の話し方を思い出すように調子を出して言って、陽気な返事に安堵する。
セヴランは頷き――少し俯いてまた弦を撫でた。爪弾きながら彼らの酒が揃うのを待ち、乾杯の一曲を響かせる。常よりなお賑やかに華々しく、宴の始まりを告げた。
「前に来てたの、友達か」
そう訊かれると、些か強張っていた頬が緩んだ。楽師としての再出発と意気込んだが、それと同時にこうして誰かと、カイの話もしてみたかったんだなと気づいた。
セヴランが此処に人を連れてきたのは随分久しぶりのことで、あんな風に笑って語らっていたのだから親しい相手に違いない、それで今日元気になってやってきたのだから、彼が何某かのきっかけに違いないと皆察していた。
「うん、まあ、そんなとこ。庭師みたいなことやってる奴」
「家の庭やってもらったのか?」
指先は動かしながら答える。セヴランらしいとは言えない接点に意外そうにするのに、彼は笑って首を振った。
「それはまだ。まあその話はそのうち。今夜は張り切って歌わないとさ」
それはまだ先の、これから来る春の話だ。
しかしその日の為に今日此処に来た。庭仕事は庭師に任せるにしても、庭師が休憩に寛ぐ部屋のほうを綺麗にする分、もてなす美味しい茶や菓子の分、自分も少し頑張っておこうと思ったのだ。先の季節にもっと楽しく笑う為に今日を過ごそうと彼は踏み出した。
歌い、語り、遅くまで楽師の仕事は続いた。ただ酒に酔うのとは違うその高揚は酷く懐かしく、心底楽しいものだった。
彼が身に宿すものにも似た、星のような形をした葉を連ねる蔦の一種だった。冬場でも温かい室内でなら青い色を保って育つ。
この家は殺風景で寂しいから置いてみないかとカイが提案した。時期柄花を摘むことはできなかったが、こういうとき蔦が扱いやすく育てやすいのを彼はよく知っていた。花瓶など大仰なものは要らない。自室の鉢から少し切り取ったものを酒の空瓶に挿して窓辺に置いた。それだけでも彩りになる。
「飾るのいいけどさ、すぐ枯れちゃうよね」
置いた端から惜しむ、微妙な顔でぼやくセヴランにカイは首を振ってやった。
「これは適当に水さえ替えれていれば根が出ると思う。まあちょっと時期が遅いが、多分」
「――土無くてもいいの?」
「根が出てきたら植えるやりかたもあるけど、水だけでも」
教えられ、まるで知識のないセヴランは半信半疑ながら言われたとおり毎日水替えをした。それで本当に萎れることなく葉がぴんとしたまま、下からひょろりと根が出てきたのを見て、感心した。根が出たと朝一で報告すれば、毎日世話と観察をしているのだと知れたカイが喜んだので、自分の手柄のように誇らしくなった。
それから思ったよりも逞しい草が一層気になり始め、何気なく眺める時間ができた。艶やかな葉が日に透ける様は綺麗で、これは確かに悪くないなと思った。そういう感想を抱くとまた、カイの考えを知り近づいた気がして、悪くない。
日々、生い茂っては手入れされる庭であるのはセヴランのほうだが。その一枝は彼に色々と与えてくれる人の象徴のようだった。日差しは足りる部屋をさらに照らす灯りのように緑が差す。
次第に、その傍に物が集まるようになった。特に財布や鍵、大事なものは窓辺の中でも横に置いておくことになっていった。先日押しつけられたサックなど突っ込んだ小物入れも横に並んだ。
「玄関のエニシダを剪定してもいいかな」
そんな新たな習慣が根づいた頃に、カイは切り出した。採取作業を終え紅茶を淹れたところで、セヴランは朝食のパンを齧っていた。
神秘の庭の話ではなく、この家の話だった。セヴランはそこに思い至るまで一つ瞬きをして、口の中のものを飲み込んだ。
「ああ、横の木? 邪魔か」
「まあそれもあるんだけど、今手入れしておけば来年にいいから」
別に彼は頓着しなかった。むしろ、確かに扉の前に出てきて邪魔臭いので、切ってもらえるなら普通に有難い話だと思う。しかしカイは曖昧な頷きでどこかそわついた雰囲気だった。
「ついでに草むしりとかもしておくし……」
話は玄関の枝では済まない。それでセヴランはやっと分かった。呆れ交じりに笑う。
「ていうか、やりたいんでしょ。好きだな本当に。なんか植えたい?」
草むしりなど面倒臭いに決まっているが、窓の外で荒れた庭を見ると、カイはうずうずするのだ。それでも人の家だからと遠慮をしている。押しが強いのだか弱いのだか分からない庭好きに手入れ以上のことを問うてみて、セヴランは首を傾いだ。
「……春になったら」
もしもの話ではなく、一段現実的にしてみる。そんな先のことを考えられたのはいつぶりだろう。などと感傷に浸る暇もなく。カイが見るからに明るい顔をした。
「いいのか」
――春も、まあ一緒に居るんだろうな。カイも当然そのつもりでいる。
その幸福感に、セヴランは一気に機嫌がよくなった。今訊かれたらなんでも頷いてしまいそうだ。放置して荒れた庭くらい勿論、全然構わなかった。
「いいよ、種でもなんでも蒔いたら」
「何がいい。貴方、好きな花とかあるか」
「えー君ほど詳しくないよ。好きにしなよ」
「好きにしていいのか」
セヴランにはただの空き地でも、カイにとっては夢のある空間だ。自宅の庭もほぼ任されている状態だがおおよそ形が決まって毎年育てるものを取捨選択しているところ、もう一つ好きに楽しめるなんて。いずれ一人暮らしをしても鉢植えからかなと考えていただけに。
それは少し、荒れているなら綺麗にしておけないかと考えたとき、ついで何か一つくらい植えておけば見栄えもするし花瓶に挿せるとも思ったりはしたのだが。丸ごととは。大変に嬉しくわくわくした。
「なんか大事なものとか植わってないか」
「覚えてるようなもんないから本当に好きにしていいよ」
興奮が過ぎて逆に臆する様子に笑い、セヴランは繰り返した。パンの残りを口に詰め込んで噛みながらちらと窓のほうを見る。庭も昔はよく遊んでいたが、この家と一緒に与えられただけのもので母もそこまで熱心に何かしていた覚えはない。たまに庭師を呼んで手入れしてもらっていたくらいだ。
それなら今は断然、カイの作る庭を見てみたかった。そこまでの作業を仕事ついでにはしないだろうから、また休みの日にも会えるということでもある。カイは楽しい、セヴランも嬉しい。よいこと尽くめだ。
「……でも俺の庭忘れないでよ」
「それは勿論、一番優先だ」
外の庭と過ごす時間はきっと素敵だろうけれど。先程柳の枝を切り終えた腕を撫でて揶揄うと、カイは瞬き、舞い上がっていた自分への照れに苦笑してはっきり答えた。
その答え方は満点で、セヴランの胸が満ちる。それが任務だからだとしてもよい響きだ。一番、自分が一番。実に、歌い出したい気分だった。
――春かあ、と暖炉頼みの寒さを越えた季節を思いつつ、セヴランは竪琴を抱えた。春待ちの調べを奏でながら、二人で過ごす時間を想像した。
そうして一つ、決心をした。
「よかったらまた弾かせてほしいんだけど」
セヴランはその日少し着込んで小奇麗な格好をし、久々に竪琴を抱えて家を出た。かつての日常の仕草でしっくりとは来るのに、同時に不安だった。それでも床屋で整えてもらった髪を掻きまわし――開店したばかりの酒場の中央を突っ切って店主に声をかけた。
顔を上げた髭面の店主は彼が子供の頃から付き合いのある男だった。母が死んで大いに荒れもう竪琴は弾けないと言って泣いたとき、早々に励ますのを止めにして、たまに飯でも食いに来い、とだけ言った。飲んだくれるセヴランを止めなかった。何も余計な口は出さないで、ただ密やかに酒を薄めたりはしていた。その程度の距離で四年過ごした。その程度の距離であったからどうにか、セヴランも此処に顔を出せていた。
今日この日も、選んだ。広場でも何処でも弾けばよいとカイは言ったし、そうしてやってみようと思ったが、まず此処に来た。
報告かも知れない。また弾くことにしたと、知らせたいと思った。たとえもう此処では雇わないと言われても、伝えるだけはしておきたかったのだ。
「流行りの曲もちょっと覚えてきたから」
ただ、できる努力はしておいた。他の酒場も巡って誰かが弾いているのを聞き覚えてからやってきた。年単位の空白を埋めるにはまるで足りないが、意欲があればレパートリーを増やすことは彼には然程難しくない。他は大体駄目だが、音楽だけは耳から指先まで恵まれていた。
「弾けるのか?」
「うん、一曲、やろうか」
短く問う店主にセヴランははっきり応じた。竪琴を掲げて胸を張る。いつか、少年の頃もそうして見せたように。
「いつもの」
雑に、弾いてみろと促される。店主のリクエストはいつも決まっていた。随分前、セヴランが生まれた頃の流行歌だ。海辺の景色を綴る長閑な歌。冬には似合わないと言われてもとにかくそれだった。セヴランも何度も奏でて手に馴染んだ一曲だ。母と共に弾いて、これで一杯飲ませてもらったものだ。
思い出が甦る。つんと目の奥が騒ぐ。それは海の潮だと思うことにする。
泣き出すより先に吸った息を吐く。ら、ら、ら。音を掴み。弦を弾く。
広々とした海の景色を、踏み出した足に触れる砂粒の細かさを、波打ち際で遊ぶ乙女を、遠くに浮かぶ舟を、眩い夕暮れを、海鳥の声を、響き続ける波の音を、紡ぐ。
歌ううちにちらほらと常連がやってきた。皆一瞬酷く驚いた顔をして、それでもいつもの席に座っていく。女将や店員にいつもの注文をして、今日も楽しい夜を始めるのだ。
その日常を飾るのが彼ら町楽師の調べだ。聞き入りついつい長居をさせる、気分をよくして一杯多く呷らせる。明るく、面白く、ときに切なく寄り添う音色、物語り。
凍える冬を越しまた春が来て――この歌が似合いの季節も来る。その景色を思い浮かべ恋いながら、セヴランは歌った。数年の不在を感じさせない堂々とした振る舞いで響かせた。
やがて麗らかな竪琴が締め括る。その余韻まで聞き届け、それから店主は動いた。
「……場所代は前と同じだ。稼げよ」
拍手の代わりにぶっきらぼうに寄越される一言に、セヴランは破顔する。用意された酒を気つけのように呷り、さあと振り向く。少し老けた馴染みの顔ぶれが待っていた。
「坊主、またやるのか」
「坊主って歳じゃないだろ。もう名前忘れた?」
「セヴランだろ、覚えてるよ」
お互い、以前の話し方を思い出すように調子を出して言って、陽気な返事に安堵する。
セヴランは頷き――少し俯いてまた弦を撫でた。爪弾きながら彼らの酒が揃うのを待ち、乾杯の一曲を響かせる。常よりなお賑やかに華々しく、宴の始まりを告げた。
「前に来てたの、友達か」
そう訊かれると、些か強張っていた頬が緩んだ。楽師としての再出発と意気込んだが、それと同時にこうして誰かと、カイの話もしてみたかったんだなと気づいた。
セヴランが此処に人を連れてきたのは随分久しぶりのことで、あんな風に笑って語らっていたのだから親しい相手に違いない、それで今日元気になってやってきたのだから、彼が何某かのきっかけに違いないと皆察していた。
「うん、まあ、そんなとこ。庭師みたいなことやってる奴」
「家の庭やってもらったのか?」
指先は動かしながら答える。セヴランらしいとは言えない接点に意外そうにするのに、彼は笑って首を振った。
「それはまだ。まあその話はそのうち。今夜は張り切って歌わないとさ」
それはまだ先の、これから来る春の話だ。
しかしその日の為に今日此処に来た。庭仕事は庭師に任せるにしても、庭師が休憩に寛ぐ部屋のほうを綺麗にする分、もてなす美味しい茶や菓子の分、自分も少し頑張っておこうと思ったのだ。先の季節にもっと楽しく笑う為に今日を過ごそうと彼は踏み出した。
歌い、語り、遅くまで楽師の仕事は続いた。ただ酒に酔うのとは違うその高揚は酷く懐かしく、心底楽しいものだった。
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