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蜂巣茸と鶏脂、胡椒とネギとマンネンロウ
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空気は一段に冷え、木々も葉を落として見るからに寒い。人は逆に着膨れてきた。
ニビは酒で体を温めて、人肌を求める客の声かけに笑う。この町で過ごす三度目の冬。多分今年もどうにかなるだろうと楽観視する。
心配したのはタドのほうだ。家のない暮らしとは、彼には想像がつかなかった。
「君、特にこの時期どうしてるんだい。誰かのところ?」
「そうですね。お客さんのご厚意に甘えてることが多いです。駄目なときだけ宿に行く感じでー」
今日は冷える! と身を竦め上着の前を掻き合わせながらやってきた男娼に熱い茶を出してやりながら問う。案じるようにこの寒さの中で夜を明かすのは体調不良、もっと言えば死にも繋がる。最悪寄らせてもらうつもりで浮浪者が火を焚いて集まっているところなどもニビは把握してはいるが、最悪の場合は、だ。皆縄張りがあるし男娼への当たりは結構キツい。今のところはどうにかなっている。
そこまでは言わずに手前で止めて笑う彼と目を合わせて、タドは再び口を開いた。
「大丈夫ならいいけど。困ったらうちにおいで」
「ありがとうございます。困ってなくても来ていいですか? タドさんの、顔を見に」
ニビは喜んで笑い――微笑みかけて首を傾ぐ。待たずに頷きが返った。
「……そうだな、暇ならおいで。大していいものはないが茶ぐらい淹れよう」
寒さを凌ぐためだけではなく、タドに会いたい。会ってもいいのか。そんな気持ちからただ乗っかるのではなく駆け引きじみた言葉にしたが、返答はいつもの調子だ。それでも歓迎の雰囲気ばかりはちゃんと伝わってくるのが嬉しく、ニビはにやける口元を隠すようにカップを持ち上げた。湯気が鼻先を温めて、華やかな香りが感じられる。タドとは違って種類などはまったく分からないが、この茶を飲むとニビはこの男のところに来たなという感じがするのだった。
「好きですよ、出してくれるやつ。香りがいいですもんね。――じゃあもうちょっと、多めに来させてもらおうかなぁ」
「そうしなさい」
飲んで一息吐いて、知識がない癖に分かった風に言い、今度は本音のままの呟き。重ねて頷くタドのほうの声も少し、ほっとしたという色をしていた。
数口茶を味わって、卓上を眺め――ニビはふと首を傾ぐ。
「タドさんこそ、ご飯とかどうしてるんです。さすがにこれだけじゃないでしょ?」
果物は時期が外れてあまり出回らなくなり、籠の中身は干し葡萄やパンに変わっていたが、それにしても量は少ない。中肉中背のタドの体がさすがにこれだけでできているとは思えなかった。
「仕事場で一食食べてる。あとはまあ、たまに作っておいてもらうな。掃除ついでに」
タドは淡々と応じた。彼は家事が好きではなかった。金がなかった頃は当たり前にやってはいたが、しなくてもよくなってしまっては手並みを忘れる一方だった。掃除は雇っているし、洗濯は洗濯屋に預けている。料理はろくにしない。できない。
今日は籠ごとニビの前へと押しやって、タドは笑った。
「俺は偏食だから、決まったものばかり食べる」
「あー。それっぽい」
「君だってあるだろう、好きな物、嫌いな物」
「僕は酒かなあ。食べ物だと……んーなんでも食べますけど、やっぱ肉とか……茸は好きかな。嫌いな物はないと思うなあ」
「きのこは、何だい。香りも味も色々あるだろう」
「大体好きだけど、よくスープに入ってる黒っぽいやつ」
――そんな話をし、肌を重ねて熱を分かち、来てもいいなら四日後にとニビは約束した。朝になってから外に出ても大差なく寒かったが、次の予定とタドの出勤を途中まで見送った嬉しさを抱えた心の芯は温かい。
そうして張り切っているうちに彼のほうはいつもの屋敷へと足を向けた。昼のお茶の時間にと誘われているが早めに行っても問題はない。奥様本人でなくとも適当な使用人が出迎えて風呂を沸かしてくれるのだ。しっかり磨いてから会えば喜ばれる。早く会いたかったなどと甘い言葉を交わして遊ぶのも楽しいものだ。ニビのことをよく分かっているよい客であるから、気を持たせすぎる心配はしなくてよかった。
「やあいらっしゃい。……今日は珍しく食事もあるよ、食べるかい」
「食べます食べます。うれしい」
それで四日後。いつもと同じような時間にやってきたニビを、タドはそう言って暖かく迎えた。
温めなおして器にたっぷりとよそわれたスープは乾し茸や種々の野菜が鶏肉と共に煮込まれた具沢山で、これまでのこの家の印象とは違う家庭的な匂いを漂わせている。パンをちぎって分け、ふやかしながら食べると染み渡る味わいだった。
ニビの正面でタドも食べた。スプーンを運ぶ所作、冷ますのに息を吹きかけ、触れる熱さにも息を零す。果物を食べていたときのほうが色気はあったが、これもニビにとって悪くない眺めだった。
体は温まり、腹は満ちた。男娼はこの後の仕事を考えておかわりの提案は断ったが、十分だった。
食後に改めて茶を淹れて座りなおしたタドが少しそわついたように感じられたのに、ニビは次の流れを予想した。抱かれたいとの申し出か、それとも日が空いてないからそっちは不要との断りか、どちらも考えられ――
「渡しておこうと思っていたんだ」
そんな予想から大きく外れ。カチ、と音を立ててテーブルの上に置かれたのは、鍵だった。ニビの目が丸くなる。
「もし俺が居ないときに、入りたかったら開けていい」
「へえっ?」
素っ頓狂な声が出た。タドもその声に驚いて目を瞬かせたが――やはり、ニビのほうが大いに驚いていた。真鍮の金色は完全に彼の側、先ほどまでスープの皿があった場所に置かれていた。聞き間違え、意味の取り違えではなさそうなのに、ニビは動揺を隠せぬ顔で卓上とタドを交互に見た。
「鍵って、ここのですか? 家の? あげちゃっていいんですかそんな」
「――うん。君は怪しい者ではないんだから、構わない。ああ、誰かを連れ込むのはいけない。君だけにしてくれ」
「それは勿論、当然、ですけど」
タドはいつものようにあっさり言ってしまうので、そのまま押し切られそうになるが。さすがに躊躇する。
「もう少し寝たいときはそれがあれば閉めて出ていけるし。……いや勿論無理に持っていけとは言わないけどね」
「いるっ……」
しかし引っ込める気配につい、飛びついていた。こんな機会逃せば次はない。掴んだ金属の冷たさが際立って感じられた。受け取ってしまったがこの後どうしたらよいのかは分からずただ握っていたニビは、タドが緊張していた肩を下げたのを見る余裕はなかった。
「早い時間は家事をやってくれる人が来ているときがある。伝えてはおくけど、出くわしたくなかったら午後からにしなさい」
「はーい……」
――えっ本当にいつ来てもいいってこと? 昼でも? しかも勝手に入っていいの?
こんなことしたら勘違いしますよ、などと言って、いつものように美しく微笑んで見せることはできなかった。そんな茶化すようなことは。
「……だいじにします」
「うん、失くさないでくれ」
そう返すのが精々だった。小さく言えば聞き漏らさずに頷いて、タドは青茶を飲み始めた。
その後、話題を切り替えどうにか調子を取り戻したニビはしっかり抱かれて食事代の分仕事をしたが――その間もずっと鍵のことを気にしていた。
金の他にこんなに大切に物を持ったのは久々でドキドキした。何日かして慣れたつもりでも鍵を眺めるだけの時間があった。約束なしに訪れる日もあったが、彼はタドに会うつもりでしっかり時間を見計らって行くので使う機会はなかなか来なかった。それでも、差し込まれることがなくても十分に役目を持っている鍵だった。中身をほんの僅か残している香水瓶と共に大事に大事に持っていた。
そうして一月も経ったある日にようやく機会はやってきた。時間は常どおりだったが、その日は偶然タドの帰りが遅かった。帰りがけに同僚たちと話し込んだのだ。
ノックに返事がない。音も気配もしない。しばらく待って一応もう一度ノックをする。不在だ。――時期なりに寒いが雨は降っていないし、今日は宿まで行く元気はある。しかし鍵がある。
ニビは考えて、辺りを見渡し道の先にも帰ってくる人の姿など見えないのを確かめて、そわそわとしながら腰の物入れを探った。鍵を見つけて、摘まみ出してからも数秒置き、心を決めて不慣れな手つきで差し込んだ。向きを確かめながら回すと音がして、取っ手を掴めば扉が開く。
「ほんとに開いた」
独り言をして、扉を押して一歩。
「タドさん、居ない、よね? 入りますー……お邪魔しまーす……」
居るときよりよほど畏まって入った。入ってしまってとりあえず扉を閉め、手に残る鍵を握りしめる。ふと振り返り、かかっていたならかけなおしておいたほうがよいかとタドのいつもの動きを思い出し結論して、内側から鍵をかけなおした。
家主の居ない室内を見渡して、いつも座る椅子には畳まれた洗濯物が積まれていたりするのを眺めて、少し経つ。
勝手に物を退けたり灯りを点けたりするほど自由には振る舞えず、佇み迷った末にいつもの部屋に入る。ベッドに腰かけまた暫し。再び扉の開く音に気づいて居間に戻ると帰宅したタドが飛び上がったのが見えた。
「き、みか。ああびっくりした――」
半分悲鳴になりかけの声で言うのに、ニビはふはっと吹き出してしまった口を押さえて詫びた。
「すみません、勝手に入っちゃいました」
「いいんだ、鍵を渡したんだから。ただいま」
「おかえりなさい?」
くすぐったさにまた笑って語尾が上がる。タドは肩を竦めて窘めた。
「でも灯りはつけなさい。驚いた。茶も飲んでていいよ」
「僕やり方分かんないですよ」
「入れて湯を注ぐだけさ。おいで」
ランプに火を点したタドは台所へと手招きして、これから飲む分を用意しながら簡単な手順と共に茶器や茶葉を置いている場所をニビに教えた。
てきぱきと動くタドの手を眺めながらニビはご機嫌だった。鍵が真価を発揮したことは勿論、そうして今までは見えていなかった戸棚の中身まで見えたことが、その中には別に大したものが入っていなくとも、小さな空間でも、ニビにとってはまた嬉しいものだった。タドの生活の中に入れてもらった気がして。
二人の仲はそのようにしてより親密なものになっていった。ただし関係は男娼とその客、そのままだった。お互い何も言い出さなかったので体の関係に伴う金銭の支払いは変わらず続いている。それぞれに相手を見て、そういう風に線を引いた。
ニビは酒で体を温めて、人肌を求める客の声かけに笑う。この町で過ごす三度目の冬。多分今年もどうにかなるだろうと楽観視する。
心配したのはタドのほうだ。家のない暮らしとは、彼には想像がつかなかった。
「君、特にこの時期どうしてるんだい。誰かのところ?」
「そうですね。お客さんのご厚意に甘えてることが多いです。駄目なときだけ宿に行く感じでー」
今日は冷える! と身を竦め上着の前を掻き合わせながらやってきた男娼に熱い茶を出してやりながら問う。案じるようにこの寒さの中で夜を明かすのは体調不良、もっと言えば死にも繋がる。最悪寄らせてもらうつもりで浮浪者が火を焚いて集まっているところなどもニビは把握してはいるが、最悪の場合は、だ。皆縄張りがあるし男娼への当たりは結構キツい。今のところはどうにかなっている。
そこまでは言わずに手前で止めて笑う彼と目を合わせて、タドは再び口を開いた。
「大丈夫ならいいけど。困ったらうちにおいで」
「ありがとうございます。困ってなくても来ていいですか? タドさんの、顔を見に」
ニビは喜んで笑い――微笑みかけて首を傾ぐ。待たずに頷きが返った。
「……そうだな、暇ならおいで。大していいものはないが茶ぐらい淹れよう」
寒さを凌ぐためだけではなく、タドに会いたい。会ってもいいのか。そんな気持ちからただ乗っかるのではなく駆け引きじみた言葉にしたが、返答はいつもの調子だ。それでも歓迎の雰囲気ばかりはちゃんと伝わってくるのが嬉しく、ニビはにやける口元を隠すようにカップを持ち上げた。湯気が鼻先を温めて、華やかな香りが感じられる。タドとは違って種類などはまったく分からないが、この茶を飲むとニビはこの男のところに来たなという感じがするのだった。
「好きですよ、出してくれるやつ。香りがいいですもんね。――じゃあもうちょっと、多めに来させてもらおうかなぁ」
「そうしなさい」
飲んで一息吐いて、知識がない癖に分かった風に言い、今度は本音のままの呟き。重ねて頷くタドのほうの声も少し、ほっとしたという色をしていた。
数口茶を味わって、卓上を眺め――ニビはふと首を傾ぐ。
「タドさんこそ、ご飯とかどうしてるんです。さすがにこれだけじゃないでしょ?」
果物は時期が外れてあまり出回らなくなり、籠の中身は干し葡萄やパンに変わっていたが、それにしても量は少ない。中肉中背のタドの体がさすがにこれだけでできているとは思えなかった。
「仕事場で一食食べてる。あとはまあ、たまに作っておいてもらうな。掃除ついでに」
タドは淡々と応じた。彼は家事が好きではなかった。金がなかった頃は当たり前にやってはいたが、しなくてもよくなってしまっては手並みを忘れる一方だった。掃除は雇っているし、洗濯は洗濯屋に預けている。料理はろくにしない。できない。
今日は籠ごとニビの前へと押しやって、タドは笑った。
「俺は偏食だから、決まったものばかり食べる」
「あー。それっぽい」
「君だってあるだろう、好きな物、嫌いな物」
「僕は酒かなあ。食べ物だと……んーなんでも食べますけど、やっぱ肉とか……茸は好きかな。嫌いな物はないと思うなあ」
「きのこは、何だい。香りも味も色々あるだろう」
「大体好きだけど、よくスープに入ってる黒っぽいやつ」
――そんな話をし、肌を重ねて熱を分かち、来てもいいなら四日後にとニビは約束した。朝になってから外に出ても大差なく寒かったが、次の予定とタドの出勤を途中まで見送った嬉しさを抱えた心の芯は温かい。
そうして張り切っているうちに彼のほうはいつもの屋敷へと足を向けた。昼のお茶の時間にと誘われているが早めに行っても問題はない。奥様本人でなくとも適当な使用人が出迎えて風呂を沸かしてくれるのだ。しっかり磨いてから会えば喜ばれる。早く会いたかったなどと甘い言葉を交わして遊ぶのも楽しいものだ。ニビのことをよく分かっているよい客であるから、気を持たせすぎる心配はしなくてよかった。
「やあいらっしゃい。……今日は珍しく食事もあるよ、食べるかい」
「食べます食べます。うれしい」
それで四日後。いつもと同じような時間にやってきたニビを、タドはそう言って暖かく迎えた。
温めなおして器にたっぷりとよそわれたスープは乾し茸や種々の野菜が鶏肉と共に煮込まれた具沢山で、これまでのこの家の印象とは違う家庭的な匂いを漂わせている。パンをちぎって分け、ふやかしながら食べると染み渡る味わいだった。
ニビの正面でタドも食べた。スプーンを運ぶ所作、冷ますのに息を吹きかけ、触れる熱さにも息を零す。果物を食べていたときのほうが色気はあったが、これもニビにとって悪くない眺めだった。
体は温まり、腹は満ちた。男娼はこの後の仕事を考えておかわりの提案は断ったが、十分だった。
食後に改めて茶を淹れて座りなおしたタドが少しそわついたように感じられたのに、ニビは次の流れを予想した。抱かれたいとの申し出か、それとも日が空いてないからそっちは不要との断りか、どちらも考えられ――
「渡しておこうと思っていたんだ」
そんな予想から大きく外れ。カチ、と音を立ててテーブルの上に置かれたのは、鍵だった。ニビの目が丸くなる。
「もし俺が居ないときに、入りたかったら開けていい」
「へえっ?」
素っ頓狂な声が出た。タドもその声に驚いて目を瞬かせたが――やはり、ニビのほうが大いに驚いていた。真鍮の金色は完全に彼の側、先ほどまでスープの皿があった場所に置かれていた。聞き間違え、意味の取り違えではなさそうなのに、ニビは動揺を隠せぬ顔で卓上とタドを交互に見た。
「鍵って、ここのですか? 家の? あげちゃっていいんですかそんな」
「――うん。君は怪しい者ではないんだから、構わない。ああ、誰かを連れ込むのはいけない。君だけにしてくれ」
「それは勿論、当然、ですけど」
タドはいつものようにあっさり言ってしまうので、そのまま押し切られそうになるが。さすがに躊躇する。
「もう少し寝たいときはそれがあれば閉めて出ていけるし。……いや勿論無理に持っていけとは言わないけどね」
「いるっ……」
しかし引っ込める気配につい、飛びついていた。こんな機会逃せば次はない。掴んだ金属の冷たさが際立って感じられた。受け取ってしまったがこの後どうしたらよいのかは分からずただ握っていたニビは、タドが緊張していた肩を下げたのを見る余裕はなかった。
「早い時間は家事をやってくれる人が来ているときがある。伝えてはおくけど、出くわしたくなかったら午後からにしなさい」
「はーい……」
――えっ本当にいつ来てもいいってこと? 昼でも? しかも勝手に入っていいの?
こんなことしたら勘違いしますよ、などと言って、いつものように美しく微笑んで見せることはできなかった。そんな茶化すようなことは。
「……だいじにします」
「うん、失くさないでくれ」
そう返すのが精々だった。小さく言えば聞き漏らさずに頷いて、タドは青茶を飲み始めた。
その後、話題を切り替えどうにか調子を取り戻したニビはしっかり抱かれて食事代の分仕事をしたが――その間もずっと鍵のことを気にしていた。
金の他にこんなに大切に物を持ったのは久々でドキドキした。何日かして慣れたつもりでも鍵を眺めるだけの時間があった。約束なしに訪れる日もあったが、彼はタドに会うつもりでしっかり時間を見計らって行くので使う機会はなかなか来なかった。それでも、差し込まれることがなくても十分に役目を持っている鍵だった。中身をほんの僅か残している香水瓶と共に大事に大事に持っていた。
そうして一月も経ったある日にようやく機会はやってきた。時間は常どおりだったが、その日は偶然タドの帰りが遅かった。帰りがけに同僚たちと話し込んだのだ。
ノックに返事がない。音も気配もしない。しばらく待って一応もう一度ノックをする。不在だ。――時期なりに寒いが雨は降っていないし、今日は宿まで行く元気はある。しかし鍵がある。
ニビは考えて、辺りを見渡し道の先にも帰ってくる人の姿など見えないのを確かめて、そわそわとしながら腰の物入れを探った。鍵を見つけて、摘まみ出してからも数秒置き、心を決めて不慣れな手つきで差し込んだ。向きを確かめながら回すと音がして、取っ手を掴めば扉が開く。
「ほんとに開いた」
独り言をして、扉を押して一歩。
「タドさん、居ない、よね? 入りますー……お邪魔しまーす……」
居るときよりよほど畏まって入った。入ってしまってとりあえず扉を閉め、手に残る鍵を握りしめる。ふと振り返り、かかっていたならかけなおしておいたほうがよいかとタドのいつもの動きを思い出し結論して、内側から鍵をかけなおした。
家主の居ない室内を見渡して、いつも座る椅子には畳まれた洗濯物が積まれていたりするのを眺めて、少し経つ。
勝手に物を退けたり灯りを点けたりするほど自由には振る舞えず、佇み迷った末にいつもの部屋に入る。ベッドに腰かけまた暫し。再び扉の開く音に気づいて居間に戻ると帰宅したタドが飛び上がったのが見えた。
「き、みか。ああびっくりした――」
半分悲鳴になりかけの声で言うのに、ニビはふはっと吹き出してしまった口を押さえて詫びた。
「すみません、勝手に入っちゃいました」
「いいんだ、鍵を渡したんだから。ただいま」
「おかえりなさい?」
くすぐったさにまた笑って語尾が上がる。タドは肩を竦めて窘めた。
「でも灯りはつけなさい。驚いた。茶も飲んでていいよ」
「僕やり方分かんないですよ」
「入れて湯を注ぐだけさ。おいで」
ランプに火を点したタドは台所へと手招きして、これから飲む分を用意しながら簡単な手順と共に茶器や茶葉を置いている場所をニビに教えた。
てきぱきと動くタドの手を眺めながらニビはご機嫌だった。鍵が真価を発揮したことは勿論、そうして今までは見えていなかった戸棚の中身まで見えたことが、その中には別に大したものが入っていなくとも、小さな空間でも、ニビにとってはまた嬉しいものだった。タドの生活の中に入れてもらった気がして。
二人の仲はそのようにしてより親密なものになっていった。ただし関係は男娼とその客、そのままだった。お互い何も言い出さなかったので体の関係に伴う金銭の支払いは変わらず続いている。それぞれに相手を見て、そういう風に線を引いた。
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