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三章 地獄編
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七緒さんへのお願いという用事が終わり、今度こそ戻ってこねーし、と言った弟の視線の先には、七緒さんと私が恋人繋ぎをしている手がある……あ、あのねっ、お姉ちゃんもこれは予想外なのとなんか怖いので、触らない騒がない方向でお願いします!───という私の意図を汲んでくれたのか、道雄はノーリアクションで居間へと戻っていった。さすがは私の弟は空気を読む。
というか、この状況で私を置いていくとはさては一人で逃げたな道雄め……。
「……あの、七緒さん……」
私の言葉に私を優しく見下ろす七緒さんの顔は綺麗だ。……怖いのに綺麗で目を逸らせない。
夕日が照らされた七緒さんの顔に誘われるように、私は恋人繋ぎをされていない方の手を彼の頬に伸ばす。
けれど頬に届く前に私の手を取った七緒さんは、手の甲にキスをした。
「……君が俺をおかしくさせるんだ」
「わ、私……?」
「君以外の人間の事では、こんなにも心は動かない」
彼の切ないため息が手にかかる。同時にわずかな彼の苦悩を感じ、私は唇を噛んだ。
「……私には、七緒さんだけです」
「君には円乗寺さんや三国がいる」
「二人は兄弟で、七緒さんとはぜんぜん違うし……」
まず、七緒さんが嫉妬をする対象ではない。次元が違う。愛情が深すぎて頭がおかしいのは否定出来ないけれど、彼らは酷いシスコンなだけで、まったくもってそういう対象ではない。
「では、晴海さんという彼は?」
これが七緒さんの本題なのだ。
なんとなく予想していたその問い。
一度その質問に答えたけれど、前世とはいえ結婚していたという情報がプラスされれば話もまた違ってくる。七緒さんの質問に、私は目をまっすぐに見てきっぱりと答えた。
「わかりません───あの頃の事はほとんど覚えていないので」
晴海さんの事を思い出したのも最近で、現時点で記憶もだいぶ歯抜けだ。今更結婚してたと知らされても、実感もなれけば想像も出来ない。
晴海さんは篤や道雄みたいに、兄弟というほど気安い関係でもなかった。けれど大切にされていたし、私も兄弟のように親愛という感情を持っていた……と思う。
けれど確実に、彼には一定の距離をとられていた気がする。例えば同じ部屋の畳の上でゴロゴロしながら互いに別々の漫画を読むだとか、ゲームを一緒にプレイするなんて事はした事はない。それは年齢が少し離れていたせいもあるし、彼の立場上そんな事が出来なかったのかもしれないけれど。
そういう距離感の晴海さんと私が、最終的にどういう関係だったのか、私が彼をどう思っていたのかは、もはや道雄が記憶の手助けでもしてくれない限りよくわからないのが正直な所だった。
「でも、私が好きなのは七緒さんだけです。誰の事も見ていません」
さすがに前世からずっと好きとは言えなかったけれど、少しでも私の気持ちが伝わればいいと思って見上げた。つがいだと考えている事が伝わると言っていたのは七緒さんだ。残念ながら私はそれがよく分からない。けれど、これは伝わるべきだと思う。
「……本当にタチが悪いな、君は」
この世で一番タチが悪そうな人そう言われてしまって納得がいかない。思わず恋人繋ぎをしている手に力が入る。
「好き……七緒さんが好き、です。大好きだから信じてください……」
これでもかと好きという言葉を浴びせると、七緒さんは目を眇めて私を見る。
「……それ、もっと言ってくれる?」
「もっと?」
「これからは、人前でも恋人同士みたいに俺に触れてそう言って欲しいな」
「ひ、人前?」
ただ言うだけじゃなくて、何故かオプションが付いた気がする。
人前で? 恋人同士みたいに触れる? つまり人前でイチャイチャして欲しいということだろうか?
「出来るだろう? なにしろ言うだけだ。君に一生を捧げている哀れな男に、たまに飴を与えてやるだけだよ。簡単じゃないか」
哀れとは程遠い表情の夫に、うすら寒いものを感じて思わず目を逸らす。
「いえあのう……簡単とか簡単じゃないとかは問題じゃなくてですね……」
「まさか俺には言いたくない? そうだとしたら残念だな」
「いえっ、けしてそんな事は……!」
「良かった。なら楽しみにしてるよ」
そう言いながら微笑んで私にキスをする七緒さんは確実に悪魔だった。
七緒さんに何かのスイッチが入ってしまった。
少なくとも一賀課長の時は人前で手なんて繋がないし、イチャイチャするのもあり得なかった。私が拒んでいたわけではなく元からそういう人だと思っていた。
……お店で私にキスしたり、部下がマンションにいる時に私にキスしてそれを部下に見られた事はあるけど、それは芹沢七緒の立場である時だったわけで───つまり芹沢の顔の時はわりと積極的なわけだけど、そうしようと積極的に提案してくるタイプではなくて。
というか私自身が今まで誰ともお付き合いした事がないのに彼はこういうタイプじゃない、とか決めつけられないわけで。既に結婚してるし、恥ずかしいとか思ってるのは私だけだったりして……世の中の夫婦はきっとこんな事当たり前で……うう、ハードル高い……
そんな事をぼんやりと考えながら、私は居間の炬燵に足を突っ込んでいた。そんな私を、部屋の隅にいる中型犬がこちらを見ながら鎮座している。
中型犬といえど部屋の中では存在感が結構あり、私はちらちらとそちらを見てしまう。犬は本家を管理人をしてくれる親戚のお宅の犬で、その家の息子さんの清史郎くんは、今瑠璃と一緒に台所で夕飯の準備をしていてくれていた。七緒さんは少し仕事が残っているのでまだ書斎にいる。
犬は私と目が合っても警戒しているのか近寄ってくる気配が無い。確か名前はウーと言ったような……。
「クウちゃん……」
思わず名前が似ている私の犬の事を思い出す。超大型犬で、フワフワの毛並みのあの犬をもう一度抱きしめたい。
「やめろ。その名前を呼ぶな。どっかから飛んで来そうじゃねーか」
「飛んでくればいいのに……ぎゅっとしたい、揉みたい、あの犬のニオイ嗅ぎたい……」
「マジでそう思うのはお前だけだからな、あんな猛犬」
同じ炬燵に足をつっこんでいる道雄は眉間にシワを寄せて言う。いくら犬と仲が悪かったとしても転生して今はもう立派な大人だというのに大人気ない男だ。
「犬?」
お茶を運んできた桜子が、私たちの会話を聞き首を傾げた。
「そう、八重の時に私が本家で飼わせてもらってた犬の事なの。人見知りがすごくて、私がいる時しか庭から出てこない犬だったから、桜子は見た事はないかも」
「……本家で何かを飼っていたのは知っていたわ。八重が亡くなってからだけど」
その言葉に、一瞬場が静まる。
台所の瑠璃と清史郎くんが夕飯を準備する音だけが聞こえた。
───あえて聞いて無かったけれど、前世で私たちが死んだ順番は、桜子が一番後だという事のようだ。
知ってしまうとやはり切ない……分かってたけど。今目の前にいるのに、ああ死んじゃったんだな……という気持ちは、諦めに近い。
「桜子、それをどうやって知った? あれは絶対に姉貴と晴海さんが居ない所には姿を現さないはずだ」
なぜか道雄が断言する。
確かに人見知り激しかった犬なので、いつも私が会いに行くまでの間はどこかに隠れていたようだった。私が死んだ後は何処へ行ったのだろうか。屋敷から外に出るルートは教えていたから知っていたはずだけど。それでも、ちゃんと屋敷から出られたのだろうかと、そんな不安で心臓がキュッとなってしまう。利口な子だったからきっと大丈夫だったはずだと、自分に言い聞かせる。
「犬自体は見ていないわ。でも、八重が……いえ、貴方たちが亡くなった後に緑川様が屋敷を調べて、それで何かを飼っていたのを知ったのよ」
緑川、とは晴海さんの部下だ。確か本家の一室に部屋を与えられていた人で、人当たりの良い人だったはずだ。
「……そうか、緑川が調べたのか。それでお前たちは何を見た?」
急に怖い表情になった道雄に、桜子は静かに首を振った。
「何も見えなかったわ。その何か……犬の記憶が、全てを邪魔してしまって」
桜子の言っている意味が分からない。
道雄を見ると、息を吐いて何やら緊張が緩んだ様子だった。知られたく無い事でもあったのだろうか。そういえば、君のエロ本のありかを暴いたのはお姉ちゃんでしたね。ごめんなさい。
「今更だけどさ、姉貴。緑川は晴海さんの部下だったんだ」
「え、ああ、うん。それは知ってるけど」
「優秀な部下だ。晴海さんの部下の中では最も力が安定していた人間だった。ベテランってやつ?」
晴海さんの仕事、それはつまり呪術の仕事で。
その部下で優秀で力が安定していた、とはつまり───……
「……緑川も、術者、みたいな……?」
「術者とはちょっと違うけどな。あいつは記憶を視るんだ。物体に記録された記憶を引き出す───その物体と接した生物の記憶を視る」
「記憶……?」
「仕事をする上で過去を正確に知ることは必要だからな」
思わずへえー、とも、ほえー、ともつかない声が漏れてしまう。
史実でも何故か途中で悪人になってしまう人間がいたりする。死者がその時の生きてる人間の都合よく改変されるのはよくあることだ。それと同じように、術者に仕事をしてくる依頼人もしくはその周りの人間が、事実とは違う事を思い混んでいたとしたら。誰かが事実を捻じ曲げていたとしたら───術者の仕事は詳しくないけれど、正確な情報がなければ正しい結果は出せないだろう。それだけじゃない、きっとそれを請け負った術者の負荷は大きい。だからこそ正確で客観的な情報はどんな仕事でも重要だ。
……桜子も道雄の話を静かに聞いている事から、どうやらその事を知らなかったのは私だけらしい。
「あの駄犬が、俺らが死んだ後に屋敷中に残った俺らの記憶を上書きをしてしまっていた、つー事だろ」
先程とは違い余裕がある表情で道雄が言う。
「ええそうよ。……結局、何があったのか真相は分からずじまい。わたくしたちが見たのは犬の記憶だけ。でも……あれは本当に犬なの? 目線が高すぎる気がするし……」
桜子の言葉に私は頷く。
「瑠璃が狐になった時とちょっと似てたけど、犬だよ。超大型でね、立つと晴海さんより大きかった」
「あら、海外の犬種?」
「うーん、どうだろう……裏山の木に毛が絡まって立ち往生していた所を拾っただけだし、犬種はちょっと分からない。利口で、なんでだか道雄と仲が悪い子でね」
「違う、犬とは仲が悪いんじゃなくて俺が一方的にあいつを嫌ってるの」
「え、そうだったの?」
「図体の割に可愛い名前つけられて、よしよしされて尻尾振ってんの見てたらイライラすんだよ」
よしよしすると尻尾振ってくれるところが愛おしいのだけど。まあ全方位で動物が可愛い人もいればそうじゃない人もいるわけで、それは強制出来ない。
道雄が拗ねたように言うのが可笑しいのか、桜子がクスクスと笑いながら尋ねた。
「可愛い名前って、どんな名前を?」
「クウ。クウクウ鳴くからだって。命名が適当すぎんだろ」
「適当じゃないよ、愛しさの塊みたいな名前じゃない。ちなみに名前にはちゃんと漢字もついてるんだけど」
「はあ? 漢字? なにそれ、俺初耳なんだけど……」
私は炬燵の机の上に置いていたスマホを手に取りメモ帳を開くと、そこに打ち込んだ名前を二人に見せる。
「クウの漢字はね───ほら、これ」
”喰う”
スマホの画面のその漢字を見た二人の顔色が変わったような気がした。
というか、この状況で私を置いていくとはさては一人で逃げたな道雄め……。
「……あの、七緒さん……」
私の言葉に私を優しく見下ろす七緒さんの顔は綺麗だ。……怖いのに綺麗で目を逸らせない。
夕日が照らされた七緒さんの顔に誘われるように、私は恋人繋ぎをされていない方の手を彼の頬に伸ばす。
けれど頬に届く前に私の手を取った七緒さんは、手の甲にキスをした。
「……君が俺をおかしくさせるんだ」
「わ、私……?」
「君以外の人間の事では、こんなにも心は動かない」
彼の切ないため息が手にかかる。同時にわずかな彼の苦悩を感じ、私は唇を噛んだ。
「……私には、七緒さんだけです」
「君には円乗寺さんや三国がいる」
「二人は兄弟で、七緒さんとはぜんぜん違うし……」
まず、七緒さんが嫉妬をする対象ではない。次元が違う。愛情が深すぎて頭がおかしいのは否定出来ないけれど、彼らは酷いシスコンなだけで、まったくもってそういう対象ではない。
「では、晴海さんという彼は?」
これが七緒さんの本題なのだ。
なんとなく予想していたその問い。
一度その質問に答えたけれど、前世とはいえ結婚していたという情報がプラスされれば話もまた違ってくる。七緒さんの質問に、私は目をまっすぐに見てきっぱりと答えた。
「わかりません───あの頃の事はほとんど覚えていないので」
晴海さんの事を思い出したのも最近で、現時点で記憶もだいぶ歯抜けだ。今更結婚してたと知らされても、実感もなれけば想像も出来ない。
晴海さんは篤や道雄みたいに、兄弟というほど気安い関係でもなかった。けれど大切にされていたし、私も兄弟のように親愛という感情を持っていた……と思う。
けれど確実に、彼には一定の距離をとられていた気がする。例えば同じ部屋の畳の上でゴロゴロしながら互いに別々の漫画を読むだとか、ゲームを一緒にプレイするなんて事はした事はない。それは年齢が少し離れていたせいもあるし、彼の立場上そんな事が出来なかったのかもしれないけれど。
そういう距離感の晴海さんと私が、最終的にどういう関係だったのか、私が彼をどう思っていたのかは、もはや道雄が記憶の手助けでもしてくれない限りよくわからないのが正直な所だった。
「でも、私が好きなのは七緒さんだけです。誰の事も見ていません」
さすがに前世からずっと好きとは言えなかったけれど、少しでも私の気持ちが伝わればいいと思って見上げた。つがいだと考えている事が伝わると言っていたのは七緒さんだ。残念ながら私はそれがよく分からない。けれど、これは伝わるべきだと思う。
「……本当にタチが悪いな、君は」
この世で一番タチが悪そうな人そう言われてしまって納得がいかない。思わず恋人繋ぎをしている手に力が入る。
「好き……七緒さんが好き、です。大好きだから信じてください……」
これでもかと好きという言葉を浴びせると、七緒さんは目を眇めて私を見る。
「……それ、もっと言ってくれる?」
「もっと?」
「これからは、人前でも恋人同士みたいに俺に触れてそう言って欲しいな」
「ひ、人前?」
ただ言うだけじゃなくて、何故かオプションが付いた気がする。
人前で? 恋人同士みたいに触れる? つまり人前でイチャイチャして欲しいということだろうか?
「出来るだろう? なにしろ言うだけだ。君に一生を捧げている哀れな男に、たまに飴を与えてやるだけだよ。簡単じゃないか」
哀れとは程遠い表情の夫に、うすら寒いものを感じて思わず目を逸らす。
「いえあのう……簡単とか簡単じゃないとかは問題じゃなくてですね……」
「まさか俺には言いたくない? そうだとしたら残念だな」
「いえっ、けしてそんな事は……!」
「良かった。なら楽しみにしてるよ」
そう言いながら微笑んで私にキスをする七緒さんは確実に悪魔だった。
七緒さんに何かのスイッチが入ってしまった。
少なくとも一賀課長の時は人前で手なんて繋がないし、イチャイチャするのもあり得なかった。私が拒んでいたわけではなく元からそういう人だと思っていた。
……お店で私にキスしたり、部下がマンションにいる時に私にキスしてそれを部下に見られた事はあるけど、それは芹沢七緒の立場である時だったわけで───つまり芹沢の顔の時はわりと積極的なわけだけど、そうしようと積極的に提案してくるタイプではなくて。
というか私自身が今まで誰ともお付き合いした事がないのに彼はこういうタイプじゃない、とか決めつけられないわけで。既に結婚してるし、恥ずかしいとか思ってるのは私だけだったりして……世の中の夫婦はきっとこんな事当たり前で……うう、ハードル高い……
そんな事をぼんやりと考えながら、私は居間の炬燵に足を突っ込んでいた。そんな私を、部屋の隅にいる中型犬がこちらを見ながら鎮座している。
中型犬といえど部屋の中では存在感が結構あり、私はちらちらとそちらを見てしまう。犬は本家を管理人をしてくれる親戚のお宅の犬で、その家の息子さんの清史郎くんは、今瑠璃と一緒に台所で夕飯の準備をしていてくれていた。七緒さんは少し仕事が残っているのでまだ書斎にいる。
犬は私と目が合っても警戒しているのか近寄ってくる気配が無い。確か名前はウーと言ったような……。
「クウちゃん……」
思わず名前が似ている私の犬の事を思い出す。超大型犬で、フワフワの毛並みのあの犬をもう一度抱きしめたい。
「やめろ。その名前を呼ぶな。どっかから飛んで来そうじゃねーか」
「飛んでくればいいのに……ぎゅっとしたい、揉みたい、あの犬のニオイ嗅ぎたい……」
「マジでそう思うのはお前だけだからな、あんな猛犬」
同じ炬燵に足をつっこんでいる道雄は眉間にシワを寄せて言う。いくら犬と仲が悪かったとしても転生して今はもう立派な大人だというのに大人気ない男だ。
「犬?」
お茶を運んできた桜子が、私たちの会話を聞き首を傾げた。
「そう、八重の時に私が本家で飼わせてもらってた犬の事なの。人見知りがすごくて、私がいる時しか庭から出てこない犬だったから、桜子は見た事はないかも」
「……本家で何かを飼っていたのは知っていたわ。八重が亡くなってからだけど」
その言葉に、一瞬場が静まる。
台所の瑠璃と清史郎くんが夕飯を準備する音だけが聞こえた。
───あえて聞いて無かったけれど、前世で私たちが死んだ順番は、桜子が一番後だという事のようだ。
知ってしまうとやはり切ない……分かってたけど。今目の前にいるのに、ああ死んじゃったんだな……という気持ちは、諦めに近い。
「桜子、それをどうやって知った? あれは絶対に姉貴と晴海さんが居ない所には姿を現さないはずだ」
なぜか道雄が断言する。
確かに人見知り激しかった犬なので、いつも私が会いに行くまでの間はどこかに隠れていたようだった。私が死んだ後は何処へ行ったのだろうか。屋敷から外に出るルートは教えていたから知っていたはずだけど。それでも、ちゃんと屋敷から出られたのだろうかと、そんな不安で心臓がキュッとなってしまう。利口な子だったからきっと大丈夫だったはずだと、自分に言い聞かせる。
「犬自体は見ていないわ。でも、八重が……いえ、貴方たちが亡くなった後に緑川様が屋敷を調べて、それで何かを飼っていたのを知ったのよ」
緑川、とは晴海さんの部下だ。確か本家の一室に部屋を与えられていた人で、人当たりの良い人だったはずだ。
「……そうか、緑川が調べたのか。それでお前たちは何を見た?」
急に怖い表情になった道雄に、桜子は静かに首を振った。
「何も見えなかったわ。その何か……犬の記憶が、全てを邪魔してしまって」
桜子の言っている意味が分からない。
道雄を見ると、息を吐いて何やら緊張が緩んだ様子だった。知られたく無い事でもあったのだろうか。そういえば、君のエロ本のありかを暴いたのはお姉ちゃんでしたね。ごめんなさい。
「今更だけどさ、姉貴。緑川は晴海さんの部下だったんだ」
「え、ああ、うん。それは知ってるけど」
「優秀な部下だ。晴海さんの部下の中では最も力が安定していた人間だった。ベテランってやつ?」
晴海さんの仕事、それはつまり呪術の仕事で。
その部下で優秀で力が安定していた、とはつまり───……
「……緑川も、術者、みたいな……?」
「術者とはちょっと違うけどな。あいつは記憶を視るんだ。物体に記録された記憶を引き出す───その物体と接した生物の記憶を視る」
「記憶……?」
「仕事をする上で過去を正確に知ることは必要だからな」
思わずへえー、とも、ほえー、ともつかない声が漏れてしまう。
史実でも何故か途中で悪人になってしまう人間がいたりする。死者がその時の生きてる人間の都合よく改変されるのはよくあることだ。それと同じように、術者に仕事をしてくる依頼人もしくはその周りの人間が、事実とは違う事を思い混んでいたとしたら。誰かが事実を捻じ曲げていたとしたら───術者の仕事は詳しくないけれど、正確な情報がなければ正しい結果は出せないだろう。それだけじゃない、きっとそれを請け負った術者の負荷は大きい。だからこそ正確で客観的な情報はどんな仕事でも重要だ。
……桜子も道雄の話を静かに聞いている事から、どうやらその事を知らなかったのは私だけらしい。
「あの駄犬が、俺らが死んだ後に屋敷中に残った俺らの記憶を上書きをしてしまっていた、つー事だろ」
先程とは違い余裕がある表情で道雄が言う。
「ええそうよ。……結局、何があったのか真相は分からずじまい。わたくしたちが見たのは犬の記憶だけ。でも……あれは本当に犬なの? 目線が高すぎる気がするし……」
桜子の言葉に私は頷く。
「瑠璃が狐になった時とちょっと似てたけど、犬だよ。超大型でね、立つと晴海さんより大きかった」
「あら、海外の犬種?」
「うーん、どうだろう……裏山の木に毛が絡まって立ち往生していた所を拾っただけだし、犬種はちょっと分からない。利口で、なんでだか道雄と仲が悪い子でね」
「違う、犬とは仲が悪いんじゃなくて俺が一方的にあいつを嫌ってるの」
「え、そうだったの?」
「図体の割に可愛い名前つけられて、よしよしされて尻尾振ってんの見てたらイライラすんだよ」
よしよしすると尻尾振ってくれるところが愛おしいのだけど。まあ全方位で動物が可愛い人もいればそうじゃない人もいるわけで、それは強制出来ない。
道雄が拗ねたように言うのが可笑しいのか、桜子がクスクスと笑いながら尋ねた。
「可愛い名前って、どんな名前を?」
「クウ。クウクウ鳴くからだって。命名が適当すぎんだろ」
「適当じゃないよ、愛しさの塊みたいな名前じゃない。ちなみに名前にはちゃんと漢字もついてるんだけど」
「はあ? 漢字? なにそれ、俺初耳なんだけど……」
私は炬燵の机の上に置いていたスマホを手に取りメモ帳を開くと、そこに打ち込んだ名前を二人に見せる。
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