蕾は時あるうちに摘め

綿入しずる

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雨と風邪、梨と青茶、石鹸と

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 夕方頃から雲が厚く、今夜は降りそうだという声を先々で聞いていた。なので、案の定降り出すまではニビにとっても予想どおりではあった。予想外だったのはその雨が珠のような大粒で、瞬く間に視界や耳を遮るほどの大雨になったことだ。
 ニビは南の城下町ガウシの歓楽街をうろつく男娼である。女や男に春をひさいで金銭を得る。二十歳を過ぎてもその白い肌と束ね上げた黒髪は滑らか、すらりとした背の高さとはっきりした面立ちで、贔屓の客は何人もいた。いつも羽織る派手な色をした上着の大半は婦人物だが、彼はよく着こなして己の目印にしていた。
 そんな彼だが。休みの後、夏が過ぎ去っていって何かと入用な秋や祭事を意識し人々の懐が締まる。そして雨の気配。重なって歓楽街の人出が少なく、今晩は出歩いているうちに客を見つけられなかった。宿がとれる程度の手持ちはあるが自身も懐がさびしい。では誰か馴染みのところに行くかと見切りをつけたときにはもう降り出して、彼は上着を被って駆けた。風邪気味で息が切れる。
「あれ、居ないか……」
 歓楽街から少し北に逸れた先、家賃の安い集合住宅が並ぶ住宅街。いつもなら居る時間だというあてが外れて、目的の部屋に灯りは見えない。望みにかけて戸をごんごんと叩いてみてもやはり返事はなかった。
 いつでも歓迎してくれる可愛らしい客だったのだが。よりによって今日は不在らしい。
 はあー、と息を吐いて、軒に身を寄せ落ちてくる雨だれをよけながら道を見た飴色の目はしかし、人影を見つけることはできなかった。見つけたとして屋根を提供してくれる可能性は正直微塵もないのだが、代わりに傘でもと賭けることさえできそうにない。並ぶ建物も常より静かだ。雨の音に消されてしまっているだけかもしれないが。
 雨よけにしていた上着はぐっしょりとして重く、それを持っていた袖や膝から下、髪の先からも雫が落ちた。そろそろ涼しくなってきた縄結いのサンダルさえ、否、体全体が一段重く、寒い。
 咳をして上着を絞る。これを着ても暖かくはないだろうな、と考えるといよいよ滅入ってきた。上客、気前よく色々くれる婦人から貰った気に入っていたはずの一張羅だが急に邪魔臭くも思えた。鮮やかな青色もくすんで見えた。
 ニビは人気の高い男娼だが、偶にこんな日がある。誰も贔屓せずに愛想を振り撒いてその日暮らしをしているツケが回ってきて、体も心も重くなる夜。いつもはくよくよと悩むことせず笑って見せる彼も、我が身を省みて先を憂うときがある。
 雨は未だ強く、止む気配がない。せめてもう少し弱まってくれないものかと、ニビは濡れた手もそのままに暗い天を仰いだ。
「おい、そこの人、住人じゃないだろう」
 止む気配も、行き先の案もない。宿は遠くて億劫だ。泊めてくれそうな他の客のところなんてもっと遠い。でも寒くて疲れてもいる。ぼんやり途方に暮れて幾許か。こほ、けほ、と重なる咳を聞きつけて寄ってきた影があった。足音は雨に紛れ、ニビが気づくのは遅れた。雨に負けぬようにと張られた声に驚いて肩を揺らし、道へと顔を戻した。
 雨を弾く傘は夜に紛れる黒色をしていた。近づいてきてようやくニビの目にも輪郭が見える。
 傘を差していたのは男だった。年は三十か四十か、ただの前開きではなくボタンの並ぶそれなりの仕立てのシャツを着ていた。靴もそれなりの物と見えた。ただ姿勢はあまりよくなく、この天気の為かもさもさと広がる髪を項のところで飾り気なく一つに結わえていかにも、冴えないおじさん、という雰囲気だった。
 客の層を見るいつもの癖でそれを確かめたニビの反応は、いつもより少し、遅れた。
「――はい、んん、えっと、訪ねてきたら不在でして。怪しい者ではないんですけれど、この雨ですから、傘も何もないし困っちゃって」
 エラが張り気味の顔も――天気や時間の所為だけではなく陰気寄りだ。瞼の厚い目がじっと見つめてくるのに、ニビは慌てて、えがらっぽい喉を抑えて応じる。眉が寄り、口を開いて閉じる男を一瞬だけこの辺りの自治の見回りかとも思ったが、警棒も持たず一人ではそれらしくない。
 代わりに傘だけ持った彼はすんと鼻を鳴らして、暫し考え、己が歩いてきた道を指差した。
「なら家で休むといい」
 すぐそこだと示す指。思いがけない言葉にニビは目を丸くして、男より短い時間考えて言う。
「僕は男娼ですよ」
 それはいつもならただの自己紹介、いざこざを避ける確認だったが、今日はどことなく卑屈な色を帯びていた。雨に濡れた体は軽蔑されるのではないかと構えた。
 ところが相手の男はどこか納得した顔をしただけで、もう一度促すように指を向けた。
「娼婦くらい見慣れている、気にしない。来ないかい」
 言葉は端的で、取り繕う風もない。
 その傘を貸してくれれば、とニビは言いかけたが、傘だって見知らぬ相手に貸すには高級品だ。自分の要求をするより、相手の言い出した提案に乗るほうが事は上手く運ぶに違いなかった。
 ――家に引き込んで、何かするつもりだろうか。ナニ、、ならいい。屋根を貸してくれるなら十分、働く気になる。服とか金とか、命とか、盗られそうなら逃げよう。いいや、それで。大丈夫。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 断り、今から歩いて宿を目指すのもやはり億劫で、彼は普段よりちょっと雑に決めた。手招きされてそろりと野良猫のように寄っていくと傘の下まで招かれる。並ぶと少し背の低かった男は、次には合図もなく歩き出した。
 家は本当にすぐそこで、集合住宅に挟まれた土地ながら一軒家だった。客のところに出入りする男娼は気に留めたこともなかったが、十年は此処に建っていただろう、古びた壁の家だ。
 男が鍵を開けて中へ入るのにニビも続いた。戸が閉まって雨の音がほんの一枚分遠ざかり、それだけのことにやけにほっとする。
 灯りが点されると、汚れてはいないが雑多に物の置かれた生活感のある居間の風景が広がった。テーブルに備えた椅子は二つだが、片方は男物の衣類が畳んで積まれていた。他に見える物も招き入れた男の持ち物らしい雰囲気で、一人暮らしではと想像できる。
 濡れた傘を置いた男は一時奥に消えて、風呂上りに使う大判の布を持ってきた。
「使っていい」
 押しつけられて、ニビは素直に濡れた頭や足を拭いた。布は柔らかく、その感触にも安堵する。
「着替えはこれを」
「いや、そこまで」
「そのままだと冷えるよ」
 寝巻だろう裾の長いシャツも寄越して、遠慮には淡々と。ニビは先よりよく見えるその顔を窺って、目を合わせた。青灰色の瞳もまた照らされた男娼の姿を改めて見たように感じられた。
 あえて、試すような気持ちでどこか物陰など探さずその場で濡れたシャツを脱いだ。腰紐を緩めて裾の重いズボンも。多少の緊張感を感じながらも締まった美しい裸体を晒す。そうすると――視線が向くのではなく、逸らされるでもなく、ただ他のことをするのに動き出す調子で男が離れていった。手応えのなさと肌寒さに、ニビはさっさと渡されたシャツを被る。
 そうする間に片方物置になっていた椅子はニビの為に空けられた。座り、椅子の背で上着を乾かしながらまた奥に向かった男をぼうと待つ。激しい雨音は続いていて、風も出てきたようだ。外に居たならば宿に着く頃にはこの比ではないほど濡れていたはずだ。眺める景色は見るからに年季が入った雰囲気で広くはない、家具も古びて質素ではある。それでもあと一部屋二部屋は扉が見えた。彼が元々行こうとしていた集合住宅の一室よりは立派なものだ。
 やがて時間が経ち、もしや自分から声をかけねばならないかとニビが考え始めた頃。戻る足音に顔を上げるとテーブルに茶器が置かれる。
 たっぷりと大きく飾り気のないカップに注がれたが、立ち上る湯気は甘く優しい香りを漂わせて、中の茶色の液体が安物ではないのがほとんど茶を飲まないニビにも分かった。
 服装といい、場所の割に結構稼ぎはありそうだ、と予想は立つが。それでもやはり分からなかった。
「どうしてよくしてくださるんです。こんな怪しい男に」
 とりあえず何か恐ろしいことは起きそうにない空気に、ニビの警戒は緩んでいた。青茶が自分の前にも置かれるのを見て、いつもより重い唇で簡素に問う。
「怪しい者ではないんだろう。――知り合いに、風邪をこじらせて死んだ奴がいる。それで放っておけなかった」
 向かい合って座った男の返答はやはりあっさりとしている。茶を啜る。
 一応理由はついたものの、結局お人よしだ。思い出したように笑って見せ、ニビは肩を竦めた。
「そう、それは。さすがに死ぬとは思わないけど、疲れちゃってどうしようかと思ってました」
 杯へと指を添える。陶器越しにじんわりと伝わってくる熱に、飲む前から息が抜けた。
「あったかい」
 男は茶を飲む片手間に卓上の果物籠の布巾を捲って、梨の実をとってまずニビの側に置いた。薄暗い中でぼんやりと黄色いそれに、自身は齧りつく。
「ありがとうございます」
 そこでようやく礼を言うことに思い至って、ニビは温まった手で果実も掴んだ。家の主に倣って、そのまま口をつける。
 二人はしばらく無言で茶を飲み、梨を齧った。瑞々しい甘さが喉に染み渡るようで、ごみ入れに芯を放り込む頃には男娼の風邪気味の喉もなんとなく落ち着いた。
「そっちの部屋に、小さいがベッドがある。使うといい」
「あなたは?」
「俺は自分の寝室がある。気にしなくていい。……ああ、トイレはあっち」
 家でと言ったときと同じように、緩く曲がった指で示された扉を振り返り――問えば隣の部屋など指す。ニビはその扉やトイレに続く暗がりもちらと確かめてから、テーブルの側へと顔を戻した。男は残りの茶を注いでいた手を止める。
「……君もまだ飲むかい?」
「いーえ、もう十分。ごちそうさまです」
 腹は温かく満ちていた。喉も潤った。ニビは首を振って立ち上がった。言われた扉を開けてみる。確かにベッドがあった。布団もある。他に物は無く暗いが、くたびれた身にはなんとも魅力的だった。大部屋相部屋ではない、落ち着ける一人の空間。
「おやすみ」
「おやすみ、なさい」
 寝ていい、と促すように言う声に、繰り返し答えて扉を閉ざす。暗くなった。そろそろと闇を探りつつニビは初めての部屋を数歩を進んだ。
 ――その気、、、があるならそのうち寝台へと促されるかとは思っていたが、そういう意味ではなく、どうやら本当に寝かせてくれるらしい。
 そう結論して、ベッドに腰を下ろし寝転ぶ。毛布があるのを手足で雑に開いて、髪も解きながらもぞもぞと包まる。
 丸まってしまえば寝台が小さいのはニビには気にならなかった。誰かの家で、というのも勿論気にならない。目を閉じればまた雨の音が際立って聞こえたが――止むのを待つまでもなく、彼の意識が先に眠りへと落ちていった。
 
 明くる日雨はすんなり上がった。早く寝た分早く目覚めたニビは寝転がったまま伸びをした。体は軽い。意識もいつものように明るい。快調だ。
 さて、と壁越しの気配を窺う。
 別に、娼婦の仕事は夜だけではない。朝からでも昼からでも、体が二つあればできるのだ。そういうパターンかも知れない。何もせずに泊めてもらって飲み食いもできるなんて美味い話は滅多にないのだから。
 髪だけ手で整え、まだ横になって寛いだまま待ってみる。また寝てしまうのではとも思えたが、向こうも起き出した物音が聞こえてくる。共寝をして目覚めるいつもの仕事とは違う距離にニビは少し――わくわくする。
 扉が開くのに身を起こした。昨日と同じような恰好をした男が部屋を覗き込んで、目が合う。にこと昨日より上手く笑んだ男娼の宛ては外れた。
「ああ、起きてるか。どうだい具合は。俺はそろそろ仕事に出なければならないんだが……」
 昨夜と変わらない調子。そっかあ、と思いながらも、ニビはすぐに立ち上がった。思考もスムーズだった。もう一日、もう一晩、などと甘えるのは慣れた相手にすることだ。完全なお人よしだった男に迷惑をかけるつもりはなかった。客引きもあまりしつこくはしないのが肝要である。
「勿論、大丈夫です。一晩ありがとうございました」
 愛想よく笑んで頭を下げて、大人しく居間のほうに出て昨日と同じ勢いで身支度をし乾いた上着も羽織る。もう一度挨拶をして……と段取りを考えつつ振り向くと、家主はまだニビが使った部屋の入口に立ったままだった。窺う彼の視線に口を開く。
「君、なにか香水をつけていたか」
「えっ?」
 まさかここで何か物が無いとかいちゃもんをつける気かと警戒を蘇らせたニビは、思わぬ言葉に聞き返した。そうして、すん、と意識して鼻で息をしてみた。
「……今日はなにも。なんか、臭います? すみません……」
 自分では分からない。香水の覚えはない。来る前にも誰かと会っていたわけではないので、匂いが移るようなこともなかったはずだと思う。体臭も家無しなりにちゃんと気をつけていた。
 男のほうももう一度、確かめるように鼻を使った。
「いや、そうじゃないが……風邪の臭いが邪魔だな」
「風邪に臭いが?」
「あるとも。病人は皆臭う」
 また更に妙に聞こえた言葉にニビが首を傾げると、答えは即座に返ってきた。言いながら、なんでもない、気のせいだった、と男は手振りでニビを促した。
 もう一度、嗅いでみるが。治ったからなのか、風邪の臭いとやらもニビには分からなかった。ただ嫌な感じのしない、人の家それぞれの匂いがなんとなく分かるくらいだ。
 なのでそこは曖昧にしてまた笑っておいた。
「でもお陰様で元気になりましたよ。ホント、助かりました。ありがとうございました」
「そうかい」
 男も笑った。あまり感情の籠っていない短い返答は気安い響きがして、ニビは逆に好ましさを覚えた。
 ではと再三の感謝を伝えて家主より先に外へ出て、家の位置や外観をなんとなしに確かめてから歩き出す。
 乾いて元通りの軽さになった上着が嬉しく、ニビは鼻歌混じりに地を蹴った。水溜まりを軽快に飛び越えていく。何か食べて、風呂屋が開いたら入れてもらってそれから客を探そう、泊めてくれる人のところに行こう。そういつもの計画を立てながら。

 残った家の主は身軽そうに去っていった非日常に少しぼんやりとして、もしや一晩夢だったんじゃなかろうかと考えていた。しかし朝で出勤の時刻なので、ともあれ自身も家を出ようとして――やはり気になり、椅子の背に引っ掛かる、貸していたシャツを持ち上げた。
 顔を寄せる。不快な風邪の臭いが邪魔をする。石鹸、親しんだ、最近は閉め切っていた部屋の匂いや布の匂いも勿論した。だがその中に。
 ――ああ。香水でないとしたら――彼がいい匂いなんだろうな、これは。
 探し終え、やはりさっきのも嗅ぎ間違いではなかったとすっきりとした気分で彼は顔を上げた。シャツはまた雑に椅子に放り、改めて外に出た。雨上がりの濃い匂いがすぐに意識を塗り替える。
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