蕾は時あるうちに摘め

綿入しずる

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君と、安物の石鹸、水と汗

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「っとぉ……?」
 慣れた路地に入り――以前通っていた集合住宅の跡地にはもう目もくれずタドの家のほうを見やったニビは、その前に馬車が停まっているのに小さく声を上げ、僅かに歩調を乱した。その後は何食わぬ顔で進むが男が一人間違いなくタドの家に入るところも見えていたので、あーあ、と内心でぼやいた。
 タドではなかった。上流の人間の装いで、しっかりした仕立ての厚い上着の上に飾り襟もつけて、茶髪は束ねて編んだ流行りの髪型にしていた。いかにも富裕層だ。その付き人らしき男が御者と共に外に残って、道を進んでいくニビのほうを見た。馬車とは別の方向に場に不釣り合いな派手な婦人物の上着を羽織った姿にぎょっとして、軽蔑を含んだ眼差しになり、小声で何か言う。
 客に呼ばれた娼婦が、客以外と見合わせるのは気まずい場面だ。ましてニビは男娼である。同性とのそうした関係が醜聞として扱われることも多い世では、客の立場によってはそのあたりを注意しなければならなかった。特にタドくらいの位置が一番微妙だ。周りを黙らせるほどの権力財力の持ち主でもなく、かといって、周りを気にせぬ暮らしでもなく。
 こんな立地で、他に人の来ない家だと言っていたからニビは今まで周囲に気を配らずほいほいと気安く訪れていたのだ。
 ――店の人、とかかな。危ね……
 着くのがあと数分も早ければ家の中で大慌てだったかも知れない。ともかく、今日はナシだ。帰るのを待つわけにもいかないし別の場所に行こうとすぐ決めて、ニビは引き返さずまっすぐ進んで誤魔化したうえで、回り道で拠点の酒場を目指した。

「先方は朝早いほうが好きらしい。君と気が合うかもな」
「だといいね」
「まあそういう時間だから酒はなし、茶くらいは出ると期待する。香水は緑の横顔をつける。君の作ったものがいいし」
「異論無い。全部持っていくのか?」
「ああ。商品は全部。あとは今使っている瓶と――他に希望は?」
 ニビの考えたとおり、来客はタドの勤め先、香水店ロンゼンの人間だった。三代目の経営者であるキンセという男だ。持ってきた衣装箱を手慣れた調子で奥の寝室まで運び込んで、その最中にも話を続ける。
 タドは彼とは親しいが――今日は正直、ちょっと迷惑していた。ニビが来る日だ。時間もそろそろ。居合わせると恐らくまずいことになるし、折角の時間を邪魔されたという思いもある。理由あっての訪問、それも大事な要件で間が悪いだけと分かっても、そんな気分にはなるものだ。
 早く帰ってほしい。が、追い払うまでもなく多忙な男だ。狭い家だからと付き人も外で待たせているし、仕事を終えれば家族との夕食が用意されている。茶を出すほどの時間もなさそうだと手持無沙汰に立ったまま相槌を打つ。
「四十周年で作った記念の瓶があるだろ、あれも持っていったら」
「ああ、そうだなそうしよう」
 一方で真面目に考えてはいる。
 新しい香水瓶のデザインの依頼、作家と急に約束ができたので明日会いに行く、迎えに来るから着替えて身支度をしておけ、と正装の一式を置きにきたのだ。これまでもあった流れではあった。調香師はいつものようにさっさと仕事を終えて工房を出てしまったが、翌朝出勤してからでは遅い、と自ら乗り込んでくる。自分一人で着飾る機会など滅多にないタドが、店に一着置く以外はこの男に管理を任せている、というのもある。
「いい流れが来てる。来年は動くぞ。新作もばーんと華々しく! な」
「うん、いい物を作るよ。最近冴えてきてるし」
 四年前にその席に着いた若き経営者は意気軒高である。ロンゼンは老舗として評判だが、何かと停滞気味で増えた同業に押されつつもある中で、新しい客を増やすべく宣伝や広告をあれこれと画策している。
 二人は若い頃からの長い付き合いだった。雇用の関係にはあるが実質は親友か兄弟だ。例の賞金つきの催しで、数十にも及ぶ茶を難なく嗅ぎ分けたタドを見初めて調香師に育ててくれた恩人の息子。タドを引っ張って、彼の作品を世に伝える理解者の一人。
 一頻り、連絡事項も伝えきったと大きく頷いたキンセはぐるりと大仰に室内を見渡して眉を上げた。
「なんだい」
 タドの眉も動く。キンセは困ったように笑い、肩を竦めた。
「君が珍しく商品を買っていったと言うから、もしや僕も知らないうちに誰かいい人でも出来たのかと思ったけど。この分じゃなさそうかな」
 例の、香水購入の一件は従業員たちの口を通じて一番上まで伝わっていた。タドには家族もいない。贈るような相手もいない。それを誰よりもよく知っているのが彼だった。気にかけてもいた。
「君はつけないだろ。どんな女性だ?」
 問いかけにタドは窮する。贈る相手はできたが、キンセの想像とは異なる。あの香りなら世間では女物だが――女性じゃない、などと突き返しかけたのを飲み込んで首を振った。
「世話になった人に。そういうのじゃない」
 恋愛に限らず交友関係も狭いのを知られているので誤魔化しは苦しい。気が向いて寝香水にシーツに使ったとでも言えばよかったと思っても遅い。ただこの男とて調香師ほどでなくとも香水店の人間なりに鼻がよいので、さっき寝室に入った時点でバレる嘘かも知れなかった。
「――世話に、な。娼婦ならちゃんとしたところで買えよ。君の鼻が落ちたらことだ」
 少々下世話に、性病を示唆する言葉は揶揄だったが言い当てておりどきりとする。これ以上に下手なことを言って嘘が拗れるよりは受け流すことを選んで、タドははいはいと頷いておいた。
「なあ、他に言うことはないか? 朝に言い合いは御免だよ」
 言ってやれば、おっと、と顔を跳ね上げてキンセは小さく何か数えるような素振りをする。指先はそのままタドを向いた。
「よし、朝迎えに来る。髪もきっちりしてよ、靴は拭いておいて」
「難しい注文だ。――整髪料なんて残っていたかな」
 今度は寝室の扉を指す。
「ある。置いたからな」
「さすが抜かりない」
 滞在時間は十分にも満たない。二人で外に出て、待っていた者たちと挨拶を交わし――日が落ちてひやりとする路地を見渡し、馬車に乗り込む前にキンセは呟く。
「やっぱり遠いよ、此処。なんか来るたび寂れていくじゃないか」
 この男が来るたびにしているやりとりだが、見えるところが更地になっている様はタドにも多少そういう印象を齎した。もっと前にはもう少し人が居たのを知っているとなおさら。昔は子供が道端で遊ぶ姿など見かけたものだが、それも近頃はない。
「売れたんだから、何か建てるんだろうさ。そうしたら人も戻る。……戻らなくても別に困らないが」
 が、返事は素気ない。感傷もなく言い切って、ほら乗りなと手振りで車を示す。
「不便じゃないかい」
「別に。住んでいたらこんなものだよ」
「いい場所を見かけた。見るだけ見てみない? 明日の帰りに寄ろう」
「いいよ、君が暇なら」
 転居を提案されるのも一人になった頃からずっとだ。何と言っても、言われた時点で大体引っ張られて連れていかれるのを知っているタドは簡単に頷いた。見るだけ、と改めて強調することすらなかった。
 動き出す馬車を見送りもう一度辺りを見渡して、誰か近所の住人などではなく、待っていた人の姿が見えないのに息を吐く。とりあえず茶を多めには用意して、座り込んだ。

 ノッカーが再び音を立てたのは翌日だ。髪油を落とすのに奥の洗い場に居たタドは慌てて、大声で返事をして濡れた頭を拭きながら鍵を開けた。シャツは羽織るだけ、裾を捲った足には靴も履かずに出てきた姿にニビは少し驚いて、申し訳なさそうな顔で笑う。
「……入っても平気ですか?」
「ああうん、大丈夫、どうぞ」
 我に返って少し恥じ、濡れるとかなり目減りする髪を揉みながら靴を履きに行くタドの背を眺めいつものように椅子へと腰かけようとして、その背凭れに深い緑色をした上着がかけられていたので立ち止まった。昨日見かけた紳士の物とは色形が違ったが、安物ではない。
 すぐ戻ってきたタドはああと声を上げて、上着を片手で掴んで客の席を作った。普段着と大差ない扱いで適当に置く。そうして二人、いつものように向かい合って座った。茶は無かったが、無論そんなことを気にする男娼ではない。落ち着いたと見ればすぐに切り出した。
「昨日はすみません、こっち来たら丁度人が居たから驚いて逃げちゃいました。多分気づかれてないとは思うんですけど……」
「ああ――来てたか。それはすまなかった。気を遣わせたな。急に来るもんだから、彼……」
「お店の人、かな?」
「そう。雇い主だ」
「やっぱりバレないほうがいいですね? 僕のこと」
「……多分怒られるからね。煩い奴なんだ」
 髪を乾かすのに休めず手を動かしながら、タドは面倒臭そうに言う。しかし嫌っているようには聞こえない調子だったので、ニビは今後、なおさら気をつけることにした。
「じゃ、気をつけましょう。どこか余所で会います?」
「……いや、まあ頻繁には来ない。と思う。……外に居るところを見られたほうが怪しまれるかもな、もしかしたら」
「どんだけ出不精なんですか」
 結局外で飲む約束もしないまま、こうして自宅で会い続けている関係である。ニビとしてはこのほうが懐に入れてもらっている、気を許された感じがして嬉しいものではあったので、積極的に連れ出すつもりもなかったが。
 対して身軽に出歩く彼がけらけらと笑うのに、タドは目を細めて応じた。
「でも今日も来てくれてよかった。会いたかった」
 不意打ちに、ニビの息が止まる。
 まったく改まった言い方ではなかった。雰囲気などなかった。手は動かしながら、ばさばさに広がってきた髪も整えないままの気楽さ、熱の入らない会話のままの声音。
 それでこんなに心が揺れるなんて予想外だった。他の客だって挨拶のように言ってくれることはあるが、そういうときの単純な嬉しさだけではない。胸が高鳴る。悔しいほどだ。
「人と話したら、色々と思いつきがあって、香水の。君の匂いも参考にしたくてね」
 ――やっぱり匂いかあ。
 続いた言葉にときめく気持ちがそのまま、ちりりと焼けつく。匂いだって自分の一部には違いなく、タドの関心としては最上のものだというのは明らかだった。だから嬉しいが、恋心は複雑だ。自分に言われているような、違うような。
 ニビの心など知らずタドは機嫌がよい。今朝早くから連れ出された先で工芸家とは意気投合し、造形や香りの話は絶えず盛り上がった。向こうは香水瓶のデザインの依頼を喜んで引き受けてくれたし、タドのほうも刺激を受けて普段以上に調香に前向きになった。その上々の結果には勿論キンセも大喜びで終始笑顔の一日だった。昨日ニビに会えなかったことだけが残念で、いつ会えるだろうかとずっと考えていたのだ。それも今、何も言わずとも来てくれた。ニビの感じ方はともかくその気持ちは打算や阿りのない純粋なものだった。
 ニビもプロだ。ちょっと拗ねた気持ちは隠しきり綺麗な笑みにして、客を見つめ椅子ごと少し後ろに下がるのを合図にする。意識を向けさせた上でベルトを解く。襟に指先を入れて、滑らせるように前を開けて肌を見せる。タドの視線が動いたのに気分がよくなる。
「ふ。いくらでも、好きなとこ嗅いでいいですよ。……脇とか?」
 ちらとそこまで覗かせるのに、タドは苦笑いした。
「変態臭いんだよなあ」
「今更何言うんです。別にヒかないし、僕以外はだーれも知りませんよ」
 一つ一つ、場の空気を塗り替えるかの所作でニビは動いた。括っていた髪も解き、広げる。香らせる。誘惑だ。
 官能的な景色を眺めてふと息を吐き――水気を拭い終えた布を椅子の背に引っ掛け、美しく広がったニビの髪とはかなり質感の違う自らの頭髪を雑に後ろへと撫でつけて、タドは立ち上がった。
「やっぱり色々嗅いでみてもいいかい」
「変態じゃん」
「言われたら気になる」
「そうそう素直になりましょう。どこから嗅ぎたいですか?」
 はしゃいで笑うニビに寄って、じゃあ失礼、と笑って顔を寄せる様はこの関係が始まったときとも似ていた。
 上から、頭から耳元、胸を経て――脱がせながら、脇、腹、股へと下りていく。折角だからと言わんばかりに念入りに、順に嗅いで確かめた。時間が経っていくほどに、ろくに触れることなく呼吸だけが肌を撫でていくのに、初めの頃のようにニビは緊張した。彼からも触れなかった。徐々に傅くかの姿勢になるタドがあまりに真剣だったので手を出せなかったのだ。
 股間など、愛撫目的で顔を寄せられたことは数えられぬほどあるが、嗅がれるというのは別物の恥ずかしさが生じる。此処に来るのでしっかり洗ってきたがそれにしても。しかし言い出したのは自分なのでぐっと我慢した。恥じらいも見せず、さっきまでの調子で余裕ぶっていた。
 いたが。
「――待っ……てもう終わり、足はやっぱヤダ! 絶対臭うし!」
 股を嗅いだ後にもまだ続きがあり、顔を上げたタドの視線がすらりと長い足を辿って降りていくのに、とうとうニビの羞恥は限界を迎えた。セックスでも顔が行かない位置というのは駄目だ。
 拒絶に吠えて逃すように折り畳まれた足に瞬き、はたとしたタドが顔を上げれば男娼の頬がじんわりと赤いのが見えた。束の間、彼は床に膝をついたままその顔を仰いでいた。股はよくて足は駄目なのか、と考え――珍しく嫌がる姿にむらりと別の気持ちも起きて、駄目となると一層気になってもきた。むしろよい香りがしてもおかしくないのでは、などと、多少贔屓目な想像もする。しかし理性が利いた。何せニビにはけっして嫌われたくないのだ。
「嗅がせてもらってるんだからたとえ臭くても構わないが」
「構って、気にして! もーホントにそんな順繰り嗅いでくと思わなかったですし」
「ごめんごめん」
 些か残念そうに呟いて立ち上がり、青灰色の目はいつも使う部屋のほうへと向く。その流れに沿ってニビも立ち上がりかけ――あ、と小さく声を上げた。
「ね、タドさん、今日はどっちの気分ですか」
 手を取り、見上げて訊ねる。聞き返す顔には言葉を重ねた。
「今日は嗅ぐだけ?」
 半裸のあられもない恰好には恥を見せない男娼が言う、どっち、とは――抱くか抱かれるか。それを自分から言い出さないといけないのかとタドは思い至った。それはそうだ。自分のほうが客なのだから、注文するものだろうと納得する。昨日キンセに受けた忠告も一瞬過ぎりはしたが今更もう触れずには済ませられない。ならどちらか決めなければ。
 タドは数秒黙り込んだ。今日は勃つ、だろうが。
 ――ニビとしてはこんなにずばりと訊かずに雰囲気で察するのも全然ありなのだが、今日のところはまず意思を確かめておきたかったのだ。どちらもできる、のと、どちらもやる、では差がある。どちらがいい、があるなら勿論それが優先だ。
 今日はタドが迷ったのを感じとり――つまり後ろを使ってみたのもやはり悪くなかったのだと見て、それを簡単に言い出せない男は何人も知っているので、彼から一押しした。
「どっちもします? じゃあネコのときの準備の仕方も教えちゃおう」
「……うん――じゃあ……?」
「じゃ、まずこっちでー」
 界隈の俗な呼称に首を傾げながらも同意した客を押しやって、寝室ではなく洗い場へと向かう。
 それから事は先日のようにニビの主導で進んだ。タドは尻を使う前の洗い方を教わった。恥ずかしくて情けなくて結構な気落ちをしたが――それでもやっぱり無理ではないんだよなと確信させられ、ニビの匂いへの惚れ込み具合を思う。
 片やニビはこの流れを楽しむだけでなく心底喜んでいた。この作業で嫌になってしまわなかったならあとはいよいよ癖にするだけだ。ニビはどちらにも自信があるが、抱かれる側の客のほうがハマりやすい。今日も全力で奉仕すべく、意気込んでタドをベッドへと組み敷いた。
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