緑を分けて

綿入しずる

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恋の卵(前)*

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 菫のような香りがした。生えているのが馴染みになった蔦などではないのは一目で知れる。花が咲いている。
 ある日、セヴランの右足は男の足には似合わない可憐な花に覆われていた。脹脛のあたりで紫色の星型の花が満開である。
「待ってたよー、もう、こんなところに生えるからズボンも履けなくて」
 下着は身に着けて寝ていたから助かったなどと言うとおり、素裸ではなく膝上丈の薄い物だけは履いている。過ごしやすい夏で、もう慣れた園丁官の訪問に恥じらいや遠慮はなく、構えず開けたらそんな恰好だったカイのほうが戸惑ったくらいだった。
 重くもないのですたすたと進んで、芳香を撒きながら居間に戻る。椅子に腰掛けて差し出される足に、向かい合って座るのではやりづらくカイは床に跪く。珍しい、少なくともまだ実物を見たことのない植物だ。急いで手袋を嵌める。
「すみれ……じゃないな、色も紫だがこれは……――」
 匂いはやはり似ていたが、春に見る可憐な姿ではない。花も葉も形が違う。まず資料として撮影、そのまま鑑定依頼、と考えて――カイは、その特徴に符合する記憶に目を見開いた。
 慌ただしく図鑑を捲った。幾つかの図が描かれたページに達する。現物を観察して描かれた精密画ではなく、神話として伝わってきた絵と記述だった。大きく開く五花弁、菫色の花。その中央から伸びる鮮やかな黄色い蕊。細長い葉。やがては花と同じ色、あるいは白色の卵のような実がなるという。
 ――花は恋を目覚めさせ、葉や茎は愛を太らせ、根は欲望を奮い立たせ、実は更なる官能を呼ぶ。
 恋と性愛のときめき、昂揚と恍惚を呼び起こす媚薬。
「っ、……」
 カイは再び屈んで触れた。手袋を嵌めた指先がそっと花を掬いあげる。――その動きにセヴランが小さく身を竦めたのには、まだ気づかない。セヴラン自身もちょっとくすぐったいなという程度だった。
恋の卵ツェ・アイだ」
 セヴランは、カイが言うのに瞬いた。耳慣れない響きに眉を寄せる。
「なに?」
「恋の卵、サリュラーエが用いた」
「――グロインに飲ませたやつじゃん! そんなのまで生えるわけ!」
 が、擦れる声が繰り返すと、女神の名から思い至る。サリュラーエ、水鳥の乙女、旅路の守護者。その想い人がグロイン。
 セヴランが意外と詳しいのにも、カイは驚いた。そうだ、と頷く。
 惚れ薬や媚薬に関する伝承は数多あるが、その中身に関しては伝えられる中で曖昧になっていき、何を使ったとかレシピまでが残っているものは限られていた。その限られる一つが恋の卵だ。美しい女神が許嫁のいる英雄を誘ったが靡かなかったので、酒に混ぜて飲ませ事に及んだと言い伝えられている。が、これはあまり一般的に知られた話ではない。艶がありすぎる話であるので、酒場などでそういう意図で語られてきたのだ。
 品行方正な生き方をしてきたカイはこの仕事に就いて改めて神話を勉強する中で知った。他の話に媚薬が出てくるときもサリュラーエの名がついてくることが多いので、実はこれが関係していることが多かろうと推測されている。
「詳しいな。俺も初めて見た。発現の記録は多分無いはず――」
「っひあ」
 自分は神話から俗歌までなんでも来いの町楽師だと、セヴランは教えられなかった。
 生え際を確かめるべく触れた指の感触がいつもと違って、悲鳴に近い声を上げる。そのことに自身驚いて口を押さえる。見上げたカイと目を合わせて、視線が徐々にずれた。
 カイの手元、己の足、恋の卵なる植物が生えた場所を通って――下腹部へ。
「いやちょっと、擽ったいっていうか……ぞわぞわするっていうか……」
 セヴランは座り直して、足の間に手を置いた。さりげなく、股間を隠すように。
 ぞわぞわもするが――これはむらむらだ。何やら肌が敏感で、体の奥も疼く。強い酒を飲んだときのように体が熱い。それもなんとなくそんな気分というだけでなくかなり具体的なあれだ。娼婦と盛り上がって、もうそういう感じになっているときの、性的興奮。
「……これのせいってこと?」
「その可能性はある。もしこれがこのままでも効くなら、此処に、在るわけだから」
 もしやと恐る恐る呟くセヴランに、対してカイは明るい声で口早に応じた。
 彼はこの発見のほうに興奮していた。そういう影響が出ているということは本当にこれは恋の卵であり、記されていたとおりの効果が期待できると見てよい。
 ――すごい、神話の媚薬が此処にある。先日の音楽に勝る収穫だ。なんと豊かな庭だろう……
「マジかよお……早く切ってよー」
 男相手にそんなことになるなんて、とさめざめ顔を覆うセヴランにはっとして、やっと立ち上がった。
「急ぐ」
 答え、確かに急ぎで準備を始めるが何せ貴重な標本である。絶対に無駄にはできない。
 撮影を行い、新種発現の報告をして、輸送用の札などを準備する。常より厳重に運ぶべく布ではなく、魔法を用いた硝子箱の保管器を組み上げる。そういう時間がかかる。迅速ではあったがセヴランにはあまりにじれったい。
 待つ間、セヴランはまるで落ち着かなかった。珍しい道具を楽しむ余裕もないほど。目の前に居るのは艶めかしい女などではなく猥談にも付き合わない堅物の男だというのに、体はそんなことに関係なく昂っていく。さっきまでのは序の口だ。段々酷くなる。
 採取前の観察、その視線さえ気になるようだった。が、セヴランにはより酷なことが判明する。
「根がある」
 今日の発現は半分、根が露出していたのだ。足に張り付くようにして這っている部分がある。
 ――サリュラーエが用いしは、最も猛る純白の根。酒に浸して……
 卑猥な掛け合いも交えて歌い上げる英雄グロインの苦労話を思い出しているセヴランに、カイは続けた。
「まず剥がす。――少し時間がかかるが我慢してくれ」
 標本の採取はなるべく良好に、なるべく完全な状態で、だ。園丁官の優先は窮する自分ではなくこの植物のほうではと悟り、セヴランはまた悲鳴を上げる。
「嘘だろ君。急げよ」
「急ぐが」
 カイが触れる――と、先の比ではないものが彼の足を走った。股間に直結するような快感だった。
 ――嘘、無理、駄目だろそれは。
 本当に早く終わらせてくれないと大変なことになる、予感がしたが、堪えがたい。逃げかける足を制して、膝を押さえつけられるのにも呻く。
「動くな、急ぐから」
「くすぐっ、たいんだって……!」
「我慢してくれ」
 妙な声が出そうになるのを抗議に変えても、カイは止めなかった。どの道剥がして切ってもらわなければならない以上、もうセヴランは動けない。真剣に俯いた園丁官を睨み――耐えきれず顔を背ける。
 手袋越しで体温など分からないのは幸いだった。少しだけ。触れるのではなく掠めていくのは、逆によくなかったかも知れない。
「ぅ、うん」
 ピンセットも用いて足に這う根が剥がされる。漏れる声を咳払いで誤魔化す。のを何度か繰り返した。そのうち息が乱れてきた。汗ばんでくる手をぎゅうと握ったその陰で、予感のとおり性器まで反応し始めた。勃ってしまう。触っているのは男で、いつもの作業をしているだけなのにと焦る。
 ――カイだぞ、女じゃなくて。
 日々相手をしてくれる園丁官のことをセヴランは気に入っていたが、そういう意味でではない、はずだった。彼は女が好きで、よい匂いのする柔らかい胸に顔を埋めるのが大好きだった。――というのも今考えるとよくなくて、逃げ場がない。採血のときのように一瞬で済むならば、言われていたとおり窓でも見てやり過ごすものを。
 採取の進捗はセヴランにはよく分からない。ただ、カイが真剣に己の足を見つめていることしか。その視線がまた、彼の肌を粟立たせた。
 ――シたい、擦ってぶちまけたい。――いやこんなので勃って堪るか、イって堪るか、恥ずかしすぎるだろ。
「ちょっと、まだ……」
 急かすのに、青い目が上がる。それに射貫かれるように思えて、ぞくんと腰から背を抜けるのも悪寒ではなく快感だ。根が剥がれた刺激に、下着の中で勃起した物が反応するのが分かってセヴランは歯を食いしばる。
「――まだ、もう少し……我慢しろ」
 カイはただ繰り返して作業に戻ってしまう。
 苛立ちと抗議、そして快感を堪えるのに、セヴランの足が床を踏みしめる。
 最後まで根を剥がし終え、残りに鋏が入る。刃の冷たさにもびくと身が竦んだ。息を飲むのが生々しく聞こえるのを隠すように、音を立て切り取ってカイが離れる。は、と彼も留めていた息を吐き出す。瞬間、セヴランは椅子を揺らして立ち上がる。
 もう、カイがどうしているかを見る余裕はなかった。
「セヴ――」
「あと!」
 保護剤と消毒をと呼び止める声を振り切って、駆け込む。家の奥、暗がりのトイレに逃げて下着の紐を解いてずりさげる。
「っあ、」
 既にはち切れんばかりに膨らんでいたそこを握って、どうにか二度ほど擦った。形ばかりの自慰だった。ギリギリでそうした。
 ぐっとせり上がる熱い物にセヴランは声を抑える。勢いよく噴き出す白濁が便器を汚した。一度ならず、脈動に合わせて二度三度と放つたび、汗も滲むほどの深い絶頂だった。目の前がちらつく。
 ぎゅっと瞑って、眩む視界にカイの姿がある。先程まで見ていた金茶色の頭が思い出された。
 自分の足に丁寧に触れた、根を張る植物をそっと剥がす。俯いて見えた顔。
 ――やだやだ、違う。
 セヴランは身震いと共に頭を振った。足を撫でられてどうこうなる趣味はない。男に触れられて興奮する趣味なんてない。これも花の所為に違いない。
 しかしただ欲情していただけではなく今、思い出して、イってしまった。
 ――あいつが焦らすから……!
「っは……くそ、」
 射精はしたが、普段と違ってなかなか気分が治まらない。まだ擦りたくなる。再び、今度はぐにぐにと亀頭を刺激して勃起させた。すぐ勃ちあがる。
 それがまたとんでもなく気持ちよく、夢中になって弄って、扱いた。
 待ちかねた自慰だ。その刺激だけでも十分事足りるはずだったが、セヴランの意識には彼が居た。
 手袋を嵌めた指が撫でる。見つめられている。あの刺激を堪えて、堪えて。青い瞳が見遣る。まだ駄目だと囁く低い声にも体が震わされるようで。それを思い出してしまう。
「っん、ぁ、ああ――……っ」
 快感に負けて声が上がる。足が震える。握った中心から溢れ出た精液は、すぐに至った二度目とは思えぬほどにたっぷりと出て手や床を汚した。
 セヴランは肩で息をして――やってしまって愕然とする。
 二度も、カイで抜いてしまった。
 今までは普通に女を抱いて生きてきて、男となど考えたこともなかった。それなのに、二度も。は、ふ、とまだ声も混じる息を零す唇を食んで、ようやく引き始めた快感の波に浸りながらも、惑う。
 カイは優しいイイ奴で顔もよいとは思っているけれど、そういうことではないはずだった。でも自信がなくなってきた。声もなかなか悪くないなとか、髪や目の色が綺麗だなとか、思っているのもそういうあれに思えてきた。いやすべて花の所為、恋の卵の所為だと言い聞かせても、己が疑わしい。
 どんな顔をして居間に戻ればよいのか分からず、セヴランは薄暗いトイレで暫らく座っていた。でもそうしているとあの真面目な男に、無事かと呼ばれてしまいそうで落ち着けはしなくて、どうにか汚れたのをおざなりに片付け手を洗い、ついでに足もごしごしと拭って戻る。植物の名残はもう役目を終えたとでもいうように消え失せていた。
「っああ、――大丈夫か」
 戻ってきたセヴランに、輸送を終え図鑑を捲っていたカイが顔を上げる。作業中は無視していたようなカイだったが、何が起きたのかはさすがに分かっていた。見合わせた互いの顔が赤くなる。火照る顔を逸らせ、俯かせて、気まずい。
「平気平気、すっきりした」
 セヴランはなるべく軽い声音を作って誤魔化す。何か余計なことを言って気色悪がられたくない。今のはあくまで生理的なものの処理だったと、頷き合う。カイはセヴランが何を思ってして、、いたのかを知らないのだから、それで済む話だった。これはただ、予期せずそういう場に遭遇したときの普通の気まずさ、だ。
 やや置いて、テーブルに並べたままの道具を目で示し、カイは促した。
「……確認にもう一度見せてくれ、消毒もする」
「っえ」
 まだ多少妙な空気が残っている中、やらないわけには行かないと仕事を再開に持っていく。セヴランは思わずと声を上げたが――カイがごねるのを許してくれないのは明らかだった。
 文句を言いかけた口を閉じはいはいと何とも思っていないように頷いて、なるべく荒々しく椅子に戻り、色気なくどうぞと足を突き出してやる。早く打つ胸を宥める。
 ――別にチンコ見せるわけじゃないし。ただの足だし。もう平気だし。
「洗ってきたから、何も無くない?」
「ああうん、そうだな」
 花が根を張っていた痕などはどこにもないのをカイも確かめた。塗る先が無いので保護剤は止めて、消毒だけにする。
 ガーゼが撫でる感触がいつになくこそばゆく、そしてカイが触れるのが気になって、またどうにかなってしまわないかと不安で、セヴランは口を噤んでまたぎゅっと、椅子を掴んだ。
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