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三章 地獄編
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しおりを挟む夢を見た。
夢だと分かったのは、私が佐保のまま、濃紺の紬の着物姿の晴海さんの前に立っていたからだ。
なぜ私自身が佐保だと認識出来たのかというと、自分の視界に肩から垂れる自分の焦げ茶のセミロングの髪が目に入ったのと、スカートを履いていたから。
八重は焦げ茶でもセミロングでもない短い髪だったし、スカートは穿かなかった。
(……違う、穿かなかったんじゃない)
八重は髪の毛は伸ばしてはいけなかった。
スカートも穿いてはいけなかった。
なぜなら───……………なぜなら、なんだっけ……?
「今、幸せ?」
あの頃と変わらず着物姿の晴海さんが私に問う。
私は頷いた。なぜか声が出せなかったから首だけ動かした。
「良かった」
晴海さんは微笑む。
優しい顔で、けれどどこか少し複雑そうな顔。
「……リョウがそろそろ寂しがっている頃だ。たまには顔を見せてあげて」
リョウ?
誰の事だろう。
首を傾げる私を見て、晴海さんは笑みを深めた。
「君が大好きなリョウだよ」
リョウ、という名前の知り合いがいたのかどうか思い出せない。けれど晴海さんの口調だと晴海さんととても親しい人のようにも感じる。
私は声が出ないまま、晴海さんに視線で問いかけた。
「ああそうだ……目が覚めたら、プリンがあるよ」
プリン?
プリンとは食べ物のプリンのことだろうか?
そして晴海さんは何を言っているのだろう。
混乱していると、晴海さんは笑いながら私に背を向け歩き出した。
……待って、晴海さん。
まだ話したい事がある。
まだ聞いてない事もある。
「晴海さん、待っ───」
声が出たと思ったら、私は布団の上に座っていた。
部屋の外の雀の鳴く声と、障子から入る日の光からもう朝なのだとわかる。
和室の布団の上に、私は一人。
周りを見回してみると、いるはずの七緒さんの姿がどこにもない。七緒さんが寝ていたはずの隣に敷かれた布団は乱れもなく整えられていて、気配すら残っていないように見える。
(昨夜七緒さんに会った事は夢だったとか……?)
夢から目が覚めた気がしないまま立ち上がる。けれど身体中がひどい筋肉痛で、夢ではない事を確信した。何よりに首の一部分がヒリヒリする。そこは間違いなく七緒さんに噛まれた部分だ。
昨晩……後半はもう記憶が無い。
思い出せるのは、汗ばんだ肌。乱れた髪、吐息、私を掴む手のひらの熱さ。
何度もキスされて、キスして───思い出すと心拍数が上がってしまう。
柱にかけてある時計を見ると六時前だった。
朝食は管理人のおば様が自宅で作って持って来てくれるとの事で、母屋で皆と朝食を食べるのは少し遅めの八時頃の予定で、朝食までまだ時間がある。
「とりあえず、お風呂入ろ……」
昨晩の様子が色濃く残ったこの状態で、皆の前に出て行くわけにはいかない。
私はギシギシと筋肉痛で痛む身体を無理矢理動かして浴室に向かった。
朝食集合時間の八時にはまだ早いものの、母屋へ上がった私は風呂上がりの飲み物を求めて台所に向かう。離れには飲みものが置かれていなかったからだ。
「おはよう佐保、早いわね」
台所の椅子に座っていた瑠璃が、読んでいた雑誌から顔をあげて言った。そう言う瑠璃はメイクもヘアスタイルも朝からバッチリだ。
「おはよう、瑠璃。朝風呂入ったら喉が乾いちゃった。何か飲みものある?」
「確かお茶とジュースなら冷蔵庫に入ってたわね」
「じゃあお茶貰おうかな」
言って冷蔵庫を開けると、中に白い紙箱が入っていた。ケーキ屋で持ち帰り用に入れてもらうあの白い箱だ。
「これケーキ?」
「プリンよ。昨日、四ツ谷のお嬢様が手土産に持ってきたの。意外にあの子、律儀な子なのねえ」
瑠璃が感心したように言う。
……けれど私はそれどころではなかった。
(なんで……なんで?)
「プリン、佐保の好物なんだって? 四ツ谷のお嬢様がそう言ってたわ」
「え、あ……うん」
結局私は飲み物も取り出さず冷蔵庫を閉めた。
プリン。それは確かに私の好物だ。
四ツ谷玲子こと桜子は、私の好きな食べ物を知っている。昔からの付き合いだからそれは当然だ。
けれど、問題はそこではない。
「ところで……七緒さん今どこにいるか知ってる? 朝起きたらいなくて。荷物は置いてあるんだけど、ここ電波入らなくてスマホ使えないし」
話題を変えたくて瑠璃にそう尋ねた。
けれど話しながら、電波が入らないという状況はホラー小説的にロクな展開にならないのではと急に怖くなってくる。何しろ私はモブ。主人公は絶対死なないけれど、モブというものは真っ先に殺られるものではないでしょうか?
我ながらこの怖い考えは、自分だけでは打ち消せそうになかった。
「芹沢様なら朝早く出掛けたわね。朝食前には戻るって言ってたけど」
「……そんな……すぐに帰ってきてほしい……!」
「あら~、そうよね、新婚だものねえ? 少しでも離れるとやっぱり寂しくなっちゃうわよね?」
ぐふふ、と瑠璃は雑誌で口元を隠しながら笑う。多分彼女と私が考えている事は天と地ほどに違うのだけれど、今はそういう事にしておこう。
「でも大丈夫、敷地の中にはいる筈よ。芹沢様の気配は遠くないから」
「そう……」
狐だという瑠璃は人とは違う感覚があるらしい。もっとも、芹沢七緒の部下なのだから普通ではないのは当然の事かもしれない。
───けれど、その芹沢七緒の妻だという私には、今現在七緒さんがどこにいるのか知る能力すらない。他にそれっぽい能力も無いし、いつか本気出して何かしらの能力が開花する事を期待したいところだけれど、少なくとも小説内で町中佐保にはそんなファンタジー要素は付加されていなかった。
きっと私は最初から不思議な能力といったものは持ち合わせていない。そして今後も。
私は桜子が持ってきたプリンの存在は知らなかった。知らないプリンが在る事を、夢で知るような能力は無いはずだ。
私自身に能力が無いと仮定するならば───私の夢に外部からの介入の可能性を考えるしかない。私ではない誰かが、私の夢に入ってきた。何かを伝える為に。
「大丈夫よ」
冷蔵庫の前で黙り込んだ私に瑠璃が言う。
それはなにもかも理解している表情だった。
「大丈夫って……?」
まさか、私の夢に入ってきた誰かを瑠璃は知っているのだろうか。狐で不思議な力を持つ彼女なら、わかってしまうのだろうか───
「芹沢様の気配、こっちにはまだ向かってないから、今プリンを食べてもバレないわよ」
グッと親指を立てて言う瑠璃。
───どうやら私が朝食前にプリンが食べたくて葛藤しているように見えたらしい。完全に勘違いしている。私はそこまでプリンが大好きなわけではない。
けれど、それでも瑠璃の言葉は私を安心させた。急に肩の力が抜ける。
……そうだ、瑠璃もいるし七緒さんも敷地内にいるらしいし、今心配するような事は何も無い。
「…………あのさ、プリン、二つ食べていいかな?」
「可愛く聞いてもダメよ。プリンは一人一個まで!」
その後、瑠璃とプリンで騒いでいるところに、桜子が呆れた顔をして台所に顔を出し、より一層台所が騒がしくなったのは言うまでもない。
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