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三章 地獄編

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 私の名前は町中佐保まちなかさほ


 なぜか今は前世の中村八重なかむらやえの姿になっているけど、ただの一般的な普通のOLで……ひょっとしたら普通のOLでしたと過去形で言うべきなのかもしれないけれど、もはや自分でも現状に対してツッコミが追いつきません……。


「違う。姉貴が武庫川晴雨むこがわせいうなわけがない」


 七緒さんが私の事を武庫川晴雨だと言ったのを聞いた私の弟は、最初は驚愕の表情を浮かべていたもののすぐに我にかえると首を激しく振って否定した。

 小説では武庫川晴雨は男性だった。
 そう描写されていた。
 だからそれが私以外の誰かなのだと、私自身さえもそう思う以外無かった───歯抜けだった八重の記憶のせいで。

(……だけど道雄、さっき八重わたしが言っていたよね……)

 八重の意識だった私が先程口にした事を思い出す。

 それは敵がいることと、二ノ宮さんこと武庫川晴雨が術者の香りがわからないことをから聞いた、という事だ。そしてそれは本当の話で、八重の与太話ではなかった。
 八重の意識が出てきたとともに思い出した私の前世の記憶の中に、と八重が武庫川晴雨について話をした記憶が蘇っていたから間違いではない。


 今考えてもありえない記憶だ。───けれど前世で私は間違いなく私の神様に会ったのだ。

 私の神様、榛原了はいばらりょうに。

 榛原了───彼は小説家で、地獄インヘルノの作者だった。

(本来なら『先生』って呼ぶんだろうけど、八重にとっても私にとっても神様でしかないし、名前を呼ぶことすら恐れ多い……)

 前世の八重わたしは彼を崇め奉っていたと言っても過言ではなかった。榛原了の作品を知ってからずっと、彼は八重の神様だったから。

 そしてその神様は、あろう事か前世の私こと中村八重なかむらやえに、と言ったのだ。

 ……なぜ私が武庫川晴雨なのか、とか言われた経緯だとかがいまいち覚えていないのだけど、とりあえずそう言われたという事は覚えている。

 その神様と交わした会話は一度きり。だからとても貴重なはずだったのに───なのに私は今日まで榛原了とのすべてのやりとりを忘れていた。

(……忘れなければいけなかった……そうしないといけなかったような気がするような……?)

 けれど私が自分の意思で神様のことを忘れるはずがない。なのに、それでも忘れなければいけなかった理由がまさか前世であったのだろうか?

「姉貴?」

 考えごとをしている私の頭を弟が小突く。ちょうどシリアスな気持ちになってしまいそうだったので助かった。それにしても中学生の見た目のせいか弟からの扱いが雑な気がする。
 
 もう一度整理すると───八重は榛原了との会話で、小説の武庫川晴雨には他の術者を識別する香りを感じる能力が無いということ、私に対して(これはつまり武庫川晴雨である私に対して?)敵がいることを聞いたのだ。

 ただ、八重の時の私は香りを感じる事が出来た。これは神様が言う武庫川晴雨の特徴とは反する。そもそも八重自身が小説の武庫川晴雨とは違って男性でもないし年齢も見た目すら合わない。
 性別年齢外見の特徴が一致する人はどう考えても二ノ宮さんだ。そして決定的なのは彼は香りがわからない部分───でも彼の術者の名前は二ノ宮で武庫川晴雨ではない。

(……うーん、よくわからないな……)

 今はまだ判断するだけの材料が集まっていなくて特定出来ないだけなのか、それとも小説と話が違ってきているのかすらわからない。
 ただ、私が自分の術式で八重の姿になってしまっているのは現実なので、私自身がわけがわからない存在なのは間違いなかった。だけどそもそも町中佐保わたしは術者じゃない。かと言って八重だって術者でもない。どっちも普通のOLだし普通の中学生のはずだ。

「なぜ佐保が武庫川晴雨ではないと断言出来る、三国」

 忙しく考えている私に何かを言うこともなく、七緒さんは道雄に問う。なぜか七緒さんの中では私が武庫川晴雨で決定しているらしい。……あれかな、七緒さんの力を勝手に沢山使ったから理解したとかそういう事だろうか?

「それは……姉貴は何もかも武庫川晴雨とは違うからだ」
「何もかも? まるで君は武庫川晴雨を知っているようだね。協会ではその名前すら?」

 弟が舌打ちをした。つまり道雄が武庫川晴雨を良く知っている、という事を七緒さんが知ってしまったわけだ。まさか小説で読んで知ってますとは言えないので、道雄にはうまく誤魔化してもらわなくてはまずい。それにしても武庫川晴雨の名前は協会ではトップシークレットの名前だったのだろうか。確かに口に出してもロクな事にならなそうな名前だけど。

 ───けれど、ふと違和感を覚えた。
 誰も知らない、とはどういう意味なのだろう。

 七緒さんは私に『芹沢七緒』として接触した最初からその名を口にしていたはずだ。
 少なくとも七緒さんはその名を知っていた。なのに協会でその名前を誰も知らないとはどういう意味だろう。

「野口、あれを」
「承知しました。……失礼いたします、こちらをご覧下さい」


 いつの間にか七緒さんの背後に控えていた秘書の野口さんが前に出てきた。そして私たちに向かいタブレットを差し出す。

 タブレットには何かの映像が流れている。人間が二人いて、頭上からのアングルの映像だった。カメラは固定されているらしく、監視カメラの映像のようにも見える。そしてそれは、マンションのエントランスホール部分を写しているような映像に見えた。

「あれ、ここ……?」

 見覚えがある場所に私はタブレットに顔を近づけた。見れば見るほど見覚えがある。……これは私が兄と住んでいたマンションのエントランスホールではないだろうか?

 画像にうつる人間の一人が、頭上のカメラに向けて顔を上げた。その人間は髪が白く小柄な身体の少年のようにも見える───私と目があう。

(違う、カメラの向こうの人間を見ている……?)

 良く知る顔だった。
 ショートボブに、悪戯でもはじめるような表情を浮かべた少年に見える───少女。

 それは中村八重わたしだった。

 何か口を動かしていた。声は聞こえないから口を読むしかない。

「……む、こ、が、わ、せ、い、う……?」

 横で見ていた道雄が、口の動きを読んで口にしたその名前に、二人して固まってしまう。

 確かに、口は『 む こ が わ せ い う 』と動いていた。ゆっくりと、画面の向こうの人間に伝わるように。

 そうして、彼女は手にしていたカードキーをわざと床に落とす。
 口が『またね』と動く。まるで八重はこの先の未来を知っているかのように、……再び七緒さんの前にその姿を現す事を知っているかのように。


 映像から二人の人間が去る。床に残されたカードキーだけが天井のライトに照らされて光っていた───数時間後、何も知らない私がそのカードキーを拾うまで。

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