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十歩 止まる
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行脚の足が止まったのは、出立から数えて丁度二十日目のことだった。
セキボクの隣町ナツタに至り、儀礼を行い一泊。遠くに見えたミハカシ山は朝に起きてみると一層にくっきりとその輪郭が見え、もう次は州都だと話していた。そうしてこれまでよりやや意気込んで、朝食をとっていたところに慌てた雰囲気の役人がやってきた。
街道に向かう門前に囁火《ショカ》が出たのだと言う。食事の残りを詰め込んで、伝えてきた彼らと共にまだそれぞれの支度で部屋にいる巫覡を探した。サカキ殿はすぐに見つかり、呼ばれたアズサ殿も廊下へと出てくる。
「囁火が出たらしい。ついさっきだそうだ。――今日は取り止めだろうか」
言うや否や、いつもにこやかな二人は揃って顔を顰めた。
「んもう、念入りに占ってもこれだから困るわ。ぽっと出てきて」
「何か言ったようですか?」
「いや、ただ笑うだけの小さいものだったらしいが」
確かめるのに窺えば、役人たちは頷いた。サカキ殿が肩を落として頭を掻く。
「そらまったく得がないことですわ。やれやれ……」
悪さをするものではない。何も燃やさず宙に灯る青い火、光の玉だ。門や辻に現れて、幼い子供のような声で笑ったり泣いたり、叫んだりする。多くは火の形だが時折人型や鳥の形などとるものがいて、喋り、歌うことがある。そういうものは吉事の予言をする。一方的に声を発するだけで人が何か言っても会話にはならず、弓や楽器など音を鳴らすものを使うとすぐ消えるという。都で公的には囁火と呼ぶが、無答の火、野火、瞬……様々に呼ばれている。要は何処でも出うる。普段の生活では出たから何と言うことはない、ただ出くわして驚く程度のものだ。
しかし、占いを大いに乱す――のだという。これが出るのは占いの結果が異なる印……だったか占いが変わるのだったか、そんな話だった。儀礼など何か特別の予定を組んでいるときは占いなおしてみたほうがよい。そういうわけで、巫覡たちには相当毛嫌いされていると見えた。立腹の様子である。
「もう消えたと言うが、一応見てくるか? 弓でも持って……」
試しに提案してみたがはっきりと首を振られた。そこでサカキ殿がようやく笑う。別に冗談ではなかったが。
「それには及びません。二度出ることはそうないですし、鳴弦したからともう出たのは仕方ありませんので、そうですわな、まず今日のところはお待ちください」
「占い直します。おそらく四……三日ほど日を置いて、道を変える――一度どこか寄ってセキボクに入るようにするかもしれないし、変わらないかも。そのように皆様にも」
やはり行脚も中断らしい。若い娘の巫《かんなぎ》は気を取り直すように襟元を正した。
「都にも文を飛ばしてくださいまし。あちらでも占ってもらって結果を合わせますので。ミズちゃん呼んできます」
「相分かった。――数日滞在の旨、上に伝えてくれ。セキボクにはこちらから文を出す」
執筆ミズヒキもすぐに伝文の道具を用意して出てきた。紙やら何やらと、筒に弓で大荷物の半分を引き受けながら占いの為の部屋を用意を言いつけ、そちらは巫覡に任せて広間に戻る。待ち構えていた配下の者たちにも全員に出発の取り止めを伝えるよう命じ、急な逗留にあちらこちらで慌てて動き出した空気を感じながら、墨を磨り書状を作るのを待った。これまでなら夕刻から夜、到着後あるいは儀礼を終えた後に行う仕事なので調子が狂う。手際のよい彼女は普段であれば俺がやってくる頃には書状を書き終えているので、墨を磨るのから待つのも初めてだった。
しかし慣れた執筆は横で眺めたところで緊張した様子もなく、なんとも美しい所作で紙に筆先を滑らせた。見事な達筆で国都宛とセキボク宛、二枚すぐに書き終えて、筆を寄越す。
「ご確認、ご署名お願い致します」
「ああ」
毎度、横に名を書くのに気が引ける。
早朝出立前、ナツタの門前に於いて囁火が現れること報告致す。告げることなく忽ち消え失せる。ナツタに留まり、占いを改め指示を待つ。――文章を確かめ、執筆の署名の横に俺の名も添えて証明とする。そうして墨を乾かす間、少し余裕ができる。
「……囁火を見たことはあるか?」
「いえ……でも行脚のときはどこかで出るものだと言いますよ」
「そうなのか。入念に準備した儀礼でこれは、巫覡は参るだろうな」
「春には多いそうで……私も詳しくは存じませんが」
「時期もあるのか。俺が見たのは冬だったが……」
「そのときはどうなさいました?」
「いや、別に儀礼も何もなかったからな。少し騒いで終わりだった」
輪印の弓掛を身に着ける彼女と話す間に墨は乾いた。畳み、筒から取り出された双《ソウ》のはくりと裂けるかの口に呑ませ、その胴には受取人の名が書かれる。宮中の部署、行脚の動向を把握する部屋へ一通。セキボクの役場に一通。
千年前の大昔に呪術家シビ公が作ったと言い伝えられる伝文の為の生き物は、執筆が手を離すと宙に浮かんで漂った。遠くで見れば白い短冊のようでもあるそれは一つ目の蛇か魚といったところだが、水ではなく空を泳ぎ翔けるものである。一つの卵から必ず二匹孵ることからその名がある。
「さ、できました。送りましょう」
筆から弓に持ち替えた彼女に促されて外に出る。双たちは羽衣のように肩のあたりについていく。
歩くのには些か眩しいほどに天気がいいのが勿体なかった。確認に頷くと、矢と同じに引き絞った双がその晴れ空へと放たれる。パン、と打つ音が小気味よく響き――今日は明るいのでよく見えたが、それでもすぐに飛び去って居なくなる。行脚に出て何度目かの感心をする。もう一匹も同じ要領で、山を目印にセキボクへと飛ばされた。無事行ったようなのを見届けて、もう一度頷いた。
「ご苦労。本当によく飛ぶ双だな。腕がいい」
「ありがとうございます。――都にも、昼にはもう着くでしょう。返事は……占い次第でしょうか……」
弓で命じて操る双は煙髯《エゼン》より――どんな騎より速い。上手く飼い育てているものは迷わずに飛んで矢の速さのままに相手に届く。はにかんで笑ったミズヒキは書の腕前だけでなくそこも一級と見えた。
往復でもただの返事なら夜には戻ってくるものだが、占ってからではどうだか知れない。どうあれ巫覡任せ、三、四日は置くような話も聞いたことだし、決まらぬものを急いでも仕方がない。
「では――休むか」
あとは待つのが仕事だ。
「そうですね。……本日もお連れの皆さんと鍛錬などなさるんですか」
「いや今日は……こっちの者が確認しにくることも多いだろうし、俺はすぐに動けるようにしておく。部屋でも何処でも好きに過ごしていてくれ。双が帰ったら声をかける」
「畏まりました」
外で騎や黒脚《コキ》の支度をしていた者たちも戻ってくる。長居になりそうなので荷を解くようにと改めて伝え、とりあえず中へと戻り広間に腰を落ち着けた。そろそろ此処の長も顔を出すだろう。
一番に済ませるべき連絡は終え、占いは二回目三回目の結果待ち。皆にも、ナツタの側にも頼むことは頼んだ。一日で済むと思われた宿泊が一気に延びてただでも仕事が増えるだろうに、機嫌をとるべく何かと聞いてくる人々に暇潰しの為の碁や鞠など出してもらって、夜は講談や伽を呼ぶかと提案されたついで、数日かかるならもうこの際花見ができる場所はないかと訊ねて、菓子や酒の用意も頼む。まあまあ、明日からは退屈はしないで済みそうだった。
セキボクからの了解の返事を持った双はすぐに戻ってきたが、都のものは未だ来ない。昼を軽く食って、ずっと付き合わせて座らせているのもとイタドリを送り出していくらか経ったか。うたた寝などしたところで広間の景色は変わらず、端で医官レンギョウと護衛のナトリが碁を打つ音が聞こえる。長閑に間延びした空気の昼下がりだった。
手近の水差しは空だ。立ち上がり勝敗が見え始めている碁盤を覗いて、気づいたナトリが立とうとするのは制する。黙って座っているのは飽いてきた。水差し片手に、窓の向こうも見やりながら歩く。
散歩でもしてくるか。――ススキはどうしているだろうか。朝にちらと見かけたきりだ。恐らくこれまでの休日のように部屋に居ることだろうが……此処から彼を誘いに行くのはちょっとばかり、仰々しいか。
決めかねながら厨房へと向かうと、入っていくナラの姿が見えた。茶の支度を頼む声がする。――運が向いているのではと思った。
「それはススキ殿にか」
声をかけるとびくりと背を揺らして振り返る。
俺たちの滞在に合わせて茶汲みや煮炊きをする者たちが動いている厨は暖かく、蓬のいい香りがした。丁度、蒸かした麭《こなもち》か何かが取り出された。
「ええ、はい。部屋にお持ちします」
「杯を一つ増やしてもらえるだろうか。顔を見に行く」
「はい、ではええ、……お先に行っていただいても」
「ではそれだけ先に持っていく。すまんな」
控えめな声音に頷き、茶請けにと皿に取り分けている出来立ての菓子を指差す。一口大の麭の中身を説明してくれる老爺に礼を言い水差しと皿を持ち替えて、部屋を目指した。……世話係にはあまり歓迎されていないように感じられたが、用があるのはススキにだ。
俺の部屋にされているのとは逆側の一室の扉は、風を通すのにか開け放たれて薄い布の幕だけ下ろされていた。それをよければ、窓の前に腰かけて外を眺める佳人が見えた。
「……ススキ殿」
「――えあっ、アオギリ、将軍。何かありました?」
声をかけるとぱっとこちらを向いて立ち上がる。驚いた様子は先程のナラとも似てはいたが、怯んだ空気がまるで無いのに安堵する。
「いや、どうしているかと思ってな。都からの返事もまだだ。……邪魔ならすぐ戻るが、入って構わんか」
「邪魔なわけありません。暇ならお茶にしましょうよ。今ナラさんに用意してもらっているんで」
「それを見かけて来た」
手に持った皿を差し出すと寄ってきた彼は遠慮なくかけられた布巾を捲り、現れた香りよい緑色に相好を崩した。
「ああ蓬だ。いいですね」
丸い麭は九つ並んでいる。ナラが戻ってきて四人……と、ススキの横に佇む岩偶《ガグ》の分も考えかけるが、要らぬ心配だった。――もう彼女の存在も馴染んできて、人数を確かめるときなどは今のように数に入れてしまうことが増えていた。
「酪《らく》と、餡の入ったのがあるそうだ」
「ちょっと、お待ちくださいな。片づけます」
岩偶が眺める明るい窓辺の卓上、経木が広げられているのは文かと思えば絵だった。上に炭筆も置かれているので、今、彼が描いていたものだろう。
「ああ、絵を描くと言ったな」
「芸術は止められませんので。絵と、書と、楽と……特に笛は口が塞がるからいいっていう……」
何気ない冗談めいた調子だったが、金の尾の境遇を窺わせる物言いには眉が寄った。目が合った彼は言葉を取りやめ、笑みを深める。
「今回も笛は持ってきてますよ。あとでやりましょうか? すごく得意ってわけではないんですけど、聞かせる程度には吹けます」
変わって、魅力的な提案には頷いた。歌や楽器はいいものだ。
「花見ができそうだから、よければそのときにでも披露してくれ。講談や芸人も呼んでくれるというが」
「それはいいですね。皆さんも喜ぶでしょう」
「絵も見せてもらってもいいか」
「これも、得意ってほどではありませんが」
「俺も別に見る目があるわけではない」
ただ見たいのだと応じればふと頬を緩めて差し出した。黒の濃淡で描かれたその一枚は、窓の外に広がる景色だ。遠くにミハカシ山を据えた田舎の春。どこか柔い印象のする、なんというか――彼らしい絵だった。
「上手いと思うが」
「結構描いてはいますからね、宮では。此処からは山も見えますので、まあ土産話をするときにいいかなと」
絵も本当によく見えたが、照れくさそうに言うのが可愛らしい。もう少し気の利いた褒め言葉でも出ればいいのだが、やはり見る目があるわけでもなかった。
「正直、行脚の最中のほうが描きたいものは多いんですが、いちいち立ち止まってはいられませんので。こういうときが機会ですね」
それでもススキは流れるように、心地よい声を聞かせてくれる。
「描くのはやはり景色か?」
「あとは草花とか。動くものは最近描かないですねえ。動くから」
「黒脚ならいいんじゃないか。そう素早くはないし、模様も違う」
「あの模様は描きがいがあるというか、大変かも」
炭の色と景色を見比べ、絵など描かぬ素人考えで言って笑う間に、ナラがやってきたので絵を返す。そこでやっと腰掛けた。
「お待ちどおさまです」
「ありがとうございます」
「二人では持て余していたから、アオギリ様がいらしてよかったですね……――私はそちらに居りますわ」
ナラは先程よりにこやかにしててきぱきと茶を淹れ、一人分を盆に取り分けた。
衝立を動かして仕切りにした向こうに座る。さすがに完全に二人にはされなかったが、そういう気遣いに違いなかった。やはり彼女にもただ金の尾と引率というには親しいと見られているようだった。――それゆえに、本音では歓迎しかねるのだろうが。
卓を挟んで向かい合い、熱い茶を冷ます。乾いた喉を潤して摘まみあげた菓子を口に放り込むと、向かいの顔が驚いた。
「これ一口ですか。口も大きいですねえ」
麭と俺の口を見比べて感心した様子で言う。噛んで飲みこんでしまうより先に、声は続いた。
「やっぱり胃の腑なんかも大きいんでしょうか。一人で酒甕を空にしたっていうのも嘘じゃあなさそうですね」
自慢ではないが酒は強い。滅多に酔わないし飲み比べでは勝ち続きだ。それも部下の誰かが言ったのだろうが。
「……まあ、人よりは食うし飲むが、酒はエンジュ……兄のほうが強い」
「お兄さんも大きいんですか?」
「あっちはもう少し人並みだ」
噴き出しておかしそうに笑う。口元を押さえた白い指先が持ち上げると、確かに菓子は一口には少し大振りにも見えた。
「食事は足りてます? も一つどうぞ、私は二個頂けば十分ですので」
とりとめのない話をしながら二杯ばかり茶を飲んだ。菓子を頬張り――彼は二口三口で食べ――笑う様を眺めて、景色のよい外も見ながら語らう。話の合間に目が合うと唇の端が上がり、目を伏せ茶を含む、それだけの所作に胸の内を擽られる心地がした。
見ていると、同じ部屋に人がいるのを忘れそうだ。岩偶の眼差しも。
「――そういえば、囁火を見たことはあるか。この時期は多く出るのだと朝聞いたんだが」
寛いだ空気の中、今回の足止めの原因について問うてみると、ススキはほんのりと眉を下げて茶碗を撫でた。
「私結構、当たるんですよねえ」
「当たる」
残る茶を揺らしてぼやくのに繰り返すと、頷く。
「実際見たのは……二回かな。でも毎年とは言わずとも何度か行脚で。昔、都の大路に出て私が産まれるのを言ったのもいると聞きましたから、何か好かれてるのかも知れません」
「それは確かに何か縁を感じるな……」
ススキは困ったように肩を竦めた。囁火が告げることは吉事だと言うから、けっして悪いことではないだろう。喜び伝えられたはずだ。
「サカキさんたちには言わないでくださいよう。まあ多分知ってると思いますけど……」
「そうだな、珍しく顰め面だった。もう機嫌が直っているといいが」
「やっぱりなんか悪いなあ。どうにもできないんですけど。私はただ言われたとおり歩くだけなんで……」
ただし、もし本当に好かれているなら巫覡たちにとっては頭の痛い問題だろうというのは朝のあの反応でよく分かった。――結構時間が経った。占いも一段落ついただろうか。
「ナラさん。すみません、おかわりのお湯、貰ってきていただけますか」
「はいはい、只今」
楽しい休憩もできたのでそろそろ広間に戻ろうかと俺が口を開くより先に、ススキが茶壷を持ち上げてナラに声をかける。彼女と共に出ていく選択肢もあったろうが……
世話係が出ていけばまた二人になる。気配が遠ざかるのを待って、視線が通った。特別に意識する沈黙。
卓上、茶碗の横に置かれた手が動いたのも見えていた。同じく置かれていた俺の手にそっと触れてきた指は今日は冷えてはいなかったが、あの夜を思い出すには十分だった。
「夜にも、部屋に来ませんか」
明確な誘いの言葉を紡ぐ声は、これまでより小さい。
「……来たいが。……もし来れずとも、気がないのだとは思わないでほしい」
すぐ頷くところだったが、約束はできないと思いなおして留まった。務めがあれば放り出すことはできないし、また誰かに諫められる可能性も大いにある。この場でも、夜にも期待を裏切って悲しませたくないと、言葉を探して重ねれば彼は笑って深く頷いた。
「すみません、こうして来てくださっただけで嬉しいのに……欲が深くなりました」
もう片方、右手も重ねられて、何か封でもするように握られる。人と触れ合うのはこんなにもどかしいものだっただろうか。
「皆には悪いし、貴方にとってもよくないとは思うんですが――こうして日が延びるのも喜んでしまう。だから猶更、申し訳ない気がするんですねえ」
少し気弱な笑みが胸の内を引っ掻くようだ。駆られて手を握り、身を乗り出す。本当は抱き寄せたかったが、よくも悪くも卓が邪魔をした。
触れて離れる、少し強張ったような顔は昼の明るい中ではよく見えた。瞼が震え、淡い色の瞳が見上げてくる。
「お前がこの旅をよく思うなら俺も嬉しい。引率としても甲斐がある。……遅れも天運なのだろう?」
「――ええ。ちょっと困りはするかも知れないけど、悪いことにはならないものです」
微笑む顔にもう一度と触れたくなるのは堪えた。手はやがて緩んで、どちらからともなく離れた。
一人ではなく話しながらやってきた声に顔を上げる。よく知る部下の声、ヤナギだろう。聞き違いではなく、衝立の向こうを覗けば茶壷を片手に戻ってきたナラと共に彼も顔を出した。
――ススキが唇を尖らせて不満そうな顔をしたのが見えた気がした。
「すみません将軍、確認したいことが」
確かめたときにはもう人好きのする笑みを浮かべていて、ヤナギが俺を呼ぶのにそちらへと顔を戻さねばならなかったが。
「すぐ行く。――すまない、長く居すぎた」
「いいえ」
「ではまた。いってらっしゃいませ」
立ち上がり、どちらかと言えばナラに詫びて、美しく笑って会釈するのも見て部屋を出る。広間の側へと少し進んで――何も言ってこないのを訝しむ。
「用事は」
「ナラ殿が困っておりましたので、茶を飲み終わったならいいかと思い」
背後をちらと確かめたヤナギの返事にはつい、溜息が出た。
「……戻るつもりではあったんだが」
「引き留められましたか。それはしょうがない」
言い訳にも暢気に軽く笑うのが気まずい。こいつの場合は揶揄ではないが、それはそれで。
「俺は別に悪いとは思いませんよ。周りが気を揉んじまうのもそりゃあまあ、分かりますが。皆色々ありますからね」
もう彼らには知られている。窘めてくる者も、何も言わない者も居た。ヤナギの言うとおり各々の処世と忠心だろう。俺自身、先の返答を悩んだように色々を考えないではいられないが。
「楽しかったですか?」
「とてもいい時間だった」
「それはそれは、何よりです」
問いには即答だ。あれこれを差し引いてもやはり惹かれてやまない相手だ。握られた手の熱がまだ残っている。また触れたいと、思っている。
セキボクの隣町ナツタに至り、儀礼を行い一泊。遠くに見えたミハカシ山は朝に起きてみると一層にくっきりとその輪郭が見え、もう次は州都だと話していた。そうしてこれまでよりやや意気込んで、朝食をとっていたところに慌てた雰囲気の役人がやってきた。
街道に向かう門前に囁火《ショカ》が出たのだと言う。食事の残りを詰め込んで、伝えてきた彼らと共にまだそれぞれの支度で部屋にいる巫覡を探した。サカキ殿はすぐに見つかり、呼ばれたアズサ殿も廊下へと出てくる。
「囁火が出たらしい。ついさっきだそうだ。――今日は取り止めだろうか」
言うや否や、いつもにこやかな二人は揃って顔を顰めた。
「んもう、念入りに占ってもこれだから困るわ。ぽっと出てきて」
「何か言ったようですか?」
「いや、ただ笑うだけの小さいものだったらしいが」
確かめるのに窺えば、役人たちは頷いた。サカキ殿が肩を落として頭を掻く。
「そらまったく得がないことですわ。やれやれ……」
悪さをするものではない。何も燃やさず宙に灯る青い火、光の玉だ。門や辻に現れて、幼い子供のような声で笑ったり泣いたり、叫んだりする。多くは火の形だが時折人型や鳥の形などとるものがいて、喋り、歌うことがある。そういうものは吉事の予言をする。一方的に声を発するだけで人が何か言っても会話にはならず、弓や楽器など音を鳴らすものを使うとすぐ消えるという。都で公的には囁火と呼ぶが、無答の火、野火、瞬……様々に呼ばれている。要は何処でも出うる。普段の生活では出たから何と言うことはない、ただ出くわして驚く程度のものだ。
しかし、占いを大いに乱す――のだという。これが出るのは占いの結果が異なる印……だったか占いが変わるのだったか、そんな話だった。儀礼など何か特別の予定を組んでいるときは占いなおしてみたほうがよい。そういうわけで、巫覡たちには相当毛嫌いされていると見えた。立腹の様子である。
「もう消えたと言うが、一応見てくるか? 弓でも持って……」
試しに提案してみたがはっきりと首を振られた。そこでサカキ殿がようやく笑う。別に冗談ではなかったが。
「それには及びません。二度出ることはそうないですし、鳴弦したからともう出たのは仕方ありませんので、そうですわな、まず今日のところはお待ちください」
「占い直します。おそらく四……三日ほど日を置いて、道を変える――一度どこか寄ってセキボクに入るようにするかもしれないし、変わらないかも。そのように皆様にも」
やはり行脚も中断らしい。若い娘の巫《かんなぎ》は気を取り直すように襟元を正した。
「都にも文を飛ばしてくださいまし。あちらでも占ってもらって結果を合わせますので。ミズちゃん呼んできます」
「相分かった。――数日滞在の旨、上に伝えてくれ。セキボクにはこちらから文を出す」
執筆ミズヒキもすぐに伝文の道具を用意して出てきた。紙やら何やらと、筒に弓で大荷物の半分を引き受けながら占いの為の部屋を用意を言いつけ、そちらは巫覡に任せて広間に戻る。待ち構えていた配下の者たちにも全員に出発の取り止めを伝えるよう命じ、急な逗留にあちらこちらで慌てて動き出した空気を感じながら、墨を磨り書状を作るのを待った。これまでなら夕刻から夜、到着後あるいは儀礼を終えた後に行う仕事なので調子が狂う。手際のよい彼女は普段であれば俺がやってくる頃には書状を書き終えているので、墨を磨るのから待つのも初めてだった。
しかし慣れた執筆は横で眺めたところで緊張した様子もなく、なんとも美しい所作で紙に筆先を滑らせた。見事な達筆で国都宛とセキボク宛、二枚すぐに書き終えて、筆を寄越す。
「ご確認、ご署名お願い致します」
「ああ」
毎度、横に名を書くのに気が引ける。
早朝出立前、ナツタの門前に於いて囁火が現れること報告致す。告げることなく忽ち消え失せる。ナツタに留まり、占いを改め指示を待つ。――文章を確かめ、執筆の署名の横に俺の名も添えて証明とする。そうして墨を乾かす間、少し余裕ができる。
「……囁火を見たことはあるか?」
「いえ……でも行脚のときはどこかで出るものだと言いますよ」
「そうなのか。入念に準備した儀礼でこれは、巫覡は参るだろうな」
「春には多いそうで……私も詳しくは存じませんが」
「時期もあるのか。俺が見たのは冬だったが……」
「そのときはどうなさいました?」
「いや、別に儀礼も何もなかったからな。少し騒いで終わりだった」
輪印の弓掛を身に着ける彼女と話す間に墨は乾いた。畳み、筒から取り出された双《ソウ》のはくりと裂けるかの口に呑ませ、その胴には受取人の名が書かれる。宮中の部署、行脚の動向を把握する部屋へ一通。セキボクの役場に一通。
千年前の大昔に呪術家シビ公が作ったと言い伝えられる伝文の為の生き物は、執筆が手を離すと宙に浮かんで漂った。遠くで見れば白い短冊のようでもあるそれは一つ目の蛇か魚といったところだが、水ではなく空を泳ぎ翔けるものである。一つの卵から必ず二匹孵ることからその名がある。
「さ、できました。送りましょう」
筆から弓に持ち替えた彼女に促されて外に出る。双たちは羽衣のように肩のあたりについていく。
歩くのには些か眩しいほどに天気がいいのが勿体なかった。確認に頷くと、矢と同じに引き絞った双がその晴れ空へと放たれる。パン、と打つ音が小気味よく響き――今日は明るいのでよく見えたが、それでもすぐに飛び去って居なくなる。行脚に出て何度目かの感心をする。もう一匹も同じ要領で、山を目印にセキボクへと飛ばされた。無事行ったようなのを見届けて、もう一度頷いた。
「ご苦労。本当によく飛ぶ双だな。腕がいい」
「ありがとうございます。――都にも、昼にはもう着くでしょう。返事は……占い次第でしょうか……」
弓で命じて操る双は煙髯《エゼン》より――どんな騎より速い。上手く飼い育てているものは迷わずに飛んで矢の速さのままに相手に届く。はにかんで笑ったミズヒキは書の腕前だけでなくそこも一級と見えた。
往復でもただの返事なら夜には戻ってくるものだが、占ってからではどうだか知れない。どうあれ巫覡任せ、三、四日は置くような話も聞いたことだし、決まらぬものを急いでも仕方がない。
「では――休むか」
あとは待つのが仕事だ。
「そうですね。……本日もお連れの皆さんと鍛錬などなさるんですか」
「いや今日は……こっちの者が確認しにくることも多いだろうし、俺はすぐに動けるようにしておく。部屋でも何処でも好きに過ごしていてくれ。双が帰ったら声をかける」
「畏まりました」
外で騎や黒脚《コキ》の支度をしていた者たちも戻ってくる。長居になりそうなので荷を解くようにと改めて伝え、とりあえず中へと戻り広間に腰を落ち着けた。そろそろ此処の長も顔を出すだろう。
一番に済ませるべき連絡は終え、占いは二回目三回目の結果待ち。皆にも、ナツタの側にも頼むことは頼んだ。一日で済むと思われた宿泊が一気に延びてただでも仕事が増えるだろうに、機嫌をとるべく何かと聞いてくる人々に暇潰しの為の碁や鞠など出してもらって、夜は講談や伽を呼ぶかと提案されたついで、数日かかるならもうこの際花見ができる場所はないかと訊ねて、菓子や酒の用意も頼む。まあまあ、明日からは退屈はしないで済みそうだった。
セキボクからの了解の返事を持った双はすぐに戻ってきたが、都のものは未だ来ない。昼を軽く食って、ずっと付き合わせて座らせているのもとイタドリを送り出していくらか経ったか。うたた寝などしたところで広間の景色は変わらず、端で医官レンギョウと護衛のナトリが碁を打つ音が聞こえる。長閑に間延びした空気の昼下がりだった。
手近の水差しは空だ。立ち上がり勝敗が見え始めている碁盤を覗いて、気づいたナトリが立とうとするのは制する。黙って座っているのは飽いてきた。水差し片手に、窓の向こうも見やりながら歩く。
散歩でもしてくるか。――ススキはどうしているだろうか。朝にちらと見かけたきりだ。恐らくこれまでの休日のように部屋に居ることだろうが……此処から彼を誘いに行くのはちょっとばかり、仰々しいか。
決めかねながら厨房へと向かうと、入っていくナラの姿が見えた。茶の支度を頼む声がする。――運が向いているのではと思った。
「それはススキ殿にか」
声をかけるとびくりと背を揺らして振り返る。
俺たちの滞在に合わせて茶汲みや煮炊きをする者たちが動いている厨は暖かく、蓬のいい香りがした。丁度、蒸かした麭《こなもち》か何かが取り出された。
「ええ、はい。部屋にお持ちします」
「杯を一つ増やしてもらえるだろうか。顔を見に行く」
「はい、ではええ、……お先に行っていただいても」
「ではそれだけ先に持っていく。すまんな」
控えめな声音に頷き、茶請けにと皿に取り分けている出来立ての菓子を指差す。一口大の麭の中身を説明してくれる老爺に礼を言い水差しと皿を持ち替えて、部屋を目指した。……世話係にはあまり歓迎されていないように感じられたが、用があるのはススキにだ。
俺の部屋にされているのとは逆側の一室の扉は、風を通すのにか開け放たれて薄い布の幕だけ下ろされていた。それをよければ、窓の前に腰かけて外を眺める佳人が見えた。
「……ススキ殿」
「――えあっ、アオギリ、将軍。何かありました?」
声をかけるとぱっとこちらを向いて立ち上がる。驚いた様子は先程のナラとも似てはいたが、怯んだ空気がまるで無いのに安堵する。
「いや、どうしているかと思ってな。都からの返事もまだだ。……邪魔ならすぐ戻るが、入って構わんか」
「邪魔なわけありません。暇ならお茶にしましょうよ。今ナラさんに用意してもらっているんで」
「それを見かけて来た」
手に持った皿を差し出すと寄ってきた彼は遠慮なくかけられた布巾を捲り、現れた香りよい緑色に相好を崩した。
「ああ蓬だ。いいですね」
丸い麭は九つ並んでいる。ナラが戻ってきて四人……と、ススキの横に佇む岩偶《ガグ》の分も考えかけるが、要らぬ心配だった。――もう彼女の存在も馴染んできて、人数を確かめるときなどは今のように数に入れてしまうことが増えていた。
「酪《らく》と、餡の入ったのがあるそうだ」
「ちょっと、お待ちくださいな。片づけます」
岩偶が眺める明るい窓辺の卓上、経木が広げられているのは文かと思えば絵だった。上に炭筆も置かれているので、今、彼が描いていたものだろう。
「ああ、絵を描くと言ったな」
「芸術は止められませんので。絵と、書と、楽と……特に笛は口が塞がるからいいっていう……」
何気ない冗談めいた調子だったが、金の尾の境遇を窺わせる物言いには眉が寄った。目が合った彼は言葉を取りやめ、笑みを深める。
「今回も笛は持ってきてますよ。あとでやりましょうか? すごく得意ってわけではないんですけど、聞かせる程度には吹けます」
変わって、魅力的な提案には頷いた。歌や楽器はいいものだ。
「花見ができそうだから、よければそのときにでも披露してくれ。講談や芸人も呼んでくれるというが」
「それはいいですね。皆さんも喜ぶでしょう」
「絵も見せてもらってもいいか」
「これも、得意ってほどではありませんが」
「俺も別に見る目があるわけではない」
ただ見たいのだと応じればふと頬を緩めて差し出した。黒の濃淡で描かれたその一枚は、窓の外に広がる景色だ。遠くにミハカシ山を据えた田舎の春。どこか柔い印象のする、なんというか――彼らしい絵だった。
「上手いと思うが」
「結構描いてはいますからね、宮では。此処からは山も見えますので、まあ土産話をするときにいいかなと」
絵も本当によく見えたが、照れくさそうに言うのが可愛らしい。もう少し気の利いた褒め言葉でも出ればいいのだが、やはり見る目があるわけでもなかった。
「正直、行脚の最中のほうが描きたいものは多いんですが、いちいち立ち止まってはいられませんので。こういうときが機会ですね」
それでもススキは流れるように、心地よい声を聞かせてくれる。
「描くのはやはり景色か?」
「あとは草花とか。動くものは最近描かないですねえ。動くから」
「黒脚ならいいんじゃないか。そう素早くはないし、模様も違う」
「あの模様は描きがいがあるというか、大変かも」
炭の色と景色を見比べ、絵など描かぬ素人考えで言って笑う間に、ナラがやってきたので絵を返す。そこでやっと腰掛けた。
「お待ちどおさまです」
「ありがとうございます」
「二人では持て余していたから、アオギリ様がいらしてよかったですね……――私はそちらに居りますわ」
ナラは先程よりにこやかにしててきぱきと茶を淹れ、一人分を盆に取り分けた。
衝立を動かして仕切りにした向こうに座る。さすがに完全に二人にはされなかったが、そういう気遣いに違いなかった。やはり彼女にもただ金の尾と引率というには親しいと見られているようだった。――それゆえに、本音では歓迎しかねるのだろうが。
卓を挟んで向かい合い、熱い茶を冷ます。乾いた喉を潤して摘まみあげた菓子を口に放り込むと、向かいの顔が驚いた。
「これ一口ですか。口も大きいですねえ」
麭と俺の口を見比べて感心した様子で言う。噛んで飲みこんでしまうより先に、声は続いた。
「やっぱり胃の腑なんかも大きいんでしょうか。一人で酒甕を空にしたっていうのも嘘じゃあなさそうですね」
自慢ではないが酒は強い。滅多に酔わないし飲み比べでは勝ち続きだ。それも部下の誰かが言ったのだろうが。
「……まあ、人よりは食うし飲むが、酒はエンジュ……兄のほうが強い」
「お兄さんも大きいんですか?」
「あっちはもう少し人並みだ」
噴き出しておかしそうに笑う。口元を押さえた白い指先が持ち上げると、確かに菓子は一口には少し大振りにも見えた。
「食事は足りてます? も一つどうぞ、私は二個頂けば十分ですので」
とりとめのない話をしながら二杯ばかり茶を飲んだ。菓子を頬張り――彼は二口三口で食べ――笑う様を眺めて、景色のよい外も見ながら語らう。話の合間に目が合うと唇の端が上がり、目を伏せ茶を含む、それだけの所作に胸の内を擽られる心地がした。
見ていると、同じ部屋に人がいるのを忘れそうだ。岩偶の眼差しも。
「――そういえば、囁火を見たことはあるか。この時期は多く出るのだと朝聞いたんだが」
寛いだ空気の中、今回の足止めの原因について問うてみると、ススキはほんのりと眉を下げて茶碗を撫でた。
「私結構、当たるんですよねえ」
「当たる」
残る茶を揺らしてぼやくのに繰り返すと、頷く。
「実際見たのは……二回かな。でも毎年とは言わずとも何度か行脚で。昔、都の大路に出て私が産まれるのを言ったのもいると聞きましたから、何か好かれてるのかも知れません」
「それは確かに何か縁を感じるな……」
ススキは困ったように肩を竦めた。囁火が告げることは吉事だと言うから、けっして悪いことではないだろう。喜び伝えられたはずだ。
「サカキさんたちには言わないでくださいよう。まあ多分知ってると思いますけど……」
「そうだな、珍しく顰め面だった。もう機嫌が直っているといいが」
「やっぱりなんか悪いなあ。どうにもできないんですけど。私はただ言われたとおり歩くだけなんで……」
ただし、もし本当に好かれているなら巫覡たちにとっては頭の痛い問題だろうというのは朝のあの反応でよく分かった。――結構時間が経った。占いも一段落ついただろうか。
「ナラさん。すみません、おかわりのお湯、貰ってきていただけますか」
「はいはい、只今」
楽しい休憩もできたのでそろそろ広間に戻ろうかと俺が口を開くより先に、ススキが茶壷を持ち上げてナラに声をかける。彼女と共に出ていく選択肢もあったろうが……
世話係が出ていけばまた二人になる。気配が遠ざかるのを待って、視線が通った。特別に意識する沈黙。
卓上、茶碗の横に置かれた手が動いたのも見えていた。同じく置かれていた俺の手にそっと触れてきた指は今日は冷えてはいなかったが、あの夜を思い出すには十分だった。
「夜にも、部屋に来ませんか」
明確な誘いの言葉を紡ぐ声は、これまでより小さい。
「……来たいが。……もし来れずとも、気がないのだとは思わないでほしい」
すぐ頷くところだったが、約束はできないと思いなおして留まった。務めがあれば放り出すことはできないし、また誰かに諫められる可能性も大いにある。この場でも、夜にも期待を裏切って悲しませたくないと、言葉を探して重ねれば彼は笑って深く頷いた。
「すみません、こうして来てくださっただけで嬉しいのに……欲が深くなりました」
もう片方、右手も重ねられて、何か封でもするように握られる。人と触れ合うのはこんなにもどかしいものだっただろうか。
「皆には悪いし、貴方にとってもよくないとは思うんですが――こうして日が延びるのも喜んでしまう。だから猶更、申し訳ない気がするんですねえ」
少し気弱な笑みが胸の内を引っ掻くようだ。駆られて手を握り、身を乗り出す。本当は抱き寄せたかったが、よくも悪くも卓が邪魔をした。
触れて離れる、少し強張ったような顔は昼の明るい中ではよく見えた。瞼が震え、淡い色の瞳が見上げてくる。
「お前がこの旅をよく思うなら俺も嬉しい。引率としても甲斐がある。……遅れも天運なのだろう?」
「――ええ。ちょっと困りはするかも知れないけど、悪いことにはならないものです」
微笑む顔にもう一度と触れたくなるのは堪えた。手はやがて緩んで、どちらからともなく離れた。
一人ではなく話しながらやってきた声に顔を上げる。よく知る部下の声、ヤナギだろう。聞き違いではなく、衝立の向こうを覗けば茶壷を片手に戻ってきたナラと共に彼も顔を出した。
――ススキが唇を尖らせて不満そうな顔をしたのが見えた気がした。
「すみません将軍、確認したいことが」
確かめたときにはもう人好きのする笑みを浮かべていて、ヤナギが俺を呼ぶのにそちらへと顔を戻さねばならなかったが。
「すぐ行く。――すまない、長く居すぎた」
「いいえ」
「ではまた。いってらっしゃいませ」
立ち上がり、どちらかと言えばナラに詫びて、美しく笑って会釈するのも見て部屋を出る。広間の側へと少し進んで――何も言ってこないのを訝しむ。
「用事は」
「ナラ殿が困っておりましたので、茶を飲み終わったならいいかと思い」
背後をちらと確かめたヤナギの返事にはつい、溜息が出た。
「……戻るつもりではあったんだが」
「引き留められましたか。それはしょうがない」
言い訳にも暢気に軽く笑うのが気まずい。こいつの場合は揶揄ではないが、それはそれで。
「俺は別に悪いとは思いませんよ。周りが気を揉んじまうのもそりゃあまあ、分かりますが。皆色々ありますからね」
もう彼らには知られている。窘めてくる者も、何も言わない者も居た。ヤナギの言うとおり各々の処世と忠心だろう。俺自身、先の返答を悩んだように色々を考えないではいられないが。
「楽しかったですか?」
「とてもいい時間だった」
「それはそれは、何よりです」
問いには即答だ。あれこれを差し引いてもやはり惹かれてやまない相手だ。握られた手の熱がまだ残っている。また触れたいと、思っている。
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