蕾は時あるうちに摘め

綿入しずる

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煙草と酒臭さ、スープの中のニンニクと

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 ニビはタドが好きだ。タドも――ニビの匂いが好きだ。そこまでは確信して、ニビは差異を思う。
 タドは匂いの為にニビに触れる。
 触れたくて触れているようで、違うかもしれない。体の相性はよくても他は合わないなんてことはざらにある。ニビはタドと過ごすのが楽しいが、向こうはどうだと気にかかる。言動を見て上手くやっているつもりではある、体で陥落してしまおうとはしているけれど、匂いの為に我慢して付き合っているのでなければいいなと思う。匂いだけじゃないといいなと思う。
 ――匂いは自分だろうか。それとも切り離してしまえるものだろうか。
 ここまで来て、自分を主体にした香水まで作ってもらって嬉しい反面、こんなにもよい匂いが作れるのだと知り彼の胸には不安が過ぎる。もしも、たとえば自分の匂いそのままの香水があったとしたら、それを嗅いでいればあの人は十分なのではなかろうかと仮定してみて、へこむ。
 新しい家で暮らし始めて早十日が過ぎようとしている。その前から、前の家でも同棲と言える過ごし方をしていた。一所に留まっていることがほぼなかったニビにとっては数日でも十分長い。そうして落ち着いてくると楽しいことだけではなくこの先を考えてしまうものだった。
 タドを納得させる為に我儘を言って色々と買ってもらったりセックスに持ち込んだりはしていたが、ニビもどちらかと言えば相手に尽くしたいタイプだ。好意は求める以外のかたちがある。性欲とて旺盛だが毎晩毎晩がっつきたいほどではない。自分で解消する術も多彩に知っていた。
 満たされるには、好かれる自分でありたい。抱いてくれ、抱かせてくれ、ましてや恋人でいてくれなどと、言って叶えさせるつもりは毛頭なかった。けれど、じゃあどうしたらこのまま楽しくいられるのかと考えてみると、色々と懸念も浮かんでくる。
 ――逆は?
 もし自分の匂いが変わったらタドはどうするだろうか。悪い想像をする。
「かーんぱいっ」
 慣れた歓楽街の酒場で、酒杯を掲げて寄せ合う。華やぐ香りのサンザシ酒が揺れる。
「はい乾杯。ちょっと空いたけど元気だった?」
「ええ。最近暖かいし楽ですね」
 今日の酒の相手は以前に恋愛相談を受けた客だった。こういった場所があまり似合わない地味なお坊ちゃん風の彼は、聞けば城にお勤めの立派な文官だった。結局体は繋げずに、しかし飲み友達として落ち着いた仲である。まったく身分は違うが気にしないどころか慕ってくるのが悪い気はしなかった。相手のほうが年上だが経験、、の差でニビが先輩の雰囲気で、初対面の日と同じく恋の話をすることもあるが――そちらの話はよい方向に纏まったこともあり、酒のアテは専ら猥談だ。大人しそうな雰囲気とは裏腹に自分で尻を開発していて、玩具で慰めたり恋人に抱かれたりするのが大好きな人なのだった。ニビが教える色々に大変よい食いつきを見せる。
 けれど彼も色々と教えてくれる。学者の家の生まれで城でも書庫の本の管理を任されているのだという男は、その仕事の印象のとおり博識なのだ。
「ね、スイさん物知りだから聞きたいんですけど」
 しばらく適当な話題を交わしてそう、ニビは切り出した。窺っていたのではなく今思いついた。訊くには丁度良い相手かなと。
「年取ったら匂い……体臭って変わっちゃいますよね?」
 自分が悩んでいるというだけでなく、相手も楽しそうに話してくれそうな話題だと。言ってぐびりと酒を飲むニビを見つめて客――スイは瞬いた。
「うんまあ……そうだろう。成長とか、老化とか。あと食べる物とか酒とかの嗜好でも変わるみたいだし」
「えっそうなんですか。……それ、すごく変わる?」
「んー? 動物は結構それで分かれるっていうけどな。人間の話だろ? 山脈の先の国の人間のほうがって話はあった気がするけど……それが食べ物の所為かまでは聞いたことがない……」
 彼は思ったとおり、よく聞く一般論よりも本などの知識を引き出してきた調子で言う。匂い、臭い、と医学やら生物やら、はたまた地誌の棚の記憶を巡って視線が宙を辿る。――聞いて、ニビの思考は悪いほうへと舵を切った。
 ニビの見目も匂いも、ただ生まれ持ったものだ。磨くという意識は彼には然程ない。食事はある物を適当にという生活で、酒はがんがん飲む。多少飲み食いしたときに、あるいは二日酔いで酒臭いくらいのことは自他ともに覚えがあったが、後の体臭に影響というほど長期的なものがあるとは思ってもみなかった。タドに会ってからもそこまでは気を使ったことがなかった。
 ――気にしたほうがいいのか。いやけど、タドさんは今の僕の匂いを好んでいるんだから……適当に食って飲んで、それでこの体はできてるんだから、今までどおりがいいのか……
 スイの声を聞きながらそこまで考え、しかしと思う。
 そこまでは気遣えたとして、しかしやっぱり、年を取りたくないとはさすがに無理だ。
 多くの人々が悩み憂う問題に、ニビはこんな方向から直面している。見た目が老けるのもそれなりには気にして、男娼を続けるにしても売り方を変えたりしなきゃいけないだろうとは以前から思っていたが。不特定の客の話ではなくタドの関心が失せるのではと思うと今までにはない、凄い不安だった。現状がとても好かれているだけに。
 そのうちにスイの解説が途切れる。ざっと知識を披露してみて、こういう話でよいのかと窺う眼差しに、ニビは幾分固まっていた頬を解して笑みを作った。
「いや最近気にしてて……――お客さんに言われたのが。いや臭いって言われたんじゃないですけど」
 実は最近同棲を始めて、などというのはこの流れでは告げそこね、ぼかしてぼやく。聞いたスイは、そのお客さんというのが例の好いた相手なのかな、くらいの想像はした。相手の服の質や雰囲気が変わったことに気づく類の敏さはない。
「匂いだっていい匂いじゃないか」
「これは香水だから、そりゃいい匂いですよ」
 顔だけではなくと褒めるスイにニビは眉を下げて笑った。酒から顔を上げれば漂うのは、白の園。あれも本当にお気に入りだったと言えばタドがまた、今度は少し多く入る綺麗な瓶のを買ってくれた。
「でも元々いい匂いしそうだな、ニビさんは」
「嗅いでみます?」
 初めて会い身を寄せたようなときもこの香水の匂いがしていたから、スイはニビ自身の匂いは知らない。それでもきっとと考える程度にはニビは美男子だ。しかし襟をちょいと摘まんで誘惑するのに、スイは迷わず、すぐ首を振った。
「それは多分怒られる。匂いくらい、とも思うけど……浮気ってどこから言うんだろうな?」
 恋人――実はニビとも知り合いで以前客だったと判明した男のことを思って、惚気る調子で笑う。色恋には疎くでも駄目だというのは肌感覚で分かっているし、やらない。そういう自身をしっかり持っている人はニビにとっても相手がしやすかった。今のは色気が効かない相手への冗談に過ぎない。
「僕的には怪しまれたらもうダメですね。やってるほうが何したかじゃなくて、やられたほうの気持ちなんですよ。ここを間違えると危ないわけ。たかが匂いでも、隣にいるだけでも」
「なるほど」
「まあバレなきゃいいとも言いますが。スイさんはすぐバレそうだから駄目です」
「っはは、違いない」
 今度は肩を竦めたニビのほうが教える調子で流暢に。何を考えていても口は上手く動く性分だった。こうして話すだけなら当の恋人から許可も下りている、不健全だが安全な関係を楽しんで酒杯を傾ける。
 ――タドさんは怒らない。そもそも恋人ってわけじゃないしな。多分、違う。
 男娼は辞める予定で動いているニビだったが、それはキンセに言われたからだ。すんなりと応じたのでタドの意見は聞いていない。元々客であった彼は自分が誰と寝ていようが特に怒らない、どころか気にもしないのではとニビは思っていた。
 スイも酒を飲んで息を吐いた。杯の縁を撫でておかわりの注文を考えながら、まず話をする。
「で、なんだっけ、匂いか。――前に教えてくれたじゃないか。相性がいいといい匂いに感じるとか……逆だっけ?」
 それは本の知識などではなく、以前ニビが教えた――こういう場でよく聞く、口説いてさりげなく手でも取りよい関係に縺れこむ為の薀蓄だった。
「あれは多分本当だよ。クノギはたまに汗臭いけど、あんまり嫌って思ったことないもんな。煙草は嫌だったけど、それくらいだな」
 ――じゃあタドさんと僕は他も相性がいいだろうか。だといいけど、いいんだけど。
 ぐだぐだと思い悩む自身の心を一端脇に押しのけて、ニビはまた笑んだ。唇が見事に弧を描く美しい笑みだった。
「ノロケますねえ」
「他に言える人いないから許してよ。奢るからさ」
「勿論。いっぱい聞いて、今度クノギさんからかってあっちからも奢ってもらいます」
 揶揄すれば、スイは照れくさそうに肩を竦めながらも悪びれはせず、互いの空いた杯を示して言った。そういう話をする為に居るとニビが言ったので彼らはこういう関係だった。もう一人、彼の恋人も交えて。
 その後楽しい話は幾らもあったが、結局ニビの心配は晴れきらなかった。ほどほどの時刻のうちに、噂されたり浮気を疑われたりしないように帰ると笑う人を引き留めず見送り――彼は残って、一人で追加の酒を注文した。

 きつい酒を呷り、ついでに久々に買った煙草も吹かして。ニビはいわば臭い状態で家に帰ってきた。風呂で擦って一晩寝れば大体はとれる、その程度でタドの反応を見てみようと思った。それならまだ自分の臭いではないから多分傷つかずには済む。いつかそうなってしまうかも知れない、そのときどんな感じか、構えておきたい。
 恋から冷めるなら早いほうがいいと酔った頭で考えた。
「ただいまー」
 部屋に突撃するまでもなく。扉を開けるのに苦戦して物音を立てていると、気づいたタドが起きてきてランプで照らした。おかえり、と返し――隠すことも無く顔を顰める。
「なんだい、珍しい……」
 眩しさに目を細めたまま笑う彼を、タドは酔っ払いだと断じた。ニビは今まではずっとタドの嗅覚に気遣って、会うときには身綺麗にしていた。それがこれだからそう思うのも無理はない。今日は友達と遊んでくると言っていたから盛り上がったのかも知れないと考える。
 煙草と、酒。社交の場でも必須の嗜好品だ。それらが匂わせる独特の雰囲気も理解のいくところだし、香水との相性に関して一考の余地はあるが、まあこうなっては完全に悪臭だった。先日とは真逆に起き抜けの意識を揺すってくるそれに、タドは欠伸を噛んで困ったように頭を掻いた。
「臭いのは嫌です?」
「そりゃ嫌だろう」
「そういうほうがコーフンするって人もいました」
「……成程。じゃあなんだい、今日のこれは気遣いかい。俺は好みじゃないけどな。いつものが好きだ。――ほらおいで」
 あっさり言い切り――嫌な臭いなら離れていってしまうかと考えたのにそれはない。呆れたように、でも笑って、背を抱えて家の中へと促すタドにニビは口を引き結ぶ。焦れったくなって抱きついてみてもタドは逃げない。少し、今日もする気だろうかと窺う間はあったが。
「重いよ、自分で歩いてくれ」
「んんー……」
 数秒凭れてみて、ニビはするりと肩を撫でて離れた。言われたからではなく、結局タドに不快な思いをさせたくなかった。嫌だとは言うが優しい人に、構ってもらおうとしてこんなことをしたのではない。良くも悪くも安心したかっただけだ。
「――ニビ君。友達と喧嘩でもしたのかい、君」
「……いえ、楽しんできました。だから疲れたかな」
 肩を竦める人の横顔に、タドは初めてこの青年に会ったときのことを思い出していた。別に何も分からないが、元気がないように見える、なんとなく放っておけない、もしやと思ってより集中して臭いを確かめようとするが煙草と酒気が妨げになった。熱を測るのに額に触れて、それもうーんと首を捻る。
 その待遇にニビは眉を下げて笑った。
「体も平気。元気です。ごめんなさい、臭い流してきまぁす」
「疲れているならそのまま寝なさい」
「僕が気になるんで」
「……風呂場では寝るんじゃないよ?」
「はいはい、だいじょぶ」
 慣れてきた家の奥へ、ランプを受け取り一人で進む。逃げ込むように扉を閉ざしてふうと溜息を吐いた。
 わざわざ外に行かなくても浴室があるのは有難い。元より水は豊富な地域だが、石鹸だってタドが買ってくれるからケチらず使い放題だ。ロンゼンの品らしくよい匂いがする。聞いた花の名前は今思い出せないが。
 たっぷり泡立て、がしがしごしごしと頭や肌を擦って、ニビは体が冷えるのにも構わず何度も水を被った。タドほど鼻が利かないので何度も嗅いでみてそれで、多分大丈夫、と判断した。
 ――そうして、タドが風邪を心配するのでちゃんと乾かしてから寝た。数時間も寝て朝日で目覚めればなんとなく気分も持ち直した。馬鹿なことをしたなと呆れ、やれるようにやればいいじゃないか、どうにかなる、なんていつもの調子で思った。そのまま目が覚めて、なんとない空腹に一階へと向かう。
 タドが気にして食事を頼んでくれるようになったので、ニビは前よりよく食べるようになった。そうするとちゃんと腹が減る。作り置きされていたスープをよそい、適当にむしったパンを添える。食べているとタドも出てきた。仕事場に向かう時刻は前より遅いが、その分散歩などしてから出ていく。彼は茶を淹れる湯を沸かしながらパンの残りだけ齧りはじめる。
「ああ、そっちは全部食べなさい。俺の分は残さなくていいよ」
 ニビが気づいて言う前に、思い出したタドのほうが言う。咀嚼しながら見上げる視線に続ける。
「ニンニクを入れられてしまったから。ちゃんと伝えておいたのに、あんまり良くないな、あの人は」
 此処に越して来て改めて、家事をするのに人を雇った。料理もその手によるものだ。腕前は悪くなかったが、記憶力が無いのか雑なのか決めごとしたのを守らないのでタドはもう別の者を探し始めたところだった。
 落胆したその様子を見るのも何度目かだったが。まだろくに知らぬ他人のことよりタドの嗜好が気になり、ごくと喉を動かしたニビはスープの具材を匙先でつつきながら聞き返す。
「ニンニクは嫌い?」
「食い物としては別に美味いと思うよ。ただほら、食うとしばらく自分からも臭うから駄目なんだ。支障がある」
 返事は好悪というほど色なく、どこか事務的に淡々としていた。
 今日のスープの中に入っているのはどうやら少量だが、それでもタドは感じる。胃や口から、と指で示し教える仕草に、ニビは完全に手を止め皿を見下ろし、その上に突っ伏するに近く項垂れた。美味しく食べていたし、食欲をそそる匂いがするが。
「食べちゃったなー……」
 呻く声、その様に目を丸くしてタドは首を傾いだ。
「君も苦手だったかい? 無理して食べることはないが……」
「や、……僕はずっとタドさんに好きでいてもらいたいからこれからは匂いに気を使おうと思って……」
「何、そのくらい。仕事前は気にしてもらうけど、」
「積み重ねたら分かんないでしょ」
 一杯二杯のスープがなんだと笑うのにも言い返す、声の端が少し荒れた。
 すっかり昨日と同じくらい気分が落ちてきてしまった。タドもそれに気づいた。昨日も、誰かに何か言われたのか、それを悩んでいたのかと薄らと察しがついてくる。
 少し考え、それから数歩を歩み寄った。齧っていたパンを置いて手を伸ばす。
「まあそうだ、匂いは重要だ。俺にとっては一番重要だとも」
 それは否定しない。嘘など吐いたって仕方ない、匂いが要の関係だった。
 けれど、料理に浸って汚れそうな髪を掬い上げて背の側へと流してやりながらタドは説いた。
「でも俺は調香師だ。香水っていうのは匂いを変える為にあるものだ。悪臭を誤魔化す為にあると言ってもまったく過言じゃない」
 香水をつけてやるときにも似た仕草で、ニビの首元を撫でる。昨日の気配は大方潜めて惚れ込んだ香りがするのを感じながら眉を下げる。
「俺はまあ鼻もいいが、腕もいい。君に合わせて匂いを作れる。任せてくれていいよ。責任をとるからね、……こんな面倒な男に付き合わせる責任を」
 この一生懸命な様子は申し訳なくて、愛おしい。こんなに綺麗で可愛い子がどうして自分など好いてしまったのかと憐れんで、出任せではない本気で言う。責任をとる、などと、結婚あたりも思わせる響きになって、その気恥ずかしさに少し余分に口は動いた。
「だからとりあえずそれは食べたらいいよ。体にはいいんだから。元気になる」
 肩を撫でて揉むと振り向き見上げてくるのに笑い返す。――まだ寝癖も整えておらず、締まらない見目をしていたがニビにとっては素敵な人だ。
 ニビは瞳を揺らして、唇を尖らせた。一言で解れてしまった自分の心があまりにも簡単な気がして、結局はただ我儘を言ってしまったように思えた。でもどうせならもうひとつと、近い顔を見つめ、自分からではなく催促をする。
「ついでにキスもしてください。……ここでいいんで」
 頬を示して。改めてキスをする恥ずかしさにタドは躊躇するが、三秒も経てば不器用に唇が触れたので、ニビはニンニクより先にそれで元気になった。やや気まずげに笑い合い、照れ隠しでパンを噛みながら離れていくタドを横目に、ニビはスープを一口。臭うかなと考えても彼には今一つ分からない。やはりこれからは気をつけようとは思う。タドが頼んで作ってもらうものをニビも食べるので、家ではあまり気にしなくてもよいだろうが。
 いっそ料理でも覚えてみればいいのかなと思いつき、名案だと小さく頷く。自分なら、好き嫌いなど聞いたら忘れない。それに人を雇う手間とか金とかが省ける。良いこと尽くめではないか。
 未来を――昨日のように憂うのではなく考え、前向きな目標が出来たことにまた気分が浮上する。沸いた湯を相手に動く人を眺めながら、ニビは意欲的にパンへと齧りついた。
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