ユルペンニアの魔法使い

綿入しずる

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魔法使い 三

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 紅く生臭く染まった荒野が眼下に見えた。仕掛けた罠は全て置き上がって、大地を凄惨な敷物へと作り変えていた。その上で生きている人間は――その数、四百ばかりか。
 笛を咥え杖を手にした魔法使いがこちらを見上げ睨んでいる。翼から腕を引き抜き人へと戻れば、束の間の落下の後に靴底が宙を捉えた。笑声が聞こえる。
「やっとお出ましか――」
 空渡り水黽アメンボの油を仕込んだ靴は、人の足をかの蟲と同じように宙に置かせる力を持つ。魔法使いなら誰もが持っているような、極めて初歩的な魔法の産物だ。その魔法にすら人々は慄く。砂塵も届かぬ場所で自分たちを見下ろす魔法使いを、まるで魔王でも現れたかの顔で見ているのだ。
 そう、魔法は恐ろしいものなのだ。元々は妖精たちと同じ世界の領分、人が触れてはならなかったはずの力だ。これからもっと恐ろしいことになる。
「おぬしらはやってきた。誓いを成すときは訪れた。もう容赦をする余地はない」
 荒野の風に翻る衣の裾から取り出した銀の瓶は、掌に納まる大きさだというのにずっしりと重い。口には絶叫をも封ずる黙り石の栓と、町の者たちの耳に詰めさせた物と同じ蜜蝋とで蓋をしている。表面に貼りついた中身を示すラベルの代わりは、美しい月色の鱗。
 耳元で揺らすと波の音がした。
「八十年経っているからな。腐れていないか心配だったが、むしろ良い頃合いだったようだ」
 魔法に閉じ込められた歌声は酒のように醸される。濃さを増し呪いを増し、内側で響いて完成する。八十余年の昔にただでも強力だった呪いは、今や凶悪と言ってよい代物に変質している。
 それこそ、魔王の所業であろう。ナイフを口先に当てて蜜蝋を削り取る。瓶が震え、恐怖の予感に民衆の顔が歪むのを見た。
 直後、四百人の手から化け物の羽で作られた当たり矢が放たれた。鏃が早くも赤いのは毒でも塗ってあるに違いない。そうでなくとも、すべて突き刺されば確実に死ぬ数だ。そして、魔法で当たるようになっている。
 ナイフを持つ手で、片手間、火打石を打ち鳴らす。よく鍛えた剣同士を合わせたかの音が響き、矢はすべて燃え上がり、瞬く間に灰となって地に降り注いだ。魔法使い相手に当たり矢程度、数が多くても恐れるものではない。
 同時に、瓶から蓋が落ちる。
「――おぬしらも、いっそ狂うほうが楽だろう? 七日七晩歌わせた人魚の歌よ。とくと聞くが良い!」
 女の悲鳴が大地と、空とを裂いた。溢れだし迸る狂乱の歌声は、此処が海原ならば嵐を呼んだだろう。
 結界に捕らえて気を違えるまで歌わせ続けた人魚の声を凝縮して、封じた呪い。人の魂を磨り潰し損なう魔性の鳴き声は、歪に響いて荒野を渡り、森を揺らし、戦場を劈いた。妖精がまだ住んでいたならば、逃げ出すところだろう。
 人魚の声に人々の叫びが混じり、ドーランの者たちは一様に目を剥いて膝をついた。大声で泣き喚き、怒鳴り、そして笑い出す。地獄と天国とを合わせて絵に書いたような吐き気のする光景だった。
 人を波へ渦へと誘う美しい声も、此処まで至ればその手間もなく、瞬く間に人から正気を奪い去る。歌い手とて正気ではないのだから、正真正銘の狂い歌だ。万が一結界を越えてもユルペンニアの者が気を違えぬようにと支度はしてきたが、ドーランの者は無事だろうか。
 逆回しの歌声は徐々に澄み渡り、啜り泣きを混ぜた細い女の声に変わった。その中で――音声の魔法から身を護る魔法の用意があったのだろう、魔法使いだけが正気のままにこちらを見ている。
 歌の力は退けたようだが、最早人のものとは思えぬ笑顔で高々と右の手を掲げていた。
 男が手にする竜爪の杖が地を叩き、罠を起こしたときに似た地鳴りを呼ぶ。黒いものが地から湧き上がり、蠅の群れでも居るような大きな雑音が耳元で鳴った。毒を燃やしたかの悪臭が俄かに立ち上る。
 ああ、やはり。あれはただの狩人だ。騎士などと呼ぶのは虫唾が走る。汚らわしい下衆め。
 此処は荒野だが、人魚の歌声は嵐を呼んだ。ドーランの魔法使いが百歩、二百歩、三百歩先――今まで罠にかかった人々から呼び寄せた忌まわしい感情の波が足の下に押し寄せ、渦を成す。なんともおぞましい、忌避すべき姿が眼下に広がっていた。
「殺すほど狂わせるほどに貴様の分は悪くなるのだ、ユルペンニア!」
 男は町の名で私を呼んだ。一際強く地を打った杖が再び掲げられ、呪いが立ち上がる。
 戦争と災厄を象徴する一つ目四肢の竜の姿。
 戦支度の間、獲物の妖精が居ない代わりに、奴隷あたりでも痛めつけていたのだろう。色濃く煮詰められた呪いは今まで見たどの呪いよりも純粋に邪で、手の打ち難い代物だった。特に我々のような、邪悪そのものへの手段をほとんど持たない人間にとっては。
 先の人魚の歌のように五感に影響する呪いならまだ手はあるのだが。そうでない呪いなら、私自身ではどうにもならない。私を丸ごと守る都合の良い魔法は、私には作れない。それは妖精の類の中でも特に力のあるものが与える加護だ。
 考える間に恐ろしい呪いが眼前に迫っていた。浮上した竜が体を呑み、荒野は一時闇に閉ざされる。嗚呼――
 心と魂を手放すかと思うほどだ!
 これほどに激しい嵐は知らない。凍れるヤルゴーの湖水でもこれほど冷たくはないだろう。沸き立つグナインの火口でもこれほど熱くはないだろう。心の臓が掻き回され肺が潰され骨が削られる――ような気がした。
「貴様……」
 耳はまだ正常に働き、ドーランの魔法使いの声を拾った。死への願いを吐きたくなる呪いの中でも、生き残りさえすれば十分。私にも勝機がある。
 誇りを捨てた者に、騎士が負けるものか。徳を失った愚かな男に、誰が。
 懐に手を当て、短剣の柄を握る。指を折るだけで耐え難い苦痛だったが、剣に触れればそれも和らいだ。闇の中でなお美しく輝く妖精郷の土産に口づけを落とし、呪いの胃の腑を引き裂く。
 よく晴れた空が見え、変わらず死肉と血に塗れた大地が見えた。その上に髪を一房結わえた人形の残骸が落ちる。手立てがなければ、私がああなっていた。
「何故だ。木偶だけで凌げるような呪いではないぞ! 貴様何を使った!」
 頭が割れるように痛み、吐き気と寒気がする。肌は灰色に変わり、目も歯も腐り落ちそうな気配が体に蔓延っている。とうに墓の下にいてもおかしくないこの体だが、まだだ。
 咆える魔法使いの顔が急激に近づく。汚れた地を踏みしめ、振るった剣は杖に受け止められる。
「はッ――おぬしにこれは、無いだろうな?」
 水晶の刀身と金の柄の間には、赤い紐をきつくきつく結びつけてある。宿屋の娘の髪結い紐。素材だけで見ればなんてことはない、ただの人の持ち物だ。
 だがこれは、大嵐の夜に一度死にながらも生まれてきた健全な魂、私が取り上げ、妖精の祝福を与えた娘からの賜り物だ。私を町に結び付けた童。私と町を愛する娘の。
「己がミンネを捧げた女王の現身になってくれるような、処女おとめは。居らぬだろう?」
 そのような娘なら、今は会えぬ、騎士の誓いを結んだ妖精の女王の代わりにもなろう。魔法使いにとって、これ以上の護符があるはずもない。
 加えて、ドーランの魔法使いが私を町の名で呼んだのは、失策だった。町が私であるならば――わたしを守る者の意思は多くあるのだ。
 彼らが町と共に私を守ってくれた。お陰で左手一本で済んだ。腕一本あれば、このような男に負ける気はしない。
 血を吐き捨てて踏み込み剣を突き出す。幾度かの衝突で竜爪の杖が魔法使いの手を離れ、弾け飛ぶ。ひびの入った杖は呪いを呼び寄せる力もない。地に散らばった肉片にぶつかり、黒く溶けだしていく。
 顔を歪めた男は身に着けていたマントを翻した。襟を飾る白毛は天馬の鬣だろう。地の一蹴りで姿が掻き消えた。
 戦いの場で逃げるなどと、本当に騎士としての矜持を忘れたと見える。
 左目を閉じ、輪にした指を当てる。見えたのはドーランの森か。ならばたいした距離ではない。急ぐべきではあるが。
 ――トンと腰に手を当てれば、息を切らした男が目の前にいた。ドーランの町、死体で囲った結界に逃げ帰ろうとした、まさに直前。そうしたところで迎えてくれる者など、私以外には居ないのだろうに。
 門の前に立ちはだかったユルペンニアの魔法使いを見て、男は目を見開いていた。私の体、崩れた皮膚で汚れた妖精鳥の衣を見つめ、頭を必死に働かせている。天馬と妖精鳥なら、比ぶべくもなく天馬のほうが上質な素材だ。どれほど上手く魔法に仕立てたとしても、追いつけるはずがない。明白な事実だ。
 何故、と男の吐息が問うた。
「これは気に入りだが、急ぎの時には不便でな。腕もこのようになってしまったことであるし。……見えぬか? そんな目だから先も見通せぬのだ」
 剣を懐に納め、腰からベルトを抜きとる。ただの鞣革の裏に、針金のように細い、しかし透いて美しい銀の筋があった。
 箒星の速さで千里を駆ける、魔法の装い。かつて、いつかの晩に尾だけを譲り受けた一級品だ。
「妖精蜥蜴の尾髄か」
「剣を出せ」
 震える声が言った。町の篝火が赤く魔法使いの顔を照らしている。促すと、炎の色の中でも蒼褪めていくのが分かった。表情は驚愕から恐怖へと変わっている。
 さぞかし、恐ろしいだろう。彼は私の宣言を覚えているはずだ。
「……やめてくれ」
「愚かだな。魔法使いの戦いに敗れたのだ。このくらいは覚悟の上だろうて」
 宣言の意味、刎ねる首を出せと言うより残酷な指示の意味も、魔法使いならば知っている。尻餅をついて震え、後ろに下がりながらまたマントの端を掴もうとした男の手を蹴り飛ばし、片目を閉じる。隠している。まだ見えない。
 指の輪を介すと、私と同じように懐に水晶の刃を収めているのが見えた。
「迎えを呼んでやろう」
 天馬の鬣が用いられるよりも早く、腕を振るい蜥蜴の髄を撓らせる。
 見つけた剣を目掛けた一振りで男の体が吹き飛び、地面に叩きつけられる。共に何か、玻璃でも砕けるような美しい音がした。
 瓶から取り出した人魚の歌声のように、絶望を塗り込めた悲鳴が男の喉から発せられた。直後、この上なく蒼い顔をした魔法使いの周り、大地が隆起し、白銀色に輝く貴人が姿を現す。
 肌が粟立った。言葉を尽くして賛辞せずには居られぬほど美しく――そして恐るべき光景だった。
「ああ嬉しい。やっと見つけた、愛しい騎士。どうして私の城から逃げてしまったの。あんなにも愛を与えたのに?」
 なんと玲瓏な声音。妖精郷の、どの地の奥方だろうか。長い銀の髪が波打ち、晴れの日に輝く雪を紡いだベールの向こうで、彼女は凄艶な笑みを浮かべた。背筋が凍る思いがした。
 戦慄し震え上がる魔法使いの頬を、自らの肌を覆う霞みと共に、細くしなやかな指で包みこむ。身を捩る男を眼差しでもって縛りつけたのが分かった。男は凍ったように動けない。口だけが譫言のように祈りを呟いていた。
 父なる神母なる神幼き神よ……
 彼の女王が口づけする。醜い命乞いは封じられ、魂が吸い寄せられる。男の体が見る間に干からび、年老いていく。
 ――魔法使いとは、見目と才を見初められ妖精の世界に連れられながら、彼らの妙なる知識と水晶の剣を盗み人の世に戻った騎士、出戻りの存在を言う。
 妖精を知り、魔法を知り。ミンネを捧げた妖精の女王からの加護――水晶の剣により、妖精と同じく老いての死を免れ、多くの魔法と呪いを退け、また盗人を呪う妖精たちの眼差しからも逃れる。人の世にあっても妖精の世にあっても、多くの上位に立つことのできる存在だ。
 ただし水晶の剣を砕かれその魔法が壊れた暁には、魂の巡る輪から追放される永遠の死が魔法使いを待っている。
 妖精郷で騎士が愛を捧げた女王は、愛憎を抱いて裏切り者を探し続けている。百年だろうが千年だろうが、ずっと。与えた剣が砕けるその瞬間を待ち続けている。剣が砕ける音はすぐに彼女らの耳に入る。何処に居ようと例外はない。そして彼女らはこのように、人の理を超えた早さで瞬く間に駆けつけ、死の口づけと抱擁を、盗人の騎士に贈るのだ。
 これが、妖精を裏切った者の末路だ。
 魔法使いの亡骸をうっとりと抱える白雪の婦人が、不意に顔を上げ、こちらを見た。己の血が引く音を聞いた。
「お前、どこかの奥方様が、お前に会いたがっていてよ。もう何百年も姿を見せないものだから。私にはお前が皺くちゃの爺に見えてよ。ねえ、お前も剣を、砕いてしまいなさいよ。きっとすぐに来てくださるから」
 銀の輝きは増していた。魔法使いの魂を手に入れたからだろう。彼はもうずっと、この妖精と共にあるのだ。彼は愛のみならず、体と魂まで妖精に捧げてしまった。
「けれど、ありがとう。私は今とても気分がよいわ」
 白い妖精は無垢に笑い、心底嬉しそうに言った。
 そうして彼女が魔法使いの亡骸を抱えて国に戻るまで、私は彼女と魔法使いから目を離すことができなかった。日が落ちて夜が訪れ、また日が昇るのを待っているような気分だった。
 ドーランとユルペンニアの戦争が終わったのは、それでやっとだ。
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